rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

フラニーとゾーイー/J.D.サリンジャー

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

フラニーとゾーイー (新潮文庫)


 天才兄弟の末妹と末弟であるフラニーとゾーイーは、幼い頃に長男・次男から思想・宗教教育を受けていた。で、大学生になったある日、フラニーはデート中に倒れ、それ以来部屋で寝込んでしてしまう。妹と対話を試みるゾーイー。そんなストーリー。
 なぜフラニーは神経衰弱のような状態に陥ったのか。それは周りの人間達のエゴに対する苛立ちだという。その気持ちは理解できなくもない。格好つけてばかりの同級生男子。ロクでもない大学教授。ことさら転載の兄たちの教育を受けたフラニーにとって、俗物に囲まれることがどれほど耐え難かったかは想像に難くない。
 しかし。しかしである。自分の周りがダメだからといって、自分自身が打ちのめされてしまうのは、少々道理にそぐわない。本当にダメな奴だと思ったらさっさと距離を取ればいい。そこのところに、フラニーが倒れてしまった理由の重要な部分が隠されているのではないか。
 フラニーとゾーイーを含むグラース家の兄弟姉妹全員は、子供が出演するラジオのクイズ番組で「神童」として扱われていた。全員が全員である。「ネーヨ」と突っ込むのは無粋というものである。そこはフィクションと思って流すのがマナーというものである。つまり兄弟姉妹揃って相当なエリート、というかサラブレッドのようなものだったわけだ。
 一方でグラース兄弟の長男であるシーモアは拳銃自殺によって他界している(ちなみに、出来のいい兄弟の自殺、というモチーフは、村上春樹の「ノルウェイの森」でも扱われている。サリンジャー村上春樹に影響を与えたことは周知の事実だろう)。
 身も蓋もない言い方をしてしまえば、そういった歪み、鬱屈、屈折が、フラニーに悪影響を与えたのであろう。身も蓋もなくない詳細を知りたい人は、是非本書に直接当たっていただきたい。そんなに長くないしね。
 ネタバレなのでぼかして書くが、ゾーイーが言いたいことは、簡単にいえば「俗物を俗物だと切り捨てる権利や、それに足りる能力を持っている人間などどこにもいない」ひいては「人間はそんなに単純じゃない」というようなことではないかと思う。あくまで僕の解釈。