rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

かくしごと / 久米田康治

 「さよなら絶望先生」の久米田康治先生の最新作。作者の漫画家としての体験談をネタとしたギャグマンガである。

かくしごと(1) (月刊少年マガジンコミックス)

かくしごと(1) (月刊少年マガジンコミックス)

 久米田先生がかつて「著者近影で脱ぐ」タイプの下ネタギャグマンガであったことは、ファンならば周知の事実であろう。

 本作の主人公である漫画家も後藤可久士も同様の過去を持つ。

 自分の過去が娘に知られたらグレてしまう、と考えた可久士は、自分の仕事を隠していくことを決意。

 しかし新しい担当者が手違いで娘のいる自宅に来てしまうなど、思わぬ事態の連続で、可久士の苦労は今日も続く……というコメディが本作の基調。

 他にも(あくまで自虐としての)あんまり売れてない漫画家あるあるや、締め切り前の漫画家あるあるといった、久米田先生の経験を元にしたネタが多い。


 久米田先生の前作「せっかち伯爵と時間泥棒」は、ストーリーや設定がかなり突飛で少々飲み込むのに時間がかかったが、本作はうって変わって日常感が強くなり、落ち着いた雰囲気になった。

 とはいえもちろん久米田作品的なギャグは満載。都会に飽きた漫画家が鎌倉に居を構えたがる様を「鎌倉病」と呼ぶなど、シニカルなテイストも健在で、ファンなら確実に楽しめるだろう。

 絶望先生キャラがスターシステム的に名前を変えて再登場していたりするのも、ファンにとっては嬉しいポイント。キャラがハッキリしているからなにかと使いやすいのかもしれない。

 正直に言うと、過去作と比べてややあたりさわりのない作風になっている感はあるが、そのぶん読後感が爽やかな大人のマンガになっていると思う。個人的には好意的に受け止めている。あと筧亜美ちゃん可愛い。

ポプテピピック / 大川ぶくぶ

ポプテピピック (バンブーコミックス WINセレクション)

ポプテピピック (バンブーコミックス WINセレクション)

 去年あたりからTwitter上でちょくちょく見かけるマンガだったのだが、最近になってじっくり読んでみたところすっかり魅了されてしまった。

mangalifewin.takeshobo.co.jp

 ギャグ四コマである。しかもかなり破壊的な芸風のギャグ漫画である。かつてダウンタウンの松本人志がお笑い芸人ハリウッドザコシショウを評して「ひとりの人間の中にものすごく面白い部分とものすごくつまらない部分が同居している」というようなことを言っていたが、同じような感想をこのマンガに対して抱いた。

 パロディ有り、(不条理な、あるいは没論理的なという意味での)シュール有り、(全然面白くないことを堂々とやっていることが面白い、という意味での)ナンセンス有り、ブラックユーモア有りと、ギャグ漫画のあらゆるパターンを惜しげも無く用いているにも関わらず、読んだ者に否応なく脱力感を抱かせる作風は、常套句ではあるが「センスがある」としか言いようがない。

 そもそも主役の二人がセーラー服を着ていること自体がいわゆる「日常系マンガ・アニメ」のパロディ。背の低い方のポプ子はヤンキーの如き「キレ芸」の持ち主であり、背の高い方のピピ美はなぜかアゴがない。普段はデフォルメタッチなのだが、手がアップで描かれるときはなぜか妙にリアル。このように、いちいちツッコミどころしかない。

 作者は他にも複数のWeb漫画を連載しているが、自分はこの作品が圧倒的に好きだ。設定に変なヒネリが無いのと、絵柄とセリフがポップアート的にキャッチーなのがポイントかもしれない。LINEスタンプが売れるのも納得である。

