rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

赤頭巾ちゃん気をつけて / 庄司薫

 佐々木敦による、日本文学史を解説する本『ニッポンの文学』を当面のブックガイドとして読書していこうと思いついた。

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 その中で最初に解説されるのが村上春樹であり、その次が本作『赤頭巾ちゃん気をつけて』だった。

 村上春樹はほぼ全作読んでいるので、庄司薫を読むことにした。


 村上春樹より以前に、語り手の主語に「ぼく」を用い、砕けた口語調の小説を書いた、という文脈で紹介されることが多い本作。

 逆に言うとそれ以外の文脈で日本の文学史に位置づけられることがあまり無いように見受けられる。『ニッポンの文学』においてもだいたいそのような扱い。

 読む前の、個人的な本作に対する印象も、あまり良いものではなかった。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて(特に野崎孝による訳版)』との類似が指摘されていたから。


 実際に読んでみると、これはもうほとんどパロディレベルで『ライ麦畑』に似ている。

 ただ語り口が似ているだけでなく、登場するモチーフが共通しまくっている。成熟を拒否する少年、性的な危機、友人との葛藤、そして最後は幼い子どもに救われる。似ていないという方が無理がある。これを「似ていない」と言っていた一部の昔の人は、ちゃんと両方の小説を読んだんだろうか? という疑問すら湧いてくる。

 とはいえパクリ=悪と短絡的に言いたいわけではない。ある作品が過去の作品に影響を受けるのはごく当たり前のことだ。あくまで語り口とモチーフが似ているだけで法律上の模倣にも当たらないだろう。『ライ麦畑』にしてもチャールズ・ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』への目配せが含まれているという説をどこかで見たことがある。模倣とは全く話が異なるが。

 例えばアメリカンコミックスには「スパイダーマンが日本に生まれていたら」みたいなスピンオフ作品がある。本書も「もしホールデン・コールフィールドが日本に生まれていたら」という作品として読めば興味深いし、流行小説になったということはそのような精神性の作品が日本人に求められていたとも考えられる。

 ただ当の作者が「ライ麦畑」から影響を受けた事実を一切認めていないという点には、個人的にどうしても拭えない不信が残ってしまう。それこそ村上春樹は「ライ麦畑」含め様々な影響を受け、翻訳などもしており、その影響を認めている。大ヒット作の「美味しいところ」を持ってきた小説を書くなんてことも(おそらく)していない。


 もうひとつ、本作には「隠されてること」がある。それは作中に登場する「先生」に丸山眞男という明確なモデルがいること。2012年の新潮文庫版の解説などでは明かされていることだが。作中で急に「荻生徂徠」なんかの名前を出てくるのもその影響であるようだ。

 当時東大教授だった政治学者の丸山眞男は日本政治思想史において多大な業績を挙げたものの、1960年代後半になると全共連の学生、つまり本作に登場するような「ゲバ棒を持った学生運動家」に激しくバッシングされるようになったらしい(Wikipedia情報)。そして本作の作者は丸山眞男の下で政治学を学んだそうだ。

 そう考えると1969年に発表された本作は、丸山眞男的な思想(「自由で伸びやかな知性」がどうのこうの)を擁護し、応援するための小説なのではないか、と思えてくる。自分は丸山眞男の思想には明るくないのでハッキリしたことは言えないけれども。


 では本作は具体的にどのような小説なのか。

 まず間違いないことは「エリートの苦悩」を描いたものであること。

 当時東大進学率トップクラスだった日比谷高校に通う主人公の「ぼく」こと庄司薫(作者の筆名と同じ)。東大が学生運動の影響を受け入試受付中止になってしまい、進路に悩んだ彼は、大学自体に入ることをやめようと考えるが、それを周囲に打ち明けられずにいる。

 彼のエリートぶりは目を見張るばかりで、まず幼馴染の由美との最初の会話が古代ギリシャの哲学者エンペドクレスの死についてであることからも、そのインテリぶりが伝わってくる。将来は大蔵省(現在の財務省)あたりに行くのではないか、などと周囲には目されている。

 由美との関係は喧嘩をしながらも良好であり、そんな中で近所の女医には誘惑されたり、当時流行のいわゆる乱痴気パーティーに出かけたりするも、なんとなく幼馴染への操を立てるような気持ちになり女性経験は無し。まるでギャルゲーの主人公。

 裕福な家の5人兄弟の末っ子で、家にはお手伝いさんもいる。両親も比較的進歩的な考えを持ち、これといった抑圧もない。

 しかしこのままエリートの道を邁進するだけでいいのか? と悩み続ける。決められたレールに乗るだけでいいのか。それよりももっと自分を世の中の役に立てる方法があるんじゃないか。

 「先生」のような「本当の知性」を持った人間になるのもいい。ゲバ棒を持った学生たちも時にかっこよく見える。何もかもを憎んで壊してしまいたくなる時もあるし、全てを守れるような強い力が欲しくなる時もある。

 そのような若者の心の動きを描いた小説としては、確かに本書は優れていると思う。軽妙な語り口と相まって当時の流行小説になった理由もわかる。

 その語り口についてだが、現在の感覚で言えば冗長で読みにくいと感じるかもしれない。

 中公文庫の解説によると固定電話が普及した「電話世代」の語り口らしいが、現代のスマホ世代の若者は言葉遣いもタイパ(タイムパフォーマンス)が命。「それな」「りょ(了解)」「~まである(かもしれない)」「あーね(あーなるほどね)」「とりま(とりあえずまぁ)」など、どんどん言葉が短くなっている。それももう古くなっている気もするけども。


 そんな「ぼく」が本作でたどり着いた結末に関しては、読者である自分としては大いに懸念せざるを得ないものだったりする。

 自分の解釈が間違っていたら申し訳ないのだが、本作で「ぼく」が出した結論は「知性の正しい使い方は、幼い子供を助けたり、幼馴染を守ったりすることで、そのために自分は大きな男にならなければいけない」というようなものだ。

 あまりにマッチョ思想が過ぎないだろうか。

 昔の小説だからしょうがない、と思うかもしれないが、じゃあ夏目漱石や太宰治がそんな小説を書いたかと言うともちろんそんなことはない。どちらかというと「強い男」がもてはやされたのは戦後世代に顕著な傾向なのではないかと自分は考えている。

