rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

はじめてわかる国語/清水義範

はじめてわかる国語

はじめてわかる国語


 文・清水義範、絵・西原理恵子のシリーズ、国語編である。ブックオフで立ち読みしたところ、谷崎潤一郎の『文章読本』についての話が載っていたが気になって購入。
 内容としては、日本語についての話と、学校で教える教科としての「国語」の話が両方あって、微妙にタイトルと内容が食い違っている感はあるが、内容自体は興味深い。
 特に興味深かったのは、「国語が道徳教育になっている」ということ。
 少し自分の話をすると、自分は小学校一、二年生くらいまで、作文と言うものが苦手な子供であった。なぜかということを今になって考えてみると、先生は「思った通りに書きなさい」と言うばかりで、具体的な書き方というものを全然教えてくれなかったからではないか、と思う。
 作文と言うのは、一定のテンプレートに乗っ取って書くものだ。まず「こうえんにいった」「ぶらんこであそんだ」というような事実を書いて、「たのしかった」という感想を書く。このとき、ネガティヴな感想を書くことは先生にはあまり好まれない。
 そーゆう暗黙のルールがある、ということを、先生は決して直接は教えてくれない。空気を読め、ということらしい。で、そこで空気を読めた子供に良い成績がつく。
 そんな風にして、国語は子供に「かくあるべし」という型を押し付けてくる。そして国語本来の、言語を用いて意味内容を伝達する力を高めるという目的はおざなりにされている。
 似たような話を、音楽という教科についても聞いたことがある。
 今はどうなっているか知らないのであまり自信を持って言える話ではないのだが、昔は小学校低学年くらいの子供が歌を歌うとき、怒鳴るような歌い方をしていることが多かったように思う。あの歌い方は、あまりよろしくないものである。なぜよろしくないかというと、大人になってから「良い歌い方」とされている発声方法とはあまりにもかけ離れているからだ。個人的には、あの歌い方のせいで日本に音痴が増えているのではないか、という気さえする。
 あれがよくない歌い方だということは、先生だってちゃんとわかっているはずである。しかし直そうとしないのは、あれが「子供らしくて元気な」歌い方だと思い込んでいるからではないだろうか。そしてここでも、「音楽性を涵養する」という音楽教育の目的よりも、「らしさ」の方が重視されてしまっているのである。
 「らしさ」の強要、つまりイデオロギーの強要。そう、学校教育とはイデオロギー教育に他ならないのだ!(ナンダッテー!?
 と、ここまでやけに悪し様に書いてきたが、しかしこれらは仕方ないことでもある。子供に「かくあるべし」ということを教えるのは、つまり「しつけ」であって、学校教育は家庭に替わって「しつけ」をすることを求められてきた。それが最近になって「しつけなんてウゼーよ」と思う人が増えてきた結果、学校も家庭もしつけを放棄し、教育ってナニ?みたいな状況になっているのが現代なのではないかと思う。
 というような、世間知らずな僕の俗流教育論は置いておくとして、そのような教育とは何か、日本語教育とはどうあるべきか、みたいな話を、極めて平易な文章で読みやすく書ける清水義範はスゴイ。今風の乱れた日本語で言うならヤベェ。マヂヤベェ。もちろん西原理恵子の絵もいい味を出していて、バランス感覚が優れている。全国の国語教師に、いや学校の教師に読んでいただきたいシリーズ本である。