 それと、こんな作風でありながらポプ子とピピ美のキャラが立っていて、(多分に荒唐無稽ではあるが)「萌え」的な二人の関係性がしばしば描かれるのも人気の秘密だと思う。

 一旦は連載終了してしまったが、竹書房(おそらく僕はこの漫画のおかげで「竹書房」という名前を一生忘れないだろう)の温情?によりセカンドシーズンが現在連載中。一巻の単行本には大人の事情で収録されない話があったりしたので、ぜひリアルタイムでチェックしよう。

mangalifewin.takeshobo.co.jp

ニッポンの文学 / 佐々木敦

ニッポンの文学 (講談社現代新書)

ニッポンの文学 (講談社現代新書)

 80年代から現代までにおける日本の小説の歴史を、代表的な作家の名を挙げながらまとめた本。

 いわゆる文学作品と呼ばれるような小説だけでなく、SFやミステリといった、いわゆるジャンル小説まで取り上げているというのが面白いところ。

 もっぱら文学系ばかり読む自分のように、好みが偏った人が他のジャンルに手を出そうという時のブックガイドとしては最適な本なのではないかと思う。実際、自分はこの本を読んでから、綾辻行人やグレッグ・イーガン(はもちろん本書には出てこないが、SF小説として)に手を出したりしている。

 逆に、ディープな批評のようなものを求めている人にはちょっと物足りないかもしれない。もっともそれは、ライトな語り口と、歴史を俯瞰的に描こうというコンセプトから受ける印象であって、ジャンルを越境して文学の歴史を描くというコンセプトそのものも含めれば、実はかなりディープな一冊なのかもしれない。


 文学と非文学を同時に取り上げることが画期的である、ということは、言い換えれば「文学は偉くて、エンタメ小説はあんまり偉くない」と多くの人が漠然と思っているということでもある。それはおそらく日本も海外もそんなに変わらないのではないかと思う。

 そしてその観念は、「芸術は偉くて、娯楽作品はあんまり偉くない」という意識に通じている。

 なぜそのような意識が生まれるかというと、娯楽作品は人間のためのものであるのに対し、芸術は神様(のようなもの)に捧げるものだ、という感覚が人々の中にあるからではないだろうか。

 だとすれば、人々が聖性というものを求め続ける限り、そして小説というものがこの世にある限り、文学とエンタメという分類は無くならないのかもしれない。

 ともあれ、文学とはなにか、という一見不毛な問いは、なにが聖でなにが俗であるか、という本質的な問いにどこかで繋がっているのかもしれない。というのはほとんど今の思いつき。


 現代日本における「文学のよくわからなさ」は凄まじい。どのくらい凄まじいかというと、又吉直樹の「火花」が掲載された雑誌「文學界」などの文学雑誌を読んでみればわかる。

 おそらく95%くらいの人は、そこに書かれていることの意味や理由といったものを理解できないと思う。

 かくいう自分もそちら側の人間で、好きな作家が連載をしている時だけ文学雑誌を読んでいたが、それ以外の部分についてはほぼ理解できなかった。そして最近はもうほとんど読んでいない。

 つまり、日本における現代文学は、おおよそ全人口の5%ほどの人向けに書かれている。そしておそらく文学を書いている人は、さらにその5%のうちの5%くらい。つまり超ニッチジャンルなのである。

 という話には実はちょっと嘘があって、実際にはわかる人/わからない人を二分法で分割することはできず、一人の人間の中にわかる/わからないがアナログ的に混在していていたりすると思うのだが、話を分かりやすくするためにあえてそうした。

 ここで僕が言いたいのは、現代日本文学は極めて少数の人向けのものでありながら、とてもエラくて重要なものだ、と思われているということである。

 外部の人からすればそのような、昨今流行りの言葉で言えば「既得権益」のような有様は、とても不健全なものに見えるかもしれない。実際、「文学不良債権論」なんてものもあったらしい。

 でも多分それは間違っていると思う。なぜならいま日本で文学をやっている人(の多く)は、間違いなく文学が好き、というか、文学は大事だ、という思いに基づいてやっているのであって、決して権益にしがみつくためにやっているのではないからだ。

