rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

文学なんかこわくない/高橋源一郎

文学なんかこわくない (朝日文庫)

文学なんかこわくない (朝日文庫)


まともな人間は「文学とは何か?」という問いを追求するようなバカなマネはしない。
なぜか。理由は色々あるだろうが、簡単に言えば、あまりにも難問であるからだ。問いが短いほど答えは長くなる、ということもある。
しかし高橋源一郎は、いや「タカハシさん」はそれを考える。しかも、誰にでもわかる平明な言葉で考える。
その営為に、一体どんな意味があるのか。僕にはわからない。
でも、その営為は、他の誰もやろうとしないことであることは間違いない。


前に高橋源一郎の『ニッポンの小説―百年の孤独』を読んだときに書いた読書メモ。
ニッポンの小説―百年の孤独/高橋源一郎 - 思考だだ漏れノート
果たして僕の「言語が不自由な感じ」は治癒されたのだろうか?いや、あまりよくなったとは言えない。むしろ最近は語彙が減ってきているような気がする。まぁこれはこのところあまり真剣に本を読んでないせいもあるだろうけど。


ともあれ、『文学なんかこわくない』の読書メモに戻ろう。
この本を読んで僕が感じたことは、自分の頭を使って考えることの大切さです。
小学生の読書感想文みたいなことを書いて申し訳ないが、率直に言った結果がこの通りだ。
もっと厳密に言えば、この本は「文章を読んでそれについて考えるということ」のお手本・教科書である。
即刻全国の文学部に所属する大学生に読ませるべきである。間違いない。
「数十年にわたって古今東西万巻の書を読みつづけて」きたタカハシさんは考える。オウム関連の本や武者小路実篤失楽園を読んで考える。「文学とは何か?」を考える。
考えるということは、立ち止まるということだ。あるいは同じところの周囲をぐるぐる行ったり来たりすることだと言い換えてもいい。
現代では目先の勝ち負けだけを追いかける人ばかりになってしまった。目先の勝ち負けにこだわる人は、決して自分の頭を使って考えたりはしないし、まして十数年前のこんな本を買ってきて読んだりすることは絶対にない。なぜなら、立ち止まっていたらライバル達にどんどん追い越されていってしまうからだ。
だからなるべく自分の頭を使わず、ネットの掲示板で入試問題の解答を調達したりする。
というようなおっさんじみたことを言うのはそこそこにしようと思う。


日本語における「私」や「あなた」を指す語は無数にある。それは、日本語における「私」「あなた」(英語における「I」「You」)があいまいで可変的な「場」によって変化するからではないか。『日本語の外へ片岡義男はそのようなことを言っている(自分の要約に自身がないので、多分)、ということを高橋源一郎は書いている。

日本語の外へ (角川文庫)

日本語の外へ (角川文庫)


もしかすると、僕の言語、つまり日本語が「不自由な感じ」になった理由は、僕がその場を失ったからかもしれない。場そのものが無くなれば、「私」「僕」「俺」はいとも簡単に溶解してしまう。
果たして日本語の中で、「私」ではなく「I」を獲得することはできるのだろうか?


高橋源一郎みたいに考えて書こうと思ったら、起承転結のない記事になってしまった。やはりプロの作家はすごい。
結論としては、とにかく読め。僕のこんな下らない記事を読んでいる暇があったら、買ってきて読め。そして考えろ。と、いいたくなるような本。