rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

ゾマホンのほん/ゾマホン・ルフィン

ゾマホンのほん

ゾマホンのほん


ゾマホンという人物に対して、日本人はどのようなイメージを持っているだろうか。
「一昔前のテレビに出ていたアフリカ人」「やたらと怒っていた印象がある」「ビートたけしと仲が良かったような」まぁそんなところだろう。
しかーし、それらはメディアが作り上げた偏ったイメージでしかない。ゾマホンはそんな人間じゃない。ゾマホン、スゴイ。ゾマホン、エライ。
と、なぜかカタコトになってしまったが、これは決して『ゾマホンのほん』を読んだからではない。この本は極めて筋道の通った正しい日本語で書かれている。まぁタレント本なんてどこまで本人が書いてるかわかりゃしないが、僕の主観ではこの本は全て「ゾマホンのことば」で書かれていると思う。あくまで主観だけど。

パッと見、異邦人・ゾマホンの人となりを面白おかしくとりあげただけにも見えるこの本だが、それは大間違い。
テレビ的には単なる「変な外国人」と思われていたゾマホンだが、実はものすごい秀才であるらしい。
何度も言うようにこの本の内容がどこまで正しいかはわからないけれど、ベナンで学校に通い、中国で修士課程を修了し、さらに日本に留学してきた、という事実関係を見ただけでも、そーとースゴイのは間違いない。この本では、まさに「蛍雪の功」を地で行く苦労話が綴られるが、その努力あっての成果であると納得させられる。
そして、日本とベナン、それぞれの文化・教育についてのゾマホンの思想が、この本にはしっかりと息づいている。れっきとした比較文化の本であると言っていいだろう。

そもそも僕がこの本を手に取ったのは、水道橋博士の『本業―タレント本50冊・怒涛の誉め殺し!』を読んだからで、水道橋博士はこの本を「最高の伝記本である」というような言葉で絶賛していた。
まったくもってその通りだと思う。別に僕は、子供に偉人の伝記をガンガン読ませることに教育的価値を見出すようなタイプではない。
しかし、大人に都合のいいように作られた凡百の伝記本より、故郷のためにはるばるアフリカに渡ってきた『ゾマホンのほん』の方がよっぽどリアリティがある。一時間かけて水を汲みに行かなければならないのである。是も非もない。

なぜゾマホンは、自分のみを削るような努力でもって勉強をしてきたのか。あるいはなぜ、発展途上国の子供は先進国の子供より勉強に対して意欲が高いのか。なぜ日本の子供は勉強したがらないのか。この本を読むと、そんなことを考えざるを得ない。
日本の子供が勉強したがらない理由。ごく自然に考えて、それはおそらく「勉強」が飽和しているからではないかと思う。
「アフリカの子供だって腹一杯になったらもう食わへんっちゅーねん!」というようなことを言っていたのは確か松本人志だったと思うが、つまりそういうことだ。途上国には、学問によって豊かになる=腹一杯になるというサクセスモデルがある。一方日本の子供は生まれながらにしてもう腹一杯だ。もちろん格差社会は厳然として存在している。しかし日本の子供が、川の水を飲んで死んだりするだろうか?日本の社会に問題がないとは言わないが、少なくとも発展途上国の格差と日本の格差は別種の問題であるように思う。

では、どうすれば日本の子供はもっと勉強するようになるのか。どうすれば日本はGDPで再び中国を上回ることが出来るのか。
もちろん僕にはわからない。しかし本当のところその方法は誰にもわからないと思う。なぜか。こんな状況は誰も経験したことがないから。戦後50年ほどずっと上り坂を上り続け、その後の10数年停滞を経た日本に、この状況を明解に打破する方法を知っている人間は居ないだろう。せいぜい落ち目のローマ帝国にでも聞いてみるしかない。
しかし、先の見えない日本にも明るい材料はある。それが、ゾマホンのように日本の素晴らしさを喧伝してくれる人物の存在だ。あるいは現在活発化しつつあるように見える日中・日韓、ひいては日本とアジアの交流。落ち目の日本も沈没しはしないと信じたい。竹島はやらないけど。
と、柄にもなく国の話なんかしてしまった。普段は日本のことなんかどうなってもいいと思ってるクセに。

しかし、こういった本でも読まなければ、普段はまずそんなことを考えたりしない。日本人は自分に都合のいいときだけ「貧しいアフリカの子供」を引き合いに出す。かくいう僕もそんな日本人の一人である。人間の想像力には限界があるので、「貧しいアフリカの子供」を思いやりながら同時に「故郷を失った難民」のことを思い浮かべることは出来ない。こういった問題は、まずは想像することからしか始まらないと思う。もしも自分の中に想像力を持ちたいと思うなら、その一助としてこの本を薦めたい。