 文学に対する想念の形は人それぞれであって、中にはかなり屈折していることもある。小説なんか書きたくないと言いながら小説を書き続ける人もいるし、こないだのある文学賞の授賞式では、受賞者が「私の作品には何の価値もない」と言い放つ、なんてこともあった。

 しかしどの人も、この世にひとつでも多くの面白い小説が存在したほうが良い、という点では共通している。どこにその証拠があるのか、と聞かれたら、それは実際に作品を読んでいただくしかないだろうが。

 だから文学が高度に複雑化しているのは、文学を特権化するためではなく、もっと別に原因があるのだと思う。文学をやっている人のほとんどは、こんなに面白いものがあるのだからもっと多くの人に文学をしてもらいたいと思っているハズだ。多分。

 であればこそ、文学はもっと開かれたものになるべきだ、と言いたい、言い切りたいところではあるのだが、そうも言い切れないのは、なんかそういう教科書的なことを言って意味があるのかね? という疑問があるからだったりする。


 本書で最後に見出しつきで紹介される作家は、芥川賞を受賞したお笑い芸人の又吉直樹だ。

 個人的にも、「小説家役」としてテレビCMに出演したりしている彼の姿を見ると、彼の受賞は「ニッポンの文学史」におけるターニングポイントの一つとなるだろうと感じる。もし彼が二度と小説を書くことが無くても。

十角館の殺人 / 綾辻行人

十角館の殺人 <新装改訂版> (講談社文庫)

十角館の殺人 <新装改訂版> (講談社文庫)

 綾辻行人のデビュー作。以前読んだ『ニッポンの文学』という本で、新本格ミステリ最初の作品として大絶賛されていたので、そんなに面白いなら読んでやろうじゃないの、と思い読んだ。

ニッポンの文学 (講談社現代新書)

ニッポンの文学 (講談社現代新書)

 自分はこれまで、いわゆるミステリと呼ばれるなような小説をほぼ読んだことが無かった。「ミステリ=エンタメ=面白いだけで後には何も残らない」という単純過ぎる図式を持っていて、その図式が短絡的過ぎるということをわかっていながら、あえてその図式を更新しようという努力はしてこなかった。

 なぜ努力をしなかったのか。おそらく怠惰だったのだと思う。

 で、今回初めてミステリを読んでその印象は変わったのか。

 なんとも言えない。なんとも言えないとしか言いようがない。


 小説を含むあらゆるエンタメ作品は、そのジャンルの「お約束」に従うために、多かれ少なかれ何かしらの不自然さを抱え込むことになる。

 ウルトラマンで怪獣やウルトラマンが壊した街について語られることは(基本的に)無いし、アクション映画でシュワちゃんの銃が弾切れすることも無い。

 どんなに不自然であっても、マンガや映画やゲームなら、作品を面白くするためのものとして違和感なく楽しめるのだが、こと小説となると、なぜかそういった不自然さが気になってしまうのは自分だけだろうか

 不自然か否かで言えば、いわゆる文学作品にだって、不自然なところはたくさんある。そもそも文学作品の中には、リアリティというものを始めからかなぐり捨てたような作品も多数ある。しかしそっちの方は不思議と気にならない。

 なぜ気にならないかといえば、文学作品の不自然さは、面白さのためではなく、もっと別の、なんだかよくわからないなにかのために存在している、ように感じるからかもしれない。


 この小説は発表当時、先輩作家達からの激しいバッシングに晒されたらしい。

 その辺の事情は、ミステリ門外漢である自分にも少しわかるような気がする。

 孤島での連続殺人というベタ過ぎる展開。あまつさえ主要人物たちは、偉大な海外ミステリ作家の名前をあだ名として(ポウとかエラリイとか)、お互いを呼び合うという設定。ほとんどパロディすれすれだ。

