rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

村上春樹、河合隼雄に会いにいく/村上春樹・河合隼雄

村上春樹、河合隼雄に会いにいく

村上春樹、河合隼雄に会いにいく


 村上春樹河合隼雄、二日間に渡る対談を収録した本。
 この対談が行われたのは1995年11月。『ねじまき鳥クロニクル』第三部刊行が1995年8月なので、その直後となる。そのため、ねじまき鳥クロニクルという作品が中心的なテーマの一つとなっている。
 ねじまき鳥クロニクル、といえば村上春樹作品における重要な転換点とされている。何が重要なのかといえば、社会への「コミットメント」へと、作風が変化していったからだと言われている。どういうことか。
 個人的な解釈で言うと、『ねじまき鳥』以前の中・長編作品における村上作品のテーマは主に「人生における喪失や孤独と、どのように向き合うか」といったようなものだった。ものすごくざっくりと言えば。だからというかなんというか、どちらかと言えば若者向けの風情があったと言える。
 それが『ねじまき鳥』以降になると、「(社会/人の心)に潜む(闇/悪)のようなものと、どのように向き合うか」という方向にシフトしてきた。やはりざっくりしているが。
 そのような時期に村上春樹が出会ったのがユング派心理学者の河合隼雄である。
 ユングとは、フロイトが提唱した精神分析の流れを汲む(と本人たちが主張している)、ユング派精神分析の提唱者である。
 現代におけるパブリックイメージ的には、ユング、と言うと、オカルト、という印象が無いではない。「集団的無意識」みたいなことを言い出したり、ユング自身が患者とデキチャッタりした経緯などから、学術的正統からはかなり遠いと言わざるを得ないようだ。
 文芸批評の分野では、これまたフロイトの継流とされるラカンの方が人気が高い。しかしユングにせよラカンにせよ、現代の精神医療の現場で彼らの理論をそっくりそのまま実践しているのかというと、全然そんなことはないらしい。
 そんなユング派とされている心理学者と村上春樹の出会い、である。
 村上春樹河合隼雄という人にかなりの親近感を感じている(河合氏はもう亡くなっているので「感じていた」だろうか)ようである。河合氏に対しては言いたいことがスッと伝わるというようなことも書いている。しかし、村上春樹ユングに心酔した、というような印象は、文面からは全く感じられない。
 この本は村上春樹の全集である『村上春樹全作品1990〜2000 7』に収録されているが、そこに加筆された『解題』によると、村上春樹がこれまでに読んだユングに関わる本は、河合氏によるユングの伝記一冊のみであるという。心理学や精神分析の類の本は、小説を書く妨げになりそうなので本能的に避けているとも取れることも書いている。

 あえて穿った見方をする必要はなく、村上春樹ユングではなく河合隼雄という人個人に対して信頼を寄せていた、と読むのが妥当だろう。まぁ、この本に書いてある内容はすべてフィクションで、実際のところ村上春樹河合隼雄ユング的に意気投合しており、毎年世界中のユング派が集結して密かに開かれる、ユングを称える呪術的儀式「ユング祭り」の締めを飾る「大ユング落とし」を執り行うという大役を、村上春樹が務めるようになった、という可能性も無いわけではないが、それは単なる邪推、というかただの妄想である。
 この本の読みどころは、何と言っても、村上春樹が小説を書くという行為について語っていることではないかと思う。「壁抜けには体力が要る」とか、「小説は右手でプログラミングしながら左手でプレイするロールプレイングゲーム」だとか。それ以外にも共感できる部分がたくさんあった。世界観、のような難しい問題について、これほどラディカルな意見交換が可能であるということ自体に心を動かされたりもした。
 ちなみに、この本と同じく『村上春樹前作品1990〜2000 7』に収録されている、村上春樹によるインタビュー集『約束された場所で』にも、村上春樹河合隼雄の対談が収録されている。