 昔、といっても平成後期頃の話だけれど、懐古趣味の家族が加山雄三の「若大将シリーズ」や石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」のような映画をよく観ていた。その空気感に似たものを、この小説からも感じた。

 「主人公がマッチョだからダメ」などと短絡的なことを言いたいわけではない。四部作の一作目である本作は、そんな「ぼく」のマッチョがどのような推移をたどるのだろうか? というところで終わる。続きを読めばその末路がわかるのかもしれないし、わからないのかもしれない。

 しかし少なくとも本作のネタ元である『ライ麦畑』が、イノセントな人がイノセントゆえに敗北していくような物語だったことに比べると、本作のテーマはそれとは対象的なものであるように思える。

 なんなら「丸山眞男の思想ってそんなにマッチョなのか?」とすら思えてしまう。サリンジャー的な軽妙な語り口によって丸山眞男の思想を大衆に布教することが本作の企図だったのではないか? と邪推してしまったりもする。実際どうだかわからないけれども。

 ついでに言えば、著者自身のあとがきや文庫版の解説者の語り口から、「世の中は全然ダメで、頭の良い自分はそれがわかっている」みたいな古き悪しきエリート意識がにじみ出てしまっているように感じられるのは自分だけだろうか。


 1980年代頃まで大学生の愛読書だったらしい本作だが、昨今ではそのような扱いも無くなったらしい。とはいえ、昔はこういう小説がもてはやされていたんだな、ということを知る意味では読む価値はあるだろう。

方舟さくら丸 / 安部公房

 安部公房の小説。第一印象だけで言うならば、やや読むのが苦痛な小説ではあった。あまり必要性の無い冗長なシーンが多かったように感じた。

 しかし最後まで読み通すことで、相応の深みや重みを感じた。人間の実に嫌な面。そして結末に向けて集約されていく因縁。そういったものを描いて印象深い小説だった。


 「もぐら」を自称する男は、採石場の跡地である洞窟を核戦争から生き延びるための「方舟」と称し、シェルター化している。

 方舟の乗組員としてデパートの見本市で出会った「昆虫屋」、その「サクラ」と連れの「女」を(半ば偶然的な形で)勧誘するところから物語は始まる。


 小説発表当時の昭和59年(1984年)は東西冷戦下。核戦争の脅威が今よりもずっと庶民的なものだったらしい。

 しかしだからもぐらが本心から核戦争の危機に備えていたかというと、それは限りなく怪しく見える。彼は違法な化学物質や動物の死体などを、採掘場にある便器に流す仕事を秘密裏に行って生計を立てている。要するに不法投棄である。ならず者の昆虫屋やサクラの目的も、方舟を隠れ家として利用することにあると見える。

 そのことを仲間の誰もが半ば公然に認めつつ、同時にあくまで「核シェルター」という体裁を保ち続ける。傍から(読者から)見れば自己欺瞞であり、端的に言ってちょっとイカれた人たち、少なくともはみ出し者であることは間違いない。時に滑稽ですらある。

 じゃあ今現実に生きている我々がそのような二重の見解、見当識を持っていないか、というとそんなことはない。明日死ぬかもしれないのにそのことを忘れて生きている。なのに賞味期限が切れた納豆をおっかなびっくり食べたりしている。だから本作の登場人物の滑稽さは読者自身にも返ってくるものだ。

 もぐらの数々の「童貞ムーブ」も同様で、口では大層なことを言うくせにその妄想はエロ漫画(当時の言葉で言えば「ポルノ」だろうか)じみていて、そのギャップが良い意味での小説的「嫌さ」を産んでいる。

 女は女で、おそらくならず者としての処世術としてもぐらの童貞心を刺激する。現代エンタメ作品では有り得ないキャラ造形だが、おそらく「昭和だから許された」というようなものでもないと思われる。嫌だなぁ、この人たち。

 ユープケッチャという昆虫(昆虫屋が商売のためにでっちあげたと思しき)の称揚には、もぐら自身の自足的な生への憧れ、シェルターというものへの憧れがにじみ出ている。

 それらのことが明らかになるのが終盤での「副官」との対面。もぐらが持つ固執をより肥大化させ(生存者の選別、女子中学生狩り)、実際的にし(「ほうき隊」という実働的組織)、前時代的にした(軍人的なふるまい)ような存在。それが副官だ。

 方舟という閉鎖空間の中で、副官という己の鏡像と出会ったもぐらは、そこから脱出しようとする。なんだか神話的だ。自分は村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を想起した。

 あるいは『箱男』や『砂の女』など「閉じこもっていく物語」を描いてきた著者からすれば、今までにない新たな方向性だったのかもしれない。安部公房はあまり追っていないからわからないけれども。


 「方舟さくら丸」という、日本を象徴する花のさくらを冠したタイトルには「日本版ノアの箱舟」といった響きがある。

 しかし実際は「もしサクラ(登場人物)がリーダーになったらこの船は『方舟さくら丸』になるだろう」という話題としてチラッと出るだけで、読者は肩透かしを食らった気分になるかもしれない。その肩透かしも読後は登場人物たちの自己欺瞞にふさわしいものに見えてくる。

 さくら(花)とサクラ(客のふりをして買い物し、他の客を誘導する)をダブルミーニングにしたあたりに、作者の日本的なものへの当てこすりのも感じられる。「オリンピック阻止同盟」なるものも登場してくるし。あるいは当初はサクラをリーダーにするストーリー構想があったのだろうか。

 もぐらを長年煩わせていた父「猪突(いのとつ)」は終盤で突然退場してしまう。その死の詳細も物語的な意味も明かされないまま終わってしまう。ここはさすがにちょっと消化不良感があった。

 果たしてもぐらがいなくなった後の方舟はどうなるのだろう? 仲間割れをして自滅か。あるいは出口を見つけて悪の巣窟になるか。まぁきっとロクなことにはならない。


 作中に立体視を出すなど(ちなみに自分は平行法が苦手なのであまり上手く視えなかった)、全体に著者の趣味が反映されており、そこにどこまで付き合えるかで本作の楽しさは変わるかもしれない。