 まるでこれまでの日本におけるミステリの歴史を無視したかのような、ある意味で稚拙に見えるこの小説に対して、既存作家が怒るのも無理は無い。

 しかしこの小説には「ミステリっぽいもの」が、過剰過ぎるほどに詰め込まれている。

 そしてそれは「ミステリが好きだ」という初期衝動や「ミステリをモノにしてやろう」という作家の気概の表れであり、同時に「ミステリかくあるべし」としてミステリを占有していた先行世代へのカウンターパンチでもあったのだろう。

 その意図が、荒削りながらも一個の完成された作品として結実している。

 そしてそういった「熱さ」に同調した作家たちが、後の新本格ミステリの潮流を作ったのだろう。多分。

 こういった流れは、ロック音楽の世界に、パンクロックや、グランジや、00年代のガレージロック・リバイバルが登場してきた事情と似ているのかもしれない。あるいは日本文学における村上春樹の登場にも。


 結局、自分にとっての「ミステリ」というものの印象はそれほど変わらなかったが、何かしらの熱量のようなものは感じることができた。その意味で一度は読むべき小説だと思うし、今回読むことができてよかったと思う。

キャラの思考法 / さやわか

 現代日本において、「キャラ」という概念がどのような様態を示しているかを論じた本、でいいのかな。

キャラの思考法: 現代文化論のアップグレード

キャラの思考法: 現代文化論のアップグレード

 「キャラ」という概念は、今やすっかり普遍的なものになっている。日常の会話でも「それは自分のキャラじゃない」とか「〇〇さんとキャラが被ってる」とか言うし、アニメやマンガには当然のように「ツンデレキャラ」が登場するし、新たなキャラのお笑い芸人が日々入れ替わり立ち替わりでテレビに登場している。

 しかしそれほど普及しているにも関わらず、「キャラ」という概念に関する議論はかなり手前の段階で止まってしまっている、と筆者は言う。

 キャラ論、と言えば僕にとっては斎藤環なのだが(実際、筆者と斎藤環は本書刊行後に対談を行っている)、世間的には伊藤剛「テヅカ・イズ・デッド」がその端緒とされているらしい。今度読んでおこうかな。新書化したらしいし。でもこういう微妙に古い本って読むの大変なんだよね。話が逸れた。

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ (星海社新書)

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ (星海社新書)

 キャラ概念は変化している。しかしその変化は未だ十分に言語化されていない。ならばオレがやってやろう、というのが本書の意図である。いや、全然そんな横柄な態度じゃないけどね。じゃあなんで書いた。

 実際に読んでみると、確かにキャラという概念が時代とともに変化してきていることがわかる。しかしそれが筆者が言うような、例えば「キャラが時間を持つ」という形の変化なのかどうか、正直に言うと自分にはうまく理解できたとはいえない。

 全体的に「言われてみればそうなのかもしれないけど、本当にそうなんだろうか?」と思うことが多かった。しかし話としては面白いのでどんどん読んでしまった。

 キャラの流動性。インターネット的な双方向性。虚構であることを知りつつ、それでもキャラを演じるという態度。そういったあたりがキーワードなのだろう。しかしそんな単純な話でもなさそうな奥深さを感じる。

 なぜ奥深さを感じるかと言えば、例えば少年サンデーを取り扱った章は、極めてエッセイ的な述懐から始まっておきながら、さりげなく少年サンデーの編集部の歴史という事実関係に触れ、さらに原作:矢島正雄、画:尾瀬あきら『リュウ』という現代から見ればややマイナーな漫画を取り上げ、最後には少年サンデーの「少年サンデーらしさ」は記述困難である、という結論で終わる。

 章を通して「なんだかよくわからない」読後感があるのだが、その「なんだかよくわからない」感は「少年サンデーらしさ」に通じているように思えてくる。もしこれが学術論文のような体裁だとしたら不要であるはずの、文章的なテクニックが用いられているのである。

