読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

思考だだ漏れ読書録

とあるブログ書きの読書記録。

人間小唄/町田康

「箱」
「根っ」(『人間小唄』町田康より)


人間小唄 (100周年書き下ろし)

人間小唄 (100周年書き下ろし)


町田節健在、である。ところでこの「町田節」という言葉、評論家がよく使うけど、あまり好きになれない。鰹節みたいだし。
ここは町田康の作風に合わせて「へらへら節」とか「うどんパンク節」とか呼んだらどうだろうか。そのほうがキュートだし。まぁいい。
主人公は小説家の糺田両奴。「きゅうだりょうど」でいいのかな。こいつはまぁテキトーな男で、自宅に送りつけられてきた得体の知れない短歌を、締め切りが迫っているからといって無断で転用、原稿にしてしまうようなやつ。
短歌を送った小角という男は身勝手かつ残虐。しかも軽薄。糺田の文学が気に入らないという理由だけで彼を監禁のあげく無理難題を押しつけ、痛めつける。
小角の連れの女・未無。やたらと難解な言い回しを好むが、結局は小角に付和雷同。一緒になって糺田をもてあそぶ。小角と夫婦漫才のようなやりとりを繰り広げるが、全体として何を考えているかよくわからない。内面が空虚。
その他、小角の友人・村ヒョゲ(村ヒョゲって…)、大衆迎合的プロデューサー・猿本も絡み、物語は急転直下のぐだぐだ、前代未聞のぐずぐず、今日も元気にカッ飛ばしている。
一番気になった点は、実は小角の残虐性だったりする。町田康得意の、思考がだだ漏れているような文体に紛れてはいるが、小角はホントにひどい。
なによりひどいのが、規約と称したルールを糺田に押しつけ、しかも都合が悪くなると規約改正、などとうそぶいて平然とルールをかえてしまうところだ。いわゆるところの俺ルールである。
人はルールがあるからこそ頑張れる。しかし、どんなに頑張っても結局は向こうが有利なようにルールを変えられてしまうとしたらどうだろうか。ひどいじゃないか。あんまりだ。不条理だよ。うわわわわああん。
などと歯噛みしながら小説を読んでいる僕はよっぽどの変人かもしれない。
まぁこの小説に限らず、町田康は登場人物に対してえげつないことをやる。というか、純文学にはそういうタイプの暴力が往々にして出てくる。
この小説における暴力は、社会的な暴力ではなく、エゴによる暴力だ。この小説に出てくるのはエゴとエゴのぶつかり合いだ、と言ってもいいかもしれない。
町田康がインタビューで「人間を書きたい」というようなことを答えていたのは、そういうことかもしれない。
けれど、もちろん個人だけを書くことに終始しているわけではない。
個人が個人的すぎる。みんなが自分自身のことしか考えなくなったせいで、世の中がげしゃげしゃになってしまっている。
町田康は最初からそういうことを描いた作品を書き続けているし、『人間小唄』もその系譜に属すると思う。
町田康はお説教をしたいのか?そうではないよ。多分そうではない。僕は僕なのでわからないけれど。
「人間小唄は人間賛歌」だそうです。「人間賛歌は「勇気」の賛歌ッ!!」とツェペリさんは言っていたっけ。
講談社 書き下ろし100冊 町田康 人間小唄