 しかしそういった要素を抜きにしても、本作が投げかけてくるものには普遍性がある。人間の嫌さを見せてくれる。今もどこかに現代の方舟さくら丸があるんじゃないか、と思わされるし、誰の心にもユープケッチャがいるんじゃないかと思わされる。

独学大全 / 読書猿

 勉強をしたいな、という風潮が自分の中で高まっている。全然関係ないけど昔ネットミームで「大仏建立の機運が高まっている」っていうのが流行ったなぁ。本当に関係ない。

 大人になると勉強したくなる、という現象が「あるある」になったのはいつの時代からなのだろう。あるいは人類の起源からあるあるなのかもしれない。


 そんな自分が頼ったのが『独学大全』。以前読んだ『ライティングの哲学』の著者の一人である読書猿氏が「主著」として自ら位置づけている本。

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 まず分厚い。一般サイズの国語辞典より分厚い。752ページの本文に、34ページの索引付き。

 その膨大なコンテンツには「独学」にまつわる(おそらく著者が持てる限りの)あらゆるノウハウが、55の技法として詰め込まれている。

 単なる「勉強法」ではないし、「毎日1ページでもやれ」みたいな精神論でもない。いや、それらも含んではいるが、もっと広範囲、かつ学問的に裏打ちされた内容となっている。独学についての本だけあり(おそらく)著者が独学によって得た知の足場の上に立っている。


 独学とは一人で勉強することであり、学校や教師、コーチなどに頼らずに何かを学ぶこと。なので読書会なども独学に含まれる。

 勉強というと多くの人は受験や資格のためにするものイメージするだろう。本書における勉強もそれらを含んでいるが、もっと広い意味で「知を身につけること」が本書における勉強や学びが意味するところである。

 独学はいつでもどこでも始められる。学びを強制する人はいない。しかし学びを支援してくれる人もいない。やめるのも自由。そして再開するのもまた自由。それが本書における独学の精神でありテーマである。


 まず第1部で紹介される第1の技法は「学びの動機づけマップ」。

 なぜ自分は学びたいのか? その動機を、自分の過去の記憶を思い出しながら、マインドマップの形で記録しろ、というもの。この時点で多くの勉強法の本とは目のつけどころが違うことがわかる。

 勉強法といえば多くの人が「どうやって独学するのか?」というハウツーを期待するだろう。しかし本書はそれよりも手前の「なぜ独学するのか?」というステップまでをカバーしているのである。

 しかもただ「自分の動機を思い出せ」などとと抽象的なことを言うのでなく「一定の方法に則って書き記せ」と説く。

 そしてその動機の具体的な内容については、例えば「子どもの頃のことを思い出せ」などと著者の思想に基づいた限定的なことを言うのではなく、ゼロから自分で考えることが推奨される。これもまた自由という独学の精神に則っている。


 その後は、学習の計画を立てる方法や、なかなか手が出ない勉強に着手する方法、時間配分の仕方(有名なポモドーロ・テクニックなど)を紹介。

 第2部では学ぶための図書館やインターネットを利用した情報収集の方法を紹介。第3部に入ってようやく具体的な勉強法として読書術や記憶術について詳説。そして第4部では国語、英語、数学の学習の流れを物語形式を交えながら実践的に描いている。

 全ての技法の紹介に歴史的裏打ちや学術的引用が付随していて説得力がある。全部の技法を詳しく読んでいると流石に時間がかかりすぎるので、特に後半のものはサラッと読むに留めた(本書の技法で言えば「掬読(きくどく)」した)が、それでも勉強に有用な知見を得られたと感じる。実際に有用かどうかはこれから自分が勉強する上でわかってくることだろうけども。


 本書を読んで最初に思ったのは「なんで著者はこんなに自分を痛めつけてまで学ぶのだろう」だった。『ライティングの哲学』を読んだときから感じていた。

 と、同時に「すごくよくわかる」と思う自分もいた。

 誰だって、できることなら「知らない人」よりも「知っている人」でありたいと思うだろう。そこで著者は前者を選んだ。

 あるいは無知であることで恥をかきたくない、賢人となって他人を見返したい、という動機もあるだろう。著者もそれは隠そうとしていない。

 人類がその歴史の中で生み出してきた膨大な量の知。それに少しでも多く触れるためには、どんなに時間があっても足りはしない。

 だから1秒でも無駄にはできない。馬車馬のように走り続けなければならない。

 学ぶことはひたすらに地道な作業だ。ひとつずつの事柄を順番に頭に入れていくしかない。先述の『ライティングの哲学』の著者の一人である千葉雅也氏はこうツイートしている。


 翻って自分はというと、このブログを読んでいただけばわかる通り、読みたい本を適当に読み、特に資料なども用意せず感想を書き散らしてきた。それ以外の「勉強」は学生以来まともにやっていない。

 最近になって「哲学の入門書の内容を手書きのノートにまとめる」という勉強をやり始めた。そのこともあって本書をひもといたわけだが、その勉強も日々の色々に押し流されてなかなか進まない。

 そんな自分が本書の感想を書くことじたいおこがましいと感じる。


 無知は恥。賢い人は偉い。そしてこの「おこがましい」という感覚。要するに、知は知であると同時に、権威でもある。

 なぜ知が権威かといえば、知には現実改変力があるから。いや決してスピリチュアル的な話ではなく、実際的に人や物を動かす力が知にはある。会社を回すにも、建物を建てるにも、知は欠かすことができない。

 だからこそ、ある種の人は自分が持てない知を恐れる。「インテリぶって偉そうにするな」と怒る人がいるのは、必死の防衛本能なのである。独裁者が本を焼くのも、本質は刀狩りと同じだ。

 本当に知が望ましいものであるなら、もっと国を挙げて勉学を推奨しても良いはずだ。なのにそうなっていないのはなぜか。勉強なんてしても世の中の役に立たない、金儲けにならない、と言う人がいるのはなぜか。

 確かに力は単に力であって、常に役立つとは限らない。然るべきときに然るべき場所にあって初めて役に立つ。むしろ社会を破壊してしまうかもしれない。金儲けの前提である経済そのものをぶっ壊してしまう。知にはそんな力もある。

