- 作者: 保坂和志
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2000/05
- メディア: 文庫
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保坂和志、という小説家を、自分の中でどんな風にとらえればいいのかわからない。わーからないー、と、うめいてみたところで、やっぱりわからないものはわからない。わかることから書いていこう。
この小説には、これといった事件が起こらない、と言われている。世間一般の評価として。
だからスゴい、だから意義がある小説なのだ、という考え方は、深いようでいて結構安易だと思う。
ふつうに毎日を生きていて、全く何も起こらない、というのは、結構な異常事態ではないだろうか。
なぜなら、人間というのは、ドラマティックなものを無意識に求めるように出来ている。だからセンセーショナルな見出しの週刊誌だとか、お昼のワイドショーといったようなものが成り立つのである。
じゃあ、なぜこの小説にはそういうドラマティックなことが、起こったりしないのはなぜなんだぜ?なぜを二回使ったのはわざとなんだぜ?
それは、保坂和志という人が生来的にドラマティックを求めない人間だから、ではないと思う。
むしろ、意識して、訓練と呼んでもいいような努力によって、ドラマティックを避けているんだと思う。エッセイなんかを読んでいると、そんな風に感じる。
そこんところに僕はすっきりしないものを感じてしまい、保坂和志がわからなくなってしまうのである。なぜか。
ドラマティックを意図的に避けるのは、この世の中に既にドラマティックというものが存在してしまっていて、それにうんざりして、そのアンチとしての非ドラマティックがいい、と思ったからなんじゃないかと思う。「思う」が多い。
でもそれって、なんだか50過ぎて脱サラして田舎暮らしを始めるような夫婦の発想に似ていないだろうか。
この人がドラマチックを批判できるのは、ドラマチックというものが存在しているおかげであって、もしも仮に、絶対にありえないだろうとは思うけど、ドラマチックというものが全てこの世から無くなってしまったとしたら、この作品にはなにが残るのだろう。
言い換えれば、絶対にこの世から無くならないであろうドラマチックというものに、この作品はよりかかっている、依存してるんじゃないだろうか。
と、いうのはこの小説を読んで思ったごく一部のことであり、別に、だからこの小説がダメだと言っているわけではないということはわかっていただきたい。
じゃあなにを言いたいのか?と聞かれても、自分にだってよくわからない。だって、ただ思いついただけなんだから。
そんな風に、色んなことを考えさせらるのがいい小説の条件なのかな、と思ったが、この小説のあとに織田作之助の小説を読んだら、ドラマチック方向にすごく面白くて、いい小説ってなんなのかますますわからなくなった。『プレーンソング』はそんな小説。そんなってどんなだ。