思考だだ漏れ読書録

とあるブログ書きの読書記録。

1Q84/村上春樹

1Q84 1-3巻セット

1Q84 1-3巻セット


 表の顔はスポーツインストラクター、裏の顔は対DV夫専門の暗殺者である女性・青豆と、小学校の同級生で小説家志望の予備校教師・天吾。二人は1984年とほんの少しだけ異なる歴史を辿った別世界『1Q84』に迷いこむ。リトル・ピープルが存在するその世界で、二人は20年の時を超えて強く惹かれあい求め合う。果たして二人の運命は…?そういう小説。

 1Q84については、それこそ掃いて捨てるほどの人たちが掃いて捨てるほどの書評を書いているので、小説そのものを読まなくても書評を読めばどんな小説なのか大体わかってしまうという状況になっている。ま、それは別に悪いことでも何でもなく、むしろよろしいことである。この記事もネタバレ有りなので注意。
 僕自身、1Q84を読み終わっていないのにも関わらず、ついつい興味本位でそういった書評を読んでしまい、結果大体のストーリーを把握した状態で読み始めることになった。しかし読み終えてみれば、そういった予備知識が読むための障害になることは全くなかった。いい小説とはそういうものだと思う。
 1Q84のテーマの一つはビッグブラザーからリトル・ピープルへの変遷であると言っていいだろう。
 かつては父権的な支配者がいた。一つの巨大な悪が我々を脅かし自由を制限していた。しかし今やそういったビッグブラザーは姿を消し、我々を支配するのは「システム」となった。村上春樹エルサレムのスピーチ「壁と卵」で語ったあのシステムだ。
 システムは相互監視的な形を取る。システムに主体は存在しない。意思決定はシステム全体の構造によってなされる。
 その違いは、ロボットアニメの進化を見ればイメージしやすいと思う。マジンガーZからガンダム、そしてエヴァンゲリオンへ。そこに描かれる敵は異星人から同じ人間、そして正体不明の使徒へと変化している。

 というようなことは、ちょっと最近の批評家の本をかじっている人ならすぐにわかることだ。村上春樹はそのへんをかなり直截的に1Q84の中で描いている。しかしそういった批評的な要素をわずかでも持った本が、近年にない大ベストセラーになったというのだから、村上春樹の動員力たるや凄まじい。

 もう一つ、この本について容易に指摘できることは、セルフカバー的な部分が多く見受けられるということだ。
 まず、最初に第一巻と第二巻が出版され、後から続編が書かれるという経緯や、牛河の登場などは「ねじまき鳥クロニクル」と共通している。青豆と天吾、二人の物語が交互に展開されるという構造は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」や「海辺のカフカ」で用いられた手法だ。主人公と父親との関係が描かれるという展開は「海辺のカフカ」を彷彿させる。
 愛する人との別離は村上春樹が長編作品の中で繰り返し描いてきたモチーフだ。天吾の年上の愛人は突然「失われて」しまう。「羊をめぐる冒険」における「ガール・フレンド」の消失に似ていると感じた。幼なじみが再び出会うという展開は「国境の南、太陽の西」と同じだ。

 もちろん、似ている部分もあれば異なる部分もある。
 1Q84は、村上作品の中ではどちらかと言えばリアリスティックに近い(=SF・ファンタジー要素が薄い)小説だと思う。まぁそもそも1Q84という世界設定自体が思いっきりファンタジーといえばファンタジーなのだが、その世界の原理は基本的に現実世界のそれと違いがない。
 全編SF的な「世界の終わり」や、「あちら側の世界」に行くことが多い「ねじまき鳥」と比べれば、わりと現実世界に近い。そのへんも1Q84が売れた要因の一つかもしれない。

 村上春樹の長編では「こちら側の世界」と「あちら側の世界」を行ったりきたりすることが多い。「あちら側の世界」では、時に不可思議なことが起こる。「羊をめぐる冒険」では山小屋で既に死んでいる鼠と会うことが出来るし、「ねじまき鳥」では井戸の底で概念的な妻と綿谷昇に邂逅する。
 しかし1Q84では、「行ったり来たり」という要素はどちらかと言えば薄いと思う。そもそも作品全体が1Q84という別世界への「行きて帰りし物語」という王道的な展開だからかもしれない。ん?ちょっとわかりづらくなってきた。
 つまり今までの作品は「こちら側⇔あちら側」という構造が多かったが、1Q84では「常に別世界」という側面の方が強いということだ。
 1Q84の中でも「あちら側」の描写が無いわけではない。雷雨の夜の青豆とリーダーの対峙、それと同時に行われた天吾とふかえりの性交、あるいは天吾と安達クミのアパート(だっけ?)の一夜。
 しかしそれらの描写はそれほど濃密ではない。むしろあっさりしていて文量も少ない。あくまで主観だが。リーダーが時計を浮かせるシーンは安っぽさすら感じさせる。

 「あちら側」とは無意識の描写であるという指摘が多いが、今作で無意識の代わりに多く描写されているのは、天吾と青豆の関係に代表されるような、人と人との運命的な関係性だろう。
 そもそも20年前に一度手を握り合っただけの男女が、運命的な再開を果たす、という展開自体が、さっき書いたことと反するが完全にファンタジーである。はっきり言ってありえない。リア充爆発しろ。ん?違うか。
 他にも、この作品の登場人物は「理由もなく確信」することが多すぎる。この子は私と彼の子だと確信したり、自分はこいつの実の息子ではないと確信したり、ふかえりはこう考えていたに違いないと確信したり。そもそも村上作品の登場人物にはこういった傾向があるが、ここまで多いのは今までにないと思う。いや、何も批判しているわけではない。
 運命的な繋がりは、システムに対抗するための手段なのではないかと思う。システムは人を匿名化する。しかし人と人との関係性は、どこまでも匿名化に逆行する。そういう形において。いや、僕自身よくわからないでこれを書いているけれども。多分どっかで誰かが同じようなことを書いていてそれを読んだんだと思うけど。