 その力を恐れているのかもしれない。為政者か、あるいは人々の無意識が。


 その意味で独学とは、個人が独力でパワーアップする方法だと言える。そして本書は知を得るための知、力を得るための力の結晶だ。

 力を得るためには代償を支払わなければいけない、というのは古今の物語が語るところ。知を得るためには、一分一秒という時間も知に捧げなければならない。

 自分のようにその覚悟が持てずにいる人間でも、知的活動を始めるのであれば、まずどこからかなにかを始めなければいけない。

 始めなければ始まらない。トートロジーではあるが、何かを始めることができずにいる人間にとっては痛切な事実。

 本書はその始まりのきっかけのひとつとして最良の本であるように思う。


 などとまた思いつきでいろんなことを書いてしまった。

 もっといっぱい勉強して知識に裏打ちされた文章を書けるようになりたいなぁ。

 そんな人には本書『独学大全』がオススメ。

モナドの領域 / 筒井康隆

佐々木敦『筒井康隆入門』を読む
→その中に登場した「パラフィクション」の概念に興味を持ち、『あなたは今、この文章を読んでいる』を読む
→筒井康隆がパラフィクションの実践(?)として書いた本書『モナドの領域』を読んだ←イマココ

 と、そんな読書履歴を踏んできた。

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 そんな風に系統立てて本を読むことはあまりないのでどんな風に感想を書けばいいのか迷っている。

 なにより自分はパラフィクションという文学的概念を十全に把握できているわけでもない。自分に「文学的概念」なんてものを扱える自信も、それに必要な教養も無い。

 映画好きがシリーズ映画を観る。アニメ好きがアニメをシーズン通して見る。そんなノリで「パラフィクション」にまつわる本を続けて読んできた、ただの読書好きに過ぎない。

 なのでそういった周辺情報は抜きにして、まずはひとつの小説としての本書の感想を書いていこうと思う。


 河川敷で女性の片腕が発見され、警察が捜査を開始する。

 同じ頃、なぜかその片腕そっくりのパンを、街のベーカリーで、アルバイトの美大生が焼き上げる。

 さらにそのベーカリーに毎朝通っていた美大の教授が、神に取り憑かれたような状態になり、様々な予言や遠隔視で注目を集めるようになる。

 暴行罪の容疑者となって裁判を受けたり、テレビの討論番組に出演する中で、教授に取り憑いた神のような存在は「GOD」を名乗り、哲学的議論を交えながら、自らの存在や世界の成り立ちなどについて語っていく。

 最後にGODは自らがこの世界に来た理由を語ったあと、自らにまつわる全ての人の記憶とともに、世界から去っていく。


 難解な哲学的議論を除けば(というか大半は自分も理解できなかったのだけれど)、SF作品としてはむしろシンプルでわかりやすい筋書きになっていると言っていい。

 個人的な話をすると、最近哲学の入門書『読まずに死ねない哲学名著50冊』をノートに書き写す形で毎日ちょっとずつ勉強しているのだけれど、その本と本書に共通しているアリストテレスやトマス・アクィナス、ライプニッツの哲学的テーマに関しては、ある程度は理解できたと思う。

 アリストテレスは、あらゆる運動や事物の変化にはその原因があり、その原因を大元まで辿っていけば、全ての運動・変化の原因となったものが存在すると考え、これを「不動の動者」「第一原因」と呼び、神と呼ぶべきものと想定した。トマス・アクィナスはこの議論をキリスト教に持ち込んだ。

 ライプニッツは、この宇宙における物質的・空間的最小単位である(本作のタイトルにもなっている)「モナド」という概念を示した。モナドは神がもたらしたものであり、モナドの関係性が生むこの世界の秩序は、神があらかじめ決定したものであると考えた。この考え方が「予定調和」だ。


 GODはアリストテレスやライプニッツや、その他歴史に名を残した哲学者達が想定した「神」に近い存在であり、神による予定調和を「モナド」と呼ぶ。モナドの綻びを繕うために、GODは世界にやってきた。

 しかし作中終盤でGODが現れた世界が「小説の中の世界」であることが、GODの口から語られる。ここで物語は(一般的な意味での)メタフィクションに姿を変える。

 つまり本作は(我々が生きる現実世界で)過去の哲学者たちが想定してきた神に近い存在が、実際に現れた(という設定の)小説世界だということになる。より端的に言えば「哲学メタSF小説」と言うべきか。


 GODが「世界を創造した神」であり、かつその世界が小説の中の世界なのであれば、必然的にGODは本書の作者である筒井康隆自身、ということになる。

 終盤のGODのセリフ、

わしが存在している理由はね、愛するためだよわたしが創ったものすべてを愛するためだよ。当然だろう。すべてはわしが創ったんだ。これを愛さずにいられるもんかね。

 は、作者による、これまで自らが著してきた作品への愛の吐露であると読むのが、むしろ自然だろう。

 そしてGODが去った後の世界を描いて本作は終わる。作家が世を去っても、作品が世に残ることを暗示するように。


 で、本作がパラフィクションなのか、という観点で見ると、かなりパラフィクション的ではあると思う。

 「小説は、書かれた時に完成するのではなく、読者が読むことによって初めて完成する」みたいなことを最初に言ったのが誰だったのかわからないが、実際それは考え方によっては正しい。

 読者が小説を読むことで、それぞれの読者の心だか脳内だかにそれぞれの「小説世界」のようなものが生まれる。本書でそれは「可能世界」と呼ばれている。

 そのことを自覚的に扱ったという意味で本作はパラフィクション的だ。

 そしてその手法が、晩年の作家による自らの創作への愛の発露という形で、極めて効果的に用いられている。


 しかし本書には「老作家から読者へのメッセージ」みたいな安易な物語化には捉えられまいとする、作者から読者への挑発、もっと言えば(常識を揺さぶろうという意味での)悪意のようなものも、端々に感じられる。むしろそんな立場を利用しているフシすらある。全然長年のファンとかではない自分でも、やっぱり筒井康隆はそうでなくちゃ、と思える。底知れないな、と思う。

国産RPGクロニクル ゲームはどう物語を描いてきたのか? / 渡辺範明

 『ドラゴンクエスト(ドラクエ)』と『ファイナルファンタジー(FF)』。2つのRPGシリーズの歴史を振り返りながら、その物語表現の進化を辿る本。

 著者の渡辺範明氏はスクウェア・エニックスの元ゲームプロデューサー。本書には入社一年経った頃にスクウェア・エニックス合併を経験したエピソードが出てくる。現在はボードゲームショップを経営しながら、アナログゲームを中心にゲームデザイナー&プロデューサーとして活動しているという。

