rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

スピンク日記/町田康

スピンク日記

スピンク日記

内容紹介

私はスピンクといいます。犬です。小説家の主人・ポチと一緒に暮らしています。私たちの楽しい毎日について申し上げることにいたします。

歌謡曲を熱唱し、犬を追って走り、ときに文学の鬼となる。犬の目から見た作家の“実像”――「日常」こそが文学だ。
連載時より話題の傑作エッセイ、ついに刊行!
(スピンク日記 町田康 講談社)

スピンクは、作者・町田康が実際に飼っている犬だ。「スピンク」で検索すると、町田康の奥さんが書いていると覚しきブログがヒットする。

SPINK,CUTIE&SEEDの凸凹な毎日

スピンク、キューティー、そしてさらにもう一匹増えたのだろうか、ミニチュアプードル・ブラックのシードの写真が見られる。
彼らの姿はとても可愛らしい・愛くるしい。それはこの「スピンク日記」でも同様で、一枚一枚愛嬌のある、「生きている」スピンク・キューティの写真が見られる。それだけでも充分に楽しめるだろう。ところで一枚スピンクがハイジャンプしている写真があるのだが、一体どうやって撮ったんだろう。

なぜ町田康はこのエッセイのような文章の主役をスピンクにしたのか。多くの犬・猫を保護している作者なら、虐待された経験を持つキューティーを主役にして動物保護を訴えることも出来たはずである。そっちのほうが売れるかもしんないし。などと、我ながら下世話なことを読んでいて考えてしまった。

町田康は度々「犬や猫は人間と同じような家族・同居人である」というような発言をしている。おそらく、犬の悲劇性を強調するよりも、「人間と対等な存在としての犬」との生活を描きたかったのではないだろうか。
まったくもって正常な判断だと思う。そっちの方が本として面白いし。あるいは単にスピンクの方が作者として感情移入しやすかったという文章上の理由かもしれないけど。

以前、NHKのスタジオパークに出演した町田康は「普段間引いて使っている言葉を、細かく使いたい」というような発言をしていたが、確かに町田康の文章にはそういう性質がある。「言葉になる前に消えてしまった言葉」を言葉にするのが上手いとでも表現すべきだろうか。
そういった言葉の中には、普段人が暮らしていて「これは下らないな」と思って忘れてしまうような言葉や、「常識的に考えてこれは無いだろう」と思って無かったことにしてしまうような考えが含まれていて、そういったものを言語化することで独特の笑い・おかしみのような要素が生まれているのではないかと思う。

ちょっとうさんくさい言い回しだが、「言葉にすることが困難なものを言葉にする行為」こそが、より文学的な営為であるとされている。だからこそ現在の町田康の文学的評価が高い、とも考えられる。

まぁ文学とかそういう高尚な話は置いておくとして、町田康の「微細に入る」という文章上の特技を「犬との日常」に向けて発揮したことで生まれたのがこの本ではないかと思う。
こないだ、伊集院光がラジオで「パンダは可愛い」というテーマのみで30分話していた。一方この本は「自宅に蜂が出た」という内容だけで月刊連載の二月分を費やしている。方向性は違えど似たようなものを感じるのは僕だけだろうか。
例えシャケの切り身が飛んできたりしなくても、言葉によって日常はこんなにも面白くなる。スピンクもキューティーも毎日真剣に生きている。あえて大げさに言えば、生きる希望がそこかしこに転がっている。そんな一冊。