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思考だだ漏れ読書録

とあるブログ書きの読書記録。

小説の読み方、書き方、訳し方/高橋源一郎 柴田元幸

小説の読み方、書き方、訳し方 (河出文庫)

小説の読み方、書き方、訳し方 (河出文庫)

 高橋源一郎という人は不思議な人で、評論を書く時はむちゃくちゃわかりやすい文章を書くのに、小説はかなーり難解。普通逆じゃない?
 今現在、いわゆる純文学雑誌において、普段文学と無縁の普通の人が読めるような文章を連載で書いている人は、多分高橋源一郎だけだろう、と言っていたのは、確か内田樹だったと思う。
 それに対して、小説の方は、かなりアレである。アレってなんなのよ、と思うかもしれないが、適切な言葉が見つからないのである。「前衛的」とも言えるし、「ポストモダン」とも言えるかもしれないけれども、そういう言葉が当てはまらない作品もある。かと言って、「高橋源一郎節」みたいに文体に特徴があるわけでもない。
 そんな、なんだかわからないけどスゴい高橋源一郎の文学観・小説観を知りたくて、彼の小説を出版順に読んでいたのだが、『日本文学盛衰史』を読み終わったところで、この『小説の読み方、書き方、訳し方』の存在を知ったのである。
 で、読んだ。読んだら、載ってた。なにが?高橋源一郎の文学観・小説観、的なものが。そしてそれらがヒジョーに興味深かった。
 例えば「コード」についての話。


 小説というものには、様々な「お約束」がある。例えば「三四郎」という小説は夏目漱石が書いた小説だが、普通に三四郎を読むとき、人は夏目漱石という作者の存在を「無いもの」として扱う。作中に出てくる三四郎のセリフは、本当は夏目漱石が書いたものに他ならないのであって、それをさも三四郎という人物が喋ったかのように書くのは、ある意味では、真っ赤な嘘である。
 もちろんそんなことをいちいち意識していたら小説が成り立たないので、それは嘘ではない、というルールになっている。そのルールが「コード」なのである。
 ちなみに、メタフィクションという手法もあって、一見コードを無視しているかのようだが、あれはあれで別のコードに依っている。
 世の中には、コードの存在を意識せずに書いたり読んだりしている人たちがいる。一方で、コードの存在をどうしても無視出来ない人たちもいる。それが高橋源一郎であり、いわゆる純文学と呼ばれる小説を書く人たち(全員ではないだろうけど)なのだろう。
 コードを前にした作家は、というか人は、どのような態度をとるか。

(1)わかっているけれども面倒臭いからコード通りに書く。
(2)コードのあるものは書けないので書かない。
(3)「コードがあるよ」と書く。

 この三つしか無い。
 例えば、度々「書くことがない」と書いていた中原昌也は典型的な(3)で、実は二葉亭四迷も(3)だったりする。


 とか。
 他にも、保坂和志が「(綿矢りさが)近代文学の息の根を止めた」と言ったことがあって、それは綿矢りさに「魂の午前三時臭」が全く無いからではないか、というような面白い話があるんだけど、その辺は買って読んでくださいな。
 個人的には、海外小説をあまり読まないので、柴田元幸という人については「村上春樹と仲のいい人」くらいのイメージしかなかったが、問題なく楽しめた。ちなみに村上春樹についての話も結構出てくる。
 というか、この本には高橋源一郎・柴田元幸が選ぶ海外文学及び日本文学のリストが載っていて、これだけでも非常に価値がある。この本に出会えてよかった。マジです。