 ドラクエやFFの開発には一切関わっていないとのことだが、同じ社内というごく近い場所から両シリーズの歴史を見てきた著者ならではの視点と、現在もゲーム作りに携わっているクリエイターの目線が合わさってつづられる「クロニクル(年代記)」は、読み応えあるものとなっている。

 巻末には初期のドラクエとFF両作品に関わった、元ジャンプ編集長の鳥嶋和彦氏へのインタビューも掲載。名作『クロノ・トリガー』の裏話など貴重な話が語られている。


 コンピューターRPGの歴史から始まり、初期ドラクエFFの立役者が集まる過程、社員ならではのエピソード(スクエニ合併当日の社内の様子、いち社員視点での合併理由の考察)など、読みどころも沢山。

 「ドラクエ=おじさん的親切さ・保守的路線」「FF=若者的冒険性・革新路線」という両者のおおまかな方向性を対比しつつ、現在もゲームデザイナーとして「ゲームとは何か」を追求している著者ならではの洞察が随所に光っている。

 サブタイトルの通り、RPGという「物語表現の器」を用いて各タイトルがどのような表現形態を採用したか、時代背景やハードの進化が物語表現にどのような影響を与えたか、という部分に重点を置いた語り口となっている。

 FC世代のドラクエは、まだRPGを知らない日本のプレイヤーへの「RPGのチュートリアル」だった。ドラクエの後発だったFFはその強みを活かし、1作目から様々なシステムを詰め込み、毎作システムを変えるなど野心的な作風でオルタナティブの立ち位置を築いた。

 SFC時代。ドラクエは「脱勇者」の物語を、FFは「青春群像劇」を描いた。ドット絵による素朴であたたかみのあるグラフィックだからこそ、人形劇のような独特のリアリティが生じ、ある種の寓話的な世界が構築された。

 PS時代のFFは大幅に増加したCD-ROMの容量を映画的ストーリーテリングに用いたことで世界的な人気を確立した。対するドラクエ7はその容量を膨大なイベント・セリフに費やし、現代のオープンワールドゲームの先駆的なゲームを作り上げた。

 というように、各タイトルが開発された時代背景やゲームハードの進化と制約が、どのような物語表現を可能にし、同時に規定したかという部分に焦点を絞っている。

 なので必ずしもタイトルごとのギミックやストーリーのディティールなどを網羅的にまとめているわけではなく、例えばドラクエ5を代表する仲間モンスターシステムには触れず、「脱勇者」の物語としての天空三部作(ドラクエ4・5・6)のひとつとして取り上げている。

 フェティッシュなゲーム語りを好む人にとっては少々物足りないかもしれないが、それがシリーズ全作を網羅しつつ一定のボリュームに収めるために必要な取捨選択であることは言うまでもない。


 特にFF13とFF15の解説は、ともすればシリーズ中で迷作とされがちな両作の魅力をわかりやすく解きほぐしており、未プレイの自分も新たに興味が湧いた。

 FF13はダイナミックかつ戦略的な戦闘を、FF15は青春ロードムービー的な旅情を、それぞれ最大限に表現するため、ゲーム全体に革新的な試みがなされている。しかしそのせいでゲームとしてのバランスを欠いている部分もある、という説明はかなり納得度の高いものだった。

 ただ「FFシリーズはトガッているぶんバランスを欠きがち」という著者の提唱するイメージは、どちらかというと10より後、というか「ファブラ ノヴァ クリスタリス」というムダにスタイリッシュな概念を提唱し始めた頃から出始めたもので、それ以前の4~9あたりのFFはそれこそ「RPG(今で言うJRPG)のド真ん中」というイメージの方が強かったように思う。

 巻末の鳥嶋和彦氏へのインタビューもまた面白い。下は自分の感想ツイート。この部分だけでなく全体に伝説の編集長のスゴみを感じるインタビューだった。


 ドラクエ・FFの爆発的な進化は、ゲームに限らずその後の文化に様々な影響を及ぼした。

 本書でも取り上げられている通り、昨今のいわゆる「異世界転生もの」の小説におけるテンプレートのひとつとなっている、「勇者」や「魔王」が登場するファンタジー系世界設定は、かなりの割合でドラゴンクエストを源流にしている。もちろん更に遡ることはできるにせよ、いわば「直系の祖先」がドラクエであることは間違いない。

 FF7の世界的ヒットは「3Dグラフィックによる物語表現」の可能性を切り開き、現在も(実質的な)リブート作の展開が世界のゲームシーンで注目を集めている。

 個人的には、植松伸夫、皆葉英夫らFFのスタッフが開発に関わり、いわゆるJRPG的世界観をスマホ・ブラウザゲームで展開してきた『グランブルーファンタジー』が、今年2月にプレイステーションおよびPC向けのアクションRPGを発売予定し、いわば家庭用ゲームへの「先祖返り」をしようとしていることに注目している。

 本書はそんな偉大な2つのRPGシリーズの歴史を概観するための最良の本のひとつと言えるだろう。あの頃を思い出してワクワクしたい人にも、そこから次の時代のゲームの物語形式を思い描きたい人にもオススメ。


 ちなみに本書はラジオ番組『アフター6ジャンクション(アトロク)』における同名のシリーズ企画がベースとなっており、そこで著者が語った内容が元になっている。

 もともとアトロクを聴いていた自分は「ラジオでガッツリドラクエとFFの話をしてる!」と興奮しつつリアルタイムで1度聴き、しばらく後にまた聴き返したくなってポッドキャスト(現在もアーカイブを聴取可能)ですべての放送をもう1度聴いた。なので計2回、全内容を聴取したことになる。

 そのため「細かいところまでほとんど内容がわかっている話を改めて本で読む」という、今までにない、そして今後もおそらく無いであろうちょっと奇妙な読書体験となった。なんだか読んでいてフワフワと変な感じで、逆にちゃんと読めたかどうか、若干の不安がないではない。


