rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

もし僕らのことばがウィスキーであったなら / 村上春樹

どのような旅にも、多かれ少なかれ、それぞれの中心テーマのようなものがある。四国に行ったときは死ぬつもりで毎日うどんを食べたし、新潟ではまっ昼間からきりっとした彫りの深い清酒を存分に味わった。できるだけ数多くの羊を見ることを目的として北海道を旅行したし、アメリカ横断旅行では数え切れないくらいのパンケーキを食べた(一度でいいからうんざりするくらいパンケーキを食べてみたかったのだ)。トスカナとナパ・ヴァレーでは、人生観に変化が生じかねないほど大量のうまいワインを胃袋に送り込んだ。ドイツと中国ではどういうわけか動物園ばかりまわっていた。

 本屋で冒頭を立ち読みして、思わず買ってしまった。近所のブックオフなら中古で買えるはず、ということを思いつく暇もなかった。それくらい、この文章に打ちのめされた。してやられた。グッと来た。

 人生には、下らないこと、しょーもないこと、ゲンナリするようなことがいっぱいある。でも、死ぬつもりで毎日うどんを食べたり、人生観に変化が生じかねないほどのワインを飲んだり、といった、すばらしい時間があることもまた確かだ。

 そのような時間を胸に抱えながら生きられれば、人生はそれほど悪くないものなのかもしれない。もちろん、それはなかなかに難しいことではあるけれども。そんなことを思う。チキンラーメンを食べながら。



 本書は著者・村上春樹がウィスキーの名産地であるスコットランドのアイラ島、およびアイルランドを旅して得た見聞を記したエッセイである。

もし僕らのことばがウィスキーであったなら (新潮文庫)

もし僕らのことばがウィスキーであったなら (新潮文庫)

 主題がウィスキーというだけあってか、ひときわムーディー、というか、蠱惑的な、というか、とにかく読んでいると気持ちよくなるエッセイである。まさしく極上のウィスキーが如し。と、ウィスキー好きだけど味の違いもわからないような僕がそんなことを言っていいのかはわからないが。

 そして牧歌的である。ハイパーに牧歌的である。先祖代々ウィスキーを作り続ける人々。なにも言わずバーのカウンターに座るだけで、勝手にウィスキーが出てくるほどの、常連と思しき老人。変わらない日々の暮らし。まるでウィスキーのコマーシャルの世界、いや、ウィスキー宇宙というべきか。こんな暮らしをしてみたい、とふと思ってしまうのは隣の芝生というやつであろうが、それにしても、あまりに魅力的だ。

 村上春樹作品で、ウィスキー、というと、『羊をめぐる冒険』の「僕」と相棒のやりとりが思い起こされたので、読み返した。真面目な男が、真面目ゆえに、酒に溺れていく。酒は味わうものであると同時に、溺れるものでもあり、罪作りなものでもある。

 若者の酒離れが進んでいる、なんて話も聞くが、この手の話は総じてアテにならない。よしんば本当に酒離れが進んでいるとして、ではそのかわりになにをやっているかといえば、スマホでソーシャルゲームだったりする。さとり世代が聞いて呆れる。と、今どきの若者が申しております。



 「例外的に、ほんのわずかな幸福な瞬間に、僕らのことばはほんとうにウィスキーになることがある」と村上春樹は言う。それは一体どんな瞬間だろうか。おそらく、深いコミュニケーションが成立する瞬間、のことであろう。こーいうことをこーいう言い方で言ってしまうと身も蓋もないのだが、そもそも僕は身も蓋もない人間なので別に構わない。

 ことばがウィスキーとなる瞬間は、仮に若者が酒を飲まなくなっても、もし万が一(絶対ありえないけど)酒というものが人の世から無くなったとしても、人の世があるかぎり無くならないはずであり、つまりウィスキーは最高、ということになる、と、僕は言い切りたい。そんな気分にさせられた。絶品である。