思考だだ漏れ読書録

とあるブログ書きの読書記録。

ねじまき鳥クロニクル/村上春樹

村上春樹全作品 1990~2000 第4巻 ねじまき鳥クロニクル(1)

村上春樹全作品 1990~2000 第4巻 ねじまき鳥クロニクル(1)


村上春樹全作品 1990~2000 第5巻 ねじまき鳥クロニクル(2)

村上春樹全作品 1990~2000 第5巻 ねじまき鳥クロニクル(2)

森のなかにいる。
当たりにはうっすらと靄がかかっていて、夏なので当然暑い。都会とはまた違った種類の蒸し暑さ。
定期的に感じる生き物の気配。鳥の鳴き声、草の揺れる音。
森の中をあくまでも進む。道は時に倒木に塞がれ、ぬかるみ、やたらと狭い崖沿いになったりするが、険しいという程でもない。アルプス山脈と比べたら、きっと遊歩道みたいなものだろう。
やがて針葉樹が立ち並ぶ緩やかな坂道に出る。視界が全てスギと思しき木々が作り出す垂直線に覆われていて、なんだか不思議な気分になってくる。
そこで僕は、その木の中から適当に見繕った一本を選び、樹皮をべりべりと剥がす。ちょうど赤ん坊の手の平くらいの広さになるように、すべらかな樹皮を露出させたら、背負っていたリュックから取り出したマジックペンで印を描く。
この行動にはなんの理由もない。そもそも僕はなんの理由もなくこの山合いの森にいるのだ。ただなんとなくそうした方がいいような気がしたからそうしただけだ。

突然、僕は森を見失う。自分の居る場所を見失う。さっきまで木だったものが木であることをやめ、葉音はまるで分厚い羽布団にくるまれたみたいに遠ざかる。
代わりにやってきたのは闇と静寂。何もない無の世界。
闇の中に、刃物のようなものが浮かび上がってきた。無いはずの光をきらりと反射して銀色に光る刃、木製の簡素な柄。
手を伸ばせば届きそうな距離にあるそれは、しかし決して触ることは出来ないだろうという気がした。ゆっくりと向きを変えるそれを、ずいぶん長い時間ぼんやりと見つめていた。

一瞬、目眩を感じて辺りを見回すと、さっきまでいた森に戻っていた。樹皮に刻んだはずの印はなぜか跡形もなく消えていた。
とにかくここを去ろう。そう思ってリュックを背負い直し、元来た道を引き返した。多分もう二度とここに来ることはないだろう。でも僕は今日の出来事を一生忘れることはないだろう。