 なぜ同じ放送を2回も聴いたかというと、聴いたらワクワクして元気が出たからで、なぜ元気が出たかというと、それはおそらく、かつての自分にとってドラクエとFFの進歩という事象そのものが、ワクワクする出来事だったからではないかと思う。少し前のギャル用語で言えば「アゲ」だったからだと思う。なぜ少し前のギャル用語で言ったのかはわからないけれども。

 ある世代の人にとって、ドラクエ・FFはまさに国民的RPGだった。精神の血となり肉となった。傘を振ってアバンストラッシュ(ダイの大冒険)ごっこをしたり、木の枝を振り回してアルテマウェポンごっこしたり。ドラクエ4コマを読み、バトルえんぴつを転がし、FF7がコンビニで売られていた。日常のすぐとなりにあるものだった。

 特に自分に影響を与えたのは久美沙織著の小説版ドラクエ5。子供の頃に読んだ最も心に残った本のひとつだ。文庫本をトイレで読んでいたらうっかり便器に落としてしまい泣く泣く捨てざるを得なかった。成人してからハードカバー版を買い直したけれど、挿絵のイラストが変わってしまって少し残念だった。

 そんな2つのRPGは「どんどん良くなっていくことを素直に信じることができるもの」であり、ものすごーく大げさに言えば、ある種の「希望」だった。

 例えば戦後の時代を生きた人たちは、科学技術がどんどん発展して世の中が豊かになっていく様を目の当たりにし、そこに希望を見出したのではないかと想像する。

 スケールこそ違うものの、当時の子どもにとってのテレビゲームはそれに近いものだったと思う。日進月歩でどんどん世界が広がっていく。まだ見ぬ未知の体験がやってくる。

 現実の時代背景的には、バブル崩壊後の不況や、95年の事件や震災、環境問題など、暗い話題が多かったと思う。しかし、ことゲームに関しては、ものごとがどんどん進歩し改良されていくことを素直かつ素朴に信じることができた。

 そしてドラクエとFFは、そのような進歩の最前線に立つゲームの一群を、いわば背負って立つシリーズだった。


 と、いうのは本書を読んで生じた後付けの感覚も含まれていそうだが、ともあれそんなドラクエ・FFの進化の過程を脳内に蘇らせてくれたのが、「国産RPGクロニクル」のラジオ企画、そして本書であった。


 なお著者は現在もアフター6ジャンクションに定期的にゲスト出演し、ボードゲームの紹介などの企画を行っている。先日は国産RPGクロニクル初代ポケモン編が放送された。
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 またポッドキャスト番組『ドロッセルマイヤーズ・ラジオ』も週1回のペースで配信中。夫婦ならではのしっとりとした雰囲気でとても聞きやすい。古畑任三郎の回が特に面白かった。
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 ちなみに本書には収録されていないものの、著者夫妻のステキすぎる馴れ初め話が、国産RPGクロニクルの(確か)スーパーファミコン時代編のラジオ回で聞くことができる。本当に、全ゲーマーの憧れみたいな話である。
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 最後のオマケ的に、自分にとってのFF語りをしてみたい。

 自分のFF歴がどこから始まっているかをハッキリ言うのは難しい。気がついたら家にカセットが置いてあったからだ。

 まずSFC版FF4のカセットが家にあったが、発売日的に物心がつく前なこともあり、リアルタイムでプレイ画面を見た記憶が無い。もしかすると後から買ったカセットだったかもしれない。

 FF5と6は兄がプレイするのを後ろから見ていた。特に6はかなり好きなタイトルで、モグを使いたがらない兄に使うよう催促したりした。しかし兄が友人に貸してしまいそのまま返ってこなかったため、長らくプレイできず切ない思いをした。

 どちらもプレイする兄を見るうちに、主人公(バッツおよびロック)が兄そっくりに見えてくる、という、子どもならではの奇妙な感覚を抱いたのを覚えている。

 FF7に至っては母親までもが手を出したため、自分でプレイできたのは兄→母→自分の3番目。ラスボス手前まで進めたものの「もうエンディング見たしな……」と思い、そこでプレイをやめてしまった。

 FF8は兄が部活で忙しくなり自分が最初にプレイできた。ようやくRPGのストーリーをある程度理解できる年齢になったこともあり、かなり思い入れ深いタイトルになった。

 後にアルティマニア(攻略本)を買い、細かいストーリーの伏線などを知ったことで、FFシリーズで一番好きな作品になった。なので7よりも8のリメイクを切望している。万人受けする作品でないこともわかっているけれど。

 しかしそれ以降はあまりFFに関心が向かなくなってしまった。PS後期からPS2以降はゲームジャンルも多様になり、自分好みのゲームを選ぶという意識が生まれたことも大きいだろう。主にアクションゲームや格闘ゲームを遊ぶようになり、Xbox 360を入手してからは洋ゲーにも手出しするようになった。

 FF9は自分も部活で忙しく、ソフトは家にあったもののプレイせず。後年にリマスター版をクリアした。

 FF10からはハッキリと「自分向けのゲームではなくなったな」と感じるようになった。こちらもリマスターをやろうとしたが、序盤の雰囲気が辛くて辞めてしまった。

 以降の作品は美意識のレベルで自分の肌に合わないなと今でも感じている。FF7リメイクはPSプラスのフリープレイに入っていたし話題作なので一応ストーリーをクリアしたが、終始美男美女のイチャイチャを見せられた上、最後は精神世界でなんか解決したみたいな感じになるノリが、結構苦しかった。


 なぜ自分がFFをやらなくなったのか? 本書の解説を踏まえて考えると、すこし見通しがよくなったかもしれない。

 FFの多くは青春をテーマとしたゲームだ。ゆえに自分の成長と上手くタイミングが合ったFF8が最も心に残った。

 そしてそれ以降は、もう自分の側が青春を描いたFFという物語を必要としなくなってしまった。そんな仮説が思い浮かぶ。

 ある種の作品は、特定の世代のために作られる。あるいは結果的にそのようなものになる。

 例えばマンガ『最終兵器彼女』は作者自身があとがきで「こんな物語が意味を持つ時代が人生の一時期きっといつかあります。そしてたとえば五年経ったらこの本はその誰かにとってもう意味のないものになっているでしょう。」と書いている。


rhbiyori.hatenablog.jp

 自分にとってのFFは、多かれ少なかれそれに近いものだったのかもしれない。10以降のFFについて自分が感じているモヤモヤした感情は「もっと大人になってちゃんとしたバランスのいいゲームを作れよ」という、感性のズレに起因するものなのかもしれない。多分。

