思考だだ漏れ読書録

とあるブログ書きの読書記録。

本を読んで思い出した、昔のこと。

 本を読んで、歩くと、昔のことを思い出す、ということがたまにある。思い出すことは、大抵の場合、本の内容とは全然関係ない、苦い思い出だ。

 久々にがっつり本を読んでから歩いたら、昔のことを思い出して、暗い気持ちになった。

 でも、そうやって昔のことを思い出すことで、少しずつ辛い過去を受け入れていく、という、いわば記憶の変換作業のようなことを、僕は無意識にやりつづけていたのかもしれない。


 あの頃の僕の気分は、とてもじゃないが明るいとは言えないものだった。たった一人で、月面に放り出されたような、真っ白な砂漠にいるような、そんなような感じだった。ようするに、僕は孤独だった。

 どうしてそんなに巨大な孤独を抱えることになったのか、当時の自分にはうまく理解できなかったが、今なら言葉にして説明できる。

 僕の親しい友人は、みんな恋人を得ていた。そして、僕一人が、ひとりだった。

「みんな」と言っても、本当に全員に恋人がいたわけじゃない。でも当時の僕の目には「みんな」に見えていたし、自分一人が「ひとり」であるように感じていた。

 そして僕はそのような状況に対して、「奪われた」というような喪失感を持っていた。

 もちろん事実は違う。誰も僕から何かを奪ったりはしていない。「得られなかった」と言ったほうが正しい。

 でも僕の感覚では、それは「奪われた」だった。


 なによりも問題だったのは、僕がその「奪われた」という感情に、適切な言葉を与えることができなかった、ということだったのだと思う。

 なぜ適切な言葉を与えられなかったかといえば、その感情が、理屈の通らない、不条理なものだったからだろう。

 「みんな」はキチンとルールに則って恋愛をしている。そして僕が「ひとり」なのは、そもそもルールの上で戦うということをしなかったからだ。僕はあくまでも、戦うのが苦手なのだ。

 戦わずに負けた人間に、文句を言う筋合いはない。そういう「理屈」を僕はよくわかっていた。だからこそ、自分の中にある理不尽な「怒り」のようなものを、意識の上に顕在化させることができずに、ただ苦しんでいた。

 おそらく僕は、不条理でもなんでもいいから、その感情を自分のものとして受け入れて、怒るなり嘆くなりするべきだったのだと思う。でも、あのころの未熟な僕には、それがわからなかった。


 「オトナになったら本を読まねばならない」となぜか思い込んでいた僕は、暇だったのもあって、図書館に通った。そこで出会ったのが、小説だった。

 「人間失格」を読んで、「これは俺のことか?」と思うというアレをやった。「ノルウェイの森」を読んで、喪失というものの片鱗を知った(ワタナベくんは僕と違ってセックスしまくっていたが、そんなことは気にならなかった)。「こころ」を読んで、先生の孤独に思いを馳せた。

 それらの小説には、まさしく当時の僕が悩んでいた問題が、ばっちり書かれていた。そんなものに出会うのは初めてだった。もちろん衝撃を受けた。

 そしてそこには、明確な「答え」のようなものは何一つ書かれていなかった。ただ、悩み苦しんでいる人の姿が描かれていた。でもだからこそ、誠実だと思った。

 まるで自分のために書かれたみたいだ、と思った。小説よりもすごいものなんてないんじゃないか、と思うようになった。

  小説にハマるのは、一種の逃避なんじゃないか、と思うこともあった。そうだったのかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。今でもわからない。


 僕はいまだに、その頃の僕の延長線上にいる。そんな何年も前のことを引きずっていてもいいのだろうかと、自分でも思うけれど、あらゆる角度から自分を眺めてみても、「あの頃」から抜け出せていないことは間違いない。

 僕は、「僕にとってすばらしいものは何なのか」ということについては、ある程度わかっているんだと思う。でも、すばらしいと思うものと、自分自身の生きかたを、どのようにすり合わせていけばいいのか、という具体的な方法を、いまだに見つけられずにいる。そのような状態を「モラトリアム」と言うんだろうな、きっと。

こころ

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