rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

死者の奢り・飼育 / 大江健三郎

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

 初読。この時代に、大江健三郎を初読するって、なんか色々アレだな、と思った。アレとはなんのことなのかは、よくわからない。

 読んでみて思ったのは、センセーショナルだな、ということ。死とセックスさえ書いておけば文学の出来上がり、と最初に言ったのが誰かは分からないが、この短篇集にはその二つが横溢している。加えて、外国兵という形をとって、戦争(敗戦)が様々な影を落としている。性と死と戦争。当時読んだ人はぶったまげたのかもしれないが、もしかすると50年前の小説ではこれくらいフツーだったのかもしれない。

 単にセンセーショナルなだけでなく、それらの要素を通して「人間の本質」を描こう、という強い意志が感じられる。ここで言う「人間の本質」というのは、「すべての人間は平等な本質を持っている」というような意味ではなく、「状況によって人間のありようは簡単に変わってしまう」という本質である。

 生きていたときは様々な個性を持っていたであろう人間も、死んだら「一山いくら」のモノとしてプールに沈められる(死者の奢り)、だとか。愛すべき家畜だったはずの黒人兵が獣に変わってしまう(飼育)、だとか。退廃的な少年病棟が、一人の少年によってモラルを取り戻したかに見えたものの、彼の病気が治って退院してしまうとまた元の退廃的ムードに戻ってしまう(他人の足)、だとか。同じバスに乗っていた人間が、外国兵のイタズラによって、「羊」とそれ以外に別れてしまう(人間の羊)だとか。

 そういう、人間というのは状況でいくらでも変わりうるものだ、という認識は、「キャラ」という、昨今のゲームやアニメに登場する不変の属性を持った人物とは対極的だな、と思う一方、そういう「人間は変わりうる」という認識もまた、当時の流行のようなものだったのかもしれない、とも思った。

 また、「人間の羊」以外の作品は、「なにか事件が起こるものの、結局元の状態に戻ってしまう」というような展開になっている。小説全般から見れば一般的な展開なのかもしれないが、昨今のいわゆる純文学的な小説と比べるとちょっとご都合主義感がある。あくまで今の感覚で言うと。

 大江健三郎というと、「悪文」と言われることもあるような独特の文体で有名だが、本書の中にも読みづらい文章が何度かあった。一文が長すぎて意味が取りづらい、というパターンが多い。とはいえ解読不能というレベルではなく、何度も読み返せばちゃんと意味はつかめた、と思う。