 その意味でも、ドラクエ11の徹底した「大人」ぶりはあまりにも対照的で、ほとんど敬服に近い念を抱いた。ただ最終盤の展開に関しては自分は否定派に近い。その発想は大人というよりもはや老人の境地なのでは、と思ってしまう。あるいはそれもまた自分の年齢とともに変わってくるんだろうか。

幽霊たち / ポール・オースター

 ポール・オースターの、「ニューヨーク三部作」と呼ばれる初期作品の2作目。柴田元幸訳。

 舞台はニューヨーク。主人公の探偵「ブルー」は、「ホワイト」という人物から、ある男の尾行を依頼される。男の名は「ブラック」。

 探偵小説の形式を用いているが、探偵小説のような展開にはならない。謎が解かれたりしないし、ハードボイルドな主人公がタフに立ち回ったりもしない。美女とのロマンスもない。

 主要な登場人物の名前が色の名で統一されている。そのような非現実性が、説明無しに作中に差し挟まれる。

 そういった前衛的な作品に親しみのない読者は、特に本作の登場人物の行動原理に不可解さを覚えるかもしれない。

 そのような不可解さは、なにかの象徴というか、隠喩というか、いわば夢の中にいるようなものと思って、虚心に読むのがいいのではないかと思う。


 ブルーはブラックを監視し続ける。しかし何の事件も起こらない。

 退屈になったブルーは、自己の思考に沈潜し、記憶をなぞるようになる。元師匠のブラウンに手紙を送るも、望ましい返事を得られず落胆したりもする。

 やがてブルーは己とブラックに奇妙な同一感を覚えるようになる。見張っていなくても、ブラックの行動が手に取るようにわかる。監視を放棄して野球を観戦したり、映画を観たり、酒場で酒を飲み女を抱いたりもする。

 ある日ブルーは、街中で偶然、恋人のミセス・ブルーに出遭う。彼女の隣には親密そうな男。長らく連絡をよこさなかったブルーに憤りと失望を抱いていたのか、彼女はブルーを罵り、去ってしまう。

 それからブルーは次第にホワイトとブラックに対して疑いの目を向け、様々なアプローチをとるようになる。私書箱へ報告書を受け取りに来たホワイトを待ち伏せする。変装術を使い、ブラックと会話する。

 会話の中で、ブラックは、ブルーの行動のみならず、その心中に至るまで、全てを知っていた、ということがほのめかされる。

 そして最後にブルーは、ある核心的なものと対決することになる。


 様々なモチーフが登場し、それがブルーを中心としたメインストーリーと、関わりがあるような無いような、そんなような調子で進んでいく。


 アメリカ独自の詩を創った詩人ウォルト・ホイットマンと、奴隷解放を訴えたヘンリー・ウォード・ビーチャーの名が何度か繰り返し登場する。


 作中でブラックとブルーが読む本『ウォールデン』。

 アメリカの作家ヘンリー・デイヴィッド・ソローが、2年間自然の中で自給自足の生活を送った日々を綴った本である。Wikipedia情報。

 青空文庫でも読めるが、作中でも言及されている通り大変読みにくい本らしいので、自分は読んでいない。

 社会を離れ自然と向き合うことで、新たな価値観を見出す、というような本らしい。


 ブルーが2度鑑賞した映画「過去からの脱出」。過去を捨て、平凡な日々を得ようとした男が滅びゆくストーリー。

 その前年にブルーが観た映画「素晴らしき哉、人生!」は、その正反対に、平凡な男がありふれた人生から逃げ出そうとするものの、結局自分の人生の素晴らしさに気づく話。


 ブルーが回想するブルックリン橋の主任技師、ワシントン・ローブリングのエピソード。

 父から主任技師の仕事を受け継ぎ、潜水病による身体の不自由を抱えながら、ブルックリン橋の全てを記憶し、自宅から設計の指示をし続けた。

 そのすぐ後に回想するエピソードは、あるスキーヤーが、数十年前にフランスのアルプスで遭難して亡くなった、若い頃の父親の遺体と遭遇する、というブルーが雑誌で読んだ話。

 どちらも親子関係が共通点となっている。


 老人に扮したブルーに、ブラックは、3つのエピソードを話す。ウォルト・ホイットマンの脳が研究のための検体になったが、ミスによって破壊されてしまった話。『ウォールデン』を著したソローがホイットマンの家に訪ねたとき、部屋の真ん中に「おまる」一杯の排泄物が置いてあった話。

 そして作家ホーソーンによる小説『ウェイクフィールド』。ほんのいたずらで家を出たある夫が、なぜか家に帰る気になれず、そのまま20年間、自分がいなくなった家と妻を観察し続け、そして家に帰る、という筋書き。

 一見すると関連性がないように見えるがどれも「自分とはなにか」という問題に通じているようだ。


 冒頭、ホワイトは変装してブルーの前に現れる。ブルーも変装を得意としている。
ブラックの部屋に忍び込んだブルーは「自分の中のあらゆるものが闇と化す」のを感じる。

 ストーリーが進むほど、ブルー、ホワイト、ブラックの存在が近しいものに見えてくる。


 最後にブルーはあるものに打ち勝つのだが、そこに勝利のカタルシスはなく、成長の喜びもない。

 読んでいて感じたのは、向き合わなければならない過去との決別と、その苦さのようなものだった。

 そして入れ子構造的メタフィクション展開を示唆しつつ、作品は終わる。


 これらの要素を鑑みると、本作は、作者自身による小説を通した自省であり、小説論の確立である、と、自分には読める。

 自分という引き出しの中にあるものを取り出し、その詳細を確かめ、その触り心地や使い勝手を検討している。そんな印象を受ける。

 そして小説を通して、自己自身の深い部分と向き合う。いわば瞑想的な小説。

 そういう読み方はやや陳腐かもしれないが、ある種の小説家は、初期にこういったタイプの小説を著し、その後の作品でどんどん作品世界を広げていく、というプロセスを経ているように見受けられる。