 評論、というと、理屈っぽくて厳密である方がエラいと思われがちだが、後の世に残るような「評論の良さ」のようなものは、こういった曖昧なこと、言葉にしにくいことを言葉にする企みの中に宿るのではないかと思う。多分。


 本書のようなオタク論の本を僕は好んで読むわけだが、どうも近年は下火ぎみらしい。ということについて、上記の対談でも触れられていたそうだ。

togetter.com

 そもそも近年のサブカルチャー的な事象の一部を束ねて「オタク的」と呼ぶこと自体が困難なのかもしれない。

 その一方で、広い意味での文化、というか、あるいはポップカルチャー、と呼ぶべきなのか、そんなような領域では、まだまだ語られるべき事象が多くあり、本書の筆者はその語り手としての役割を積極的に担おうとしており、一読者としてはとても好ましいことだと思う。

人生パンク道場 / 町田康

人生パンク道場

人生パンク道場

 人生相談とはなんだろうか。

 人生に悩みを持った人が、誰かに質問する。そしてその誰かが答える。大枠で言えばそういうことである。ベリーシンプル。

 実際にその答えが悩みの解決に役立つかどうかは重要ではない。しかしだからといってどんなムチャクチャな回答でもいいというわけでもない。いや別にムチャクチャだって構わないんだけど。

 大切なのは悩みを解決することよりも、言葉のやり取りをすることであり、コミュニケーションすることなのだ。と、わかったようなことを言い切りたい気持ちもあるが、そうやってわかったようなわからないことを言うのが一番よくない。


 「人生」と「パンク」。並べてみると真逆の言葉であるようにも思える。

 そもそもパンクってなんなんだ、とか、町田康にとってのパンクってどういうものなんだ、ということを一瞬考えたくなるが、やはりそういう賢しらなことを考えるのは無意味であるようにも思う。


 さっきからこいつは何が言いたいんだ、と思われるかもしれないが、僕自身だってよくわからない。ただ思いついたことを書いているだけである。

 ただひとつ言い訳させていただくなら、僕はこの本をキチンと読んだ上で、一週間ほどいろいろ考えて、しかるのちにコレを書いているのであって、全くのデタラメを書いているわけではない。多分。

 思いつきでなにかをやる、というと、何事も計画を立てることが重要だとされている現代ではよくないことだとされがちだが、そもそも人が人生でつまづくのは、物事が計画通りに上手くいかないからだったりする。脳内で拵えた理想が現実とズレる。そこに苦しみが生じる。

 町田康は以前、「音楽を即興的に演奏することと小説を書くことは、自分の中では同じだ」というようなことを書いていた。いわばアドリブの天才なわけだ。

 人生には計画どおりに上手く行かないことが多々ある。情報は限られ、時間は無い。とっさの機転でその場をどう切り抜ければよいか、という疑問への回答者として、アドリブの天才たる町田康以上に適した人物はいない、のかもしれない。

 我々が見るべきは、回答そのものではなく、回答者としてのとっさの身のこなし、華麗なステップ、素早い切り返し、一瞬の急加速、といったような点なのではないかと思う。

 最後に、町田康は以前にも「人生を救え!」という人生相談本を出している。こちらも素晴らしいのでぜひ読んで欲しい。圧倒的、である。

人生を救え! (角川文庫)

人生を救え! (角川文庫)

僕たちのゲーム史 / さやわか

キャラの思考法: 現代文化論のアップグレード

キャラの思考法: 現代文化論のアップグレード

僕たちのゲーム史 (星海社新書)

僕たちのゲーム史 (星海社新書)

 『キャラの思考法』という本を本屋で見つけて、ちょっと面白そうだったのだが、ハードカバーは高いので同じ著者の新書であるこの『僕たちのゲーム史』の方を買って読み始めた。

