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思考だだ漏れ読書録

とあるブログ書きの読書記録。

「女のいない男たち」と「かぐや姫の物語」

む:村上春樹 読書メモ

女のいない男たち

女のいない男たち

 村上春樹の短篇集。発表から一年近く経って、ようやく読了。ほとんどの収録作を雑誌連載時に読んでいたので、読むのを後回しにしていたのである。こんな自分は「村上主義者」を名乗ってもよいのだろうか?別に名乗りたいわけじゃないけども。

 しかし「そろそろ読もうかな』なんて思って買って読んでみたところ、今の気分に完璧にフィットしていて、とてもよかった。読むべき時に読めた。そんな気がする。


 いずれの短編も、主人公の男が、なんらかの形で女を失う(あるいは得られない)という運命を辿る。既に失っているケースもあれば、「失うかもしれない」という予感のみで終わる話もあるが、いずれにせよ「女の不在」というテーマは共通している。

 どんな形であれ、愛する人を失うのは悲しいことだ。しかし村上春樹は「たとえ彼女がいても妻がいても、男というのはいつも基本的に「女のいない男たち」なんだという気がします。」とも語っている。僕もそれに同意したい。

www.welluneednt.com


 先日「金曜ロードショー」で「かぐや姫の物語」を観た。

かぐや姫の物語 [Blu-ray]

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 幼い頃は無邪気に育ったかぐや姫は、翁の図らいにより、都に出て高貴の姫になるべく、教育を受ける。

 やがて化粧のために、眉を抜かれ、歯黒をさせられそうになるのだが、かぐや姫は「眉を抜いたら汗が目に入る」「歯黒を塗ったら口を開けて笑うことも出来ない」と言って抵抗する。

 教育係の女が「高貴の姫は汗をかかないし、口を開けて笑わない」と答えると、かぐや姫は叫ぶ。

 「高貴の姫は、人間ではないのね!」と。

 かぐや姫が言うとおり(あるいは「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」とボーヴォワールが言ったとおり)、女性は成長するに従って、人間(=自然)から女(=人工物)に変化することを、社会から求められる。化粧をし、華美な衣装を身にまとうのは、女性の体が持つ「自然」を否定するためだ。

 なぜ女にならねばならぬのか?それは、男に所有されるためだ。無力で、従順な、女として。


 というような解釈は、フェミニズムの理論をかなり形式的に当てはめたものであって、実際はもうちょっと複雑なんだろうけれど、話を簡単にするために(というか僕がフェミニズムに詳しくないのもあるけど)このまま先に進める。


 では、社会の要請によって半ばムリヤリ女にされて男に所有されることを強いられる女は、常に被害者であって、反対に、男は常に加害者なのか、というと、もちろん違う。

 女が「所有されよ」と言われるのと同じように、男もまた、「所有せよ」という社会的要請を受け続けながら成長する。

 そして、女を所有できない男は、落伍者として扱われることとなる。

 ゆえに「女を所有できなかった」という経験は男の心に傷として刻まれることになるし、また、「女を所有できないのではないか」という恐怖に、男は常に多かれ少なかれ脅かされながら生きることとなる。

 そのような傷や恐怖は、男という生き物が本来的に持っている欲深さがもたらす業のようなものなのだろうか。いや、そうではない。

 「所有せよ」という命令は、男が生まれる以前から、ルールとして、システムとして、存在してしまっていて、そこから逃れることは、かなり困難である、というより、原理的に不可能なのではないかと思う。

 なぜ不可能なのかというと、所有することを完全放棄した男は、その時点で男では無くなってしまうからだ。

 女を所有しようとする過程で、男は傷つく。時には、石上中納言のように、腰の骨を折って死んでしまうこともある。

 石上中納言の死を知ったかぐや姫は、「みんな私のせいで不幸になった」と泣き叫ぶ。そんな彼女を、媼は「あなたは悪くない」となぐさめる。そう、確かに、彼女だけが悪いのではない。「所有し、所有されろ」という男女関係の原理が、彼を殺した、とも言えるからだ。



 「女のいない男たち」を読んでから「かぐや姫の物語」を観たせいで、僕は月に帰ったかぐや姫だけでなく、残された捨丸や、御門(アゴ)たちのことを考えてしまった。

 ある日突然、あなたは女のいない男たちになる。その日はほんの僅かな予告もヒントも与えられず、予感も虫の知らせもなく、ノックも咳払いも抜きで、出し抜けにあなたのもとを訪れる。ひとつ角を曲がると、自分が既にそこにあることがあなたにはわかる。でももう後戻りはできない。いったん角を曲がってしまえば、それがあなたにとっての、たったひとつの世界になってしまう。その世界では「女のいない男たち」と呼ばれることになる。どこまでも冷ややかな複数形で。

「女のいない男たち(表題作)」(村上春樹)

 彼らは、かぐや姫がいなくなっても、そのまま生き続けるだろう。捨丸には家族がいるし、御門(アゴ)に至っては、いくらでも女を好きなようにできる。

 でも、かぐや姫を失ったという心の空白は、きっと彼らの中に残り続ける。例え現在が満たされていたとしても、その空白は一生涯消えることはない。それが「女のいない男たち」になるということなのだろう。

 たとえ僕抜きであっても、(中略)幸福に心安らかに暮らしていることを祈る。
 女のいない男たちの一人として、僕はそれを心から祈る。祈る以外に、僕にできることは何もないみたいだ。今のところ。たぶん。

「女のいない男たち(表題作)」(村上春樹)


 所有なんてやめて、自由に生きられたらいいのに、と思う。僕も思う。でも、所有はこの世界のルールなのだ。そして人は、知らず知らずのうちにルールを受け入れてしまうし、ときには「ルールを受け入れること」に憧れさえする。かぐや姫が地上に憧れたように。