rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド/村上春樹

村上春樹全作品 1979?1989〈4〉 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

村上春樹全作品 1979?1989〈4〉 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド


 
村上春樹継続中。
 
相も変わらず平易な文体。オシャレなキーワード。そして現実と非現実が交差するストーリー。
この作品は村上春樹の最高傑作に推す声もある。
個人的にはノルウェイの森に最も心を揺さぶられたけれど、小説としての射程、とでも呼ぶべきものはこの小説のほうが広く深いと僕も思う。
 
さて、この小説。僕は結末に納得がいかなかった。
いや、全然わからないわけではない。これが正しかったと村上春樹本人が言っていたのもある程度は理解できる。
でも、読後感としては「スッキリ」よりも「なんで?」のほうが大きかった。なぜか。以下軽くネタバレ。
 


僕としては、最後に「僕」が影を取り戻し、街を脱出して、「私」の意識が戻ってハッピーエンドだと、ずうっと思いながら読み進めていた。
つまり端的に言えば期待が裏切られたわけだ。
しかも著者本人が、結末は書き直すたびに変わったと言っているのである。
どーゆーことなんだ?
街の中で、森の中で記憶を取り戻すことが、ある種の再生なのだろうか。
わからない。
わからない。
わからない。
誰かおせーて。
 
とまぁ、もちろん本気で誰かに教えて欲しいわけではないけれど、それくらい本気で考えたくなるような、面白い小説。もう一度言う、面白い小説。
キザで、なんとなく誰にでも当てはまりそうなことを言っていて、セックスばかりしていて、でも面白い小説。
 
わからないので検索していたら見つけた、この作品を解釈しているサイト。
村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は社会主義批判か?: Marbles
この小説は社会主義批判だという筆者(の嫁)。僕は違うと思う。面白い解釈だとは思うけれど。
なぜか。村上春樹がそう言っていないからだ。これ、当たり前だけど重要。
村上春樹が言っているとおりに解釈すれば、「完全な街には心を持たない人間が住んでいる」となる。
もし「世界の終わり」が社会主義国家だとしたら、「僕」がそこへと戻っていくことの説明がつかない。
なにより、「世界の終わり」は[僕」そのものであり、「私」そのものなのだ。
でも、「閉ざされた空間」や「理想的世界」が社会主義を連想させるのも間違いではないとも思う。
 
ここまで書いてから、結末部分を読み返して、自分なりの解釈を見つけた。
ラストで「僕」が悟ること。それは、世界の終わりが「僕」自身であるということ。
影はそれを「僕」に知らせずに街を脱出しようとした。
一方「僕」は街を脱出することが「物事の筋」であるとも言っている。
 
「僕」は、真実を知らぬまま「物事の筋」に従うよりも、自分が作り出した世界に対して責任を負うことを選んだ。
それは、大きな物語よりも個人的な物語を選んだということではないだろうか。
ウィキペディアに書いてあるデタッチメントとは、そういうことではないだろうか。
村上春樹 - Wikipedia
「壁と卵」で言うところの壁は、この作品の途中までは文字通り世界の終わりを囲む壁そのものだった。
しかし、終章において壁はもはや壁では無くなっている。
壁のない世界、つまり「父の不在」を村上春樹は描いた、というのはそういうことだろうか。
内田樹の研究室: 村上文学の世界性について
ちょっと直感が先走りすぎてしまった気がするけど、こう解釈するとなんとなく納得がいく気がする。
 
更に検索で見つけた村上春樹関連のエントリ。リンクを貼れる、というのがインターネットの最大の利点だと思う。当たり前か。
村上春樹氏 エルサレム賞受賞−春樹さん、ご尊父について語る - 無造作な雲
村上春樹はなぜ両親について語らないのか―全共闘世代のルーツ - BUNGAKU@モダン日本 - Yahoo!ブログ