 本作には、一つの大きな嘘、というか不可解な描写がある。

 冒頭で「時代は現代」と書かれているのだが、その直後に「一九四七年二月三日のことである」という文が出てくる。

 本作は1980年以降に書かれた小説なので、明らかに矛盾している。


 幽霊たち、というタイトルの文言は、作中でやや唐突に出てくる。

 これが直前に言及されるニューヨークにゆかりのある偉人たちのことを指しているのか、それともその中にいるチャールズ・ディケンズの、有名な小説「クリスマス・キャロル」に出てくる幽霊のことを指しているのか、自分には読み取れなかった。

 そのすぐ後、ホーソーンが十二年間家に自室にこもって小説を書き続けたことについて、ブラックが言及する。

書くというのは孤独な作業だ。それは生活をおおいつくしてしまう。ある意味で、作家には自分の人生がないとも言える。そこにいるときでも、本当はそこにいないんだ。

 ブルーは「また幽霊ですね。」と返す。

 つまり本書は、アメリカの様々な作家たち=幽霊たちについての小説なのだ。おそらく。

散華 / 太宰治


 万年筆で字を書く、という趣味を久々にやりたくなり、インクとノートを買った。

 さてどんなことを書こう。日記を書くのはブログでやってるし。

 そこで何かの小説を書き写してみることにした。

 昔、「小説家になりたい人は名文を書き写せ」みたいなことを書いている人がいて、なんだか嫌だなぁ、と思った。小説ってそんなに不自由なのか。せっせと誰かのマネをしないと書けないものなのか。みたいな反発心を抱いた。

 でも今の自分にはもうそんな反発心も特に残っていない。どうせ書くなら、自分の好きな文章を書いたほうが良いじゃん。と、素直に思える。それが進化なのか退化なのかは分からないが。

 最近読んだ高橋源一郎の『ぼくらの戦争なんだぜ』という本で引用されていた、太宰治の『散華』を書き写すことにした。

www.aozora.gr.jp


 しばらく使わないと万年筆はインクが固まってしまうので、それを溶かす必要がある。水を張ったアクリルケースにペン先を沈めて一日置いてインクを全て溶かし、しばらく乾かした。

 筆写を始めた直後は、長らくペンを握っていなかったので、手が馴染むのに時間がかかった。慣れてからは、毎日1ページのペースで書き進めた。

 iPadで青空文庫の散華を表示させながら、それをノートに書き写していった。途中で横書きから縦書きに変えた。やっぱり日本語は縦書きのほうが書きやすい。最初から縦書きのノートを買っておけばよかった。

 万年筆が趣味と言っても、自分は結構な悪筆。はっきり言ってとても他人にお見せできるような文字ではない。なんて言いながら画像載せてるけど。

 そのせいで苦労した、というほどでもないが、他人が読むための文字を書くときは意識してかなり丁寧に書かなければならず労力がかかったのは、辛かったと言えば辛かった。

 未だに字を書くことはそのものは特に好きでも嫌いでもないが、自分の書いた文字で紙が黒くなっていくのはなんだか楽しい。塗り絵を塗っているような感覚に近いのかもしれない。

 万年筆は筆圧をかけずにどんどん書ける。それもまた楽しい。

 使っている万年筆はその辺の文房具で変えるような安物だ。良い万年筆を使ってみたい気持ちもある。でも金持ちのステータスのための嗜好品にお金を出す余裕は、今の自分にはない。


 初めて小説を書き写してみてわかったこと。

 小説をただ読むのと、書き写すのとでは、それぞれにメリットとデメリットがある。

 書き写すことで、同じ言葉が繰り返し出てくるところが、より詳しく感じられたりした。文章に「呼吸」というものがあるとすれば、それを感じられたと言えるかもしれない。

 一方で、書き写している間は、文字、特に漢字を正確に書くことに夢中になるので、文章の意味や物語の筋まで追いかける余裕はなかなか出てこない。文の意味への理解度はあまり高まらない。


 散華は、太宰治の二人の友人の死について綴った、事実に基づく小説だ。

 ひとりの友人の「三井君」は、病を得て亡くなる。その逝く様に対する感慨を綴った太宰の文章が、あまりに美しかったことが、この作品を書き写そうとした一番のきっかけだ。

私は三井君を、神のよほどの寵児だったのではなかろうかと思った。私のような者には、とても理解できぬくらいに貴い品性を有っていた人ではなかったろうかと思った。人間の最高の栄冠は、美しい臨終以外のものではないと思った。小説の上手下手など、まるで問題にも何もなるものではないと思った。

 もうひとりの友人である詩人志望の「三田君」は、アッツ島の戦いで戦死した。このとき初めて新聞などで「玉砕」という言葉が、戦死を美化する言葉として用いられたという。

 冒頭で太宰は、「玉砕」という美しすぎる言葉を避けて題を「散華」とした、と書いている。作中で自らを「私だって真実の文章を捜して朝夕を送っている男である」と書く太宰には、玉砕という美しい言葉で死を隠蔽する欺瞞に対する、なんらかの思いがあったのだろうか。

 一方で、三田君の「玉砕」を賛美するような言葉もある。これが、当時作品を出版する上で検閲を避けるために必要だったのか、それとも太宰の本心だったのかはわからない。

 Wikipediaによると、アッツ島での敗北は当時の日本に大きな衝撃を与えたという。そう考えると本作は、そのショックに即座に応じるために、時代の空気を敏感に感じ取った太宰によって書かれた、というような印象もある。戦いによる大敗を、一人の青年の死として捉え直すことで、別の意味を持たせようとした、というか。


 なによりも本作で太宰は「美しい死」というものへの強いこだわりを見せている。上の引用部分にもあるように。

 そんな、カート・コバーンじゃあないんだから。という例えももうそんなに通じないだろうか。今だったら何らかの精神的な病名がついて終わってしまう案件なのかもしれない。

 なにがあっても、死んじゃあダメでしょう、と、少なくとも今の自分には素朴に思えるわけだが、それはそれとして、美しい詩を求めながら戦争の犠牲となった三田君、その死と彼の言葉に至上の美しさを見出した太宰治が書く小説の美しさに、思わず心を打たれずにはいられない自分がいるのもまた確かだ。