rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

漱石はオモシロイ(三四郎/夏目漱石)

三四郎 (新潮文庫)

三四郎 (新潮文庫)


もはや説明の余地すらない文豪、夏目漱石の代表作、三四郎。
実は自分が三四郎を最初に読んだのは結構前。その前に「こころ」を読んでエラく感銘を受けた自分は、「あれ?俺文豪の本読めるんじゃね?スゲーんじゃね?」と思って、漱石の他の小説を手に取ったわけだ。
で、「草枕」は何とか読めた。まぁなんか難しいことを流ちょうに書いているなぁと思った程度だったが。しかし三四郎は最後までたどり着けなかった。なぜか。
今になって考えてみれば大体わかる。まず「三四郎」は結構「文語寄り」だ。そして、現代と異なるような言い回しが多く出てくる。今の僕は、そこそこの量の本を読んできたおかげで、わからない言葉が出てきても字面や前後の筋から大体推察できる。しかし「こころ」を読んで小説、というか一般的な意味での文学に目覚めた僕にとって、「三四郎」はちょっときつかった。
更に、書き出しの違い。「こころ」の書き出しはいわずとしれた、

私はその人を常に先生と呼んでいた。だから此所でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。

である。「小説として」非常に「良い」書き出しだ。最初の一行で読者の興味を惹く。教科書的ですらある。「さびしさは鳴る。」みたいなものである。書き出しだけではなく、こころという作品全体が、近代小説のお約束に乗っ取って書かれていると言って差し支えはないだろう。だから初心者がいきなり読んでもわかる。

しかるに「三四郎」は、いきなり電車内での女性と老爺の会話から小説が始まる。その女性と道連れになり同じ宿に泊まった三四郎は、女性から「この根性無しのタ○無し野郎が!(超意訳)」と愚弄される。三四郎から漂う童貞臭。当時の僕はこれでは感情移入できなかった。わくわく出来なかった。まぁ、やっぱりそこはファンタジーを求めていたんだろうね、うん。
のみならず、三四郎は「吾輩は猫である」と同様、風俗小説としての側面を持っている。明治の日本の社会風俗を描く小説でもあったわけだ。そのへんの知識をあまり持っていなかった(今も大差ないけど)僕にはそれもちょっとキツかった。

しかし今日僕は「三四郎」を読んだ。読めた。そして「現代でもイケル!」と思った。何様なのだ俺は。

どういうことか、簡単に言うと、この小説の主題はこころと同じく男女の三角関係。まぁこころと違って三角の要素は薄いんだけど、でも基本はやっぱり三角関係。漱石は割と三角関係を書くのが得意で、っていうかそもそも男女関係っていうのは本来的に三角関係なんだよ。異論は認めない。そしてそういう人間関係の根本的なトコロを書けている漱石スゲーって話になるわけ。

ちょっと砕けすぎたけど大体そういうことになる。つーかこれ新潮文庫版「それから」巻末、柄谷行人が書いてる解説のほぼ受け売りなんだけどね。いずれにせよオモシロイよ、「三四郎」。