 この本は、ゲーム(いわゆるコンピューターゲームを指す)が持つ「ボタンを押すと反応する」という(原則的に)不変な要素と、「物語をどう扱うか」という常に変化し続けてきた部分に着目しながらゲームの歴史を振り返る本である……というような通り一遍の説明は他の書評ブログなどにも書かれているのでそちらを参照していただきたい。丸投げ。


 ゲームと「物語」には密接な関係がある、ということは少しでもゲームをやったことがある人なら納得できることだろう。

 本書の帯に「スーパーマリオはアクションゲームではなかった!」と書かれているが、初代『スーパーマリオブラザーズ』の説明書には「このゲームは、右方向スクロールのファンタスティックアドベンチャーゲームです」と書いてある。アドベンチャー。つまり冒険物語である。

 しかし「テトリス」のようにストーリーが無いゲームもあるじゃないか、と思う人もいるかもしれない。それはその通りである。しかしここで言う「物語」とは、「(勇者が魔王を倒す、というような)ゲームのストーリー」のみを指すのではなく、「ゲームを取り巻く言説・行動」をも含んでいる。

 その例として本書では「あるゲーム雑誌において、『ストリートファイターII』紹介記事としてライター同士の対戦会を「小説」として掲載した」という出来事を、「ゲームのプレイヤーを物語化した事例」として挙げている。

 そして本書では「ゲームのストーリー」と「ゲームを取り巻く言説・行動」という、似て非なる2つのものを、区別してはいるものの、あえて違いを強調するわけではなく、いわば並列に扱っている、ように見える。僕の読みが間違っていなければ。

 もし僕が本を書くとしたら、この二つに別々の言葉を当てて厳密に区別して使うと思うんだけど、筆者はどちらも同じ「物語」という言葉を使って説明している場面が多い。

 これは筆者の怠惰や手落ちというよりも、なんらかの意図をこめてのことなのではないかと感じられる。「物語評論家」という筆者の肩書を見ると特に。

 別の箇所で筆者は、「ゲームの領域を広げようとした試みは成功し、『これは単なるゲームではなく○○(芸術とか映画とか)だ』というような試みは失敗してきた」ということを指摘している。

 このことから、「ゲームにはストーリーが必要だ(必要ない)」というような、ゲームの領域を狭めるような議論を避けるために、あえて両者を区別しなかったのかもしれない。


 歴史、というものも、一種の物語である。個々の出来事は事実である(あらねばならない)が、それをどう描き、どう並べ、どうつなぎ合わせるかは、製作者の恣意次第だ。

 筆者が前書きで、本書に登場「しない」ゲームのタイトルを羅列しているのは、歴史というものを描く上で避けられない物語性・恣意性を明示するためだろう。もちろん、過去の全てのゲームを網羅して歴史を書くことなど不可能だ、という現実問題もあるが。

 そして本書が、ゲーム製作者の過去のインタビュー記事などを多く引用しているのも、そういった恣意性(「思い出補正」とか)をなるべく排除するためだろう。


 ゲームの歴史について書かれた本、というと、「ゲームとはなにか」という根源的な問いについての答えが書かれているのではないかと期待してしまう自分がどこかにいる。

 多くの人が「人生とはなにか」という問いを抱くのと同じように、多くのゲーマーは「ゲームとはなにか」という問いを抱くものなんじゃないかと思う。そしてその答えを出すことは大変に難しい。人生についてのそれと同じように。

 とかく人は本質を求めたがる。そしてそれゆえに事実を見誤る。

 そのような過ちを避けるために、本書では「○○の影響を受けて✕✕が産まれた」というような過度な結びつけを控えめにし、それぞれのゲームの特徴とその後の影響を俯瞰的に描いており、バランス感覚に優れていると感じる。

 その分「なるほど!」と感心するような部分があまり無かったが、世の中の本がみんなそんな本ばかりになっても困るし、これはこれでちょうどいい。むしろベター。