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思考だだ漏れ読書録

とあるブログ書きの読書記録。

トラウマ恋愛映画入門 / 町山智浩

トラウマ恋愛映画入門

トラウマ恋愛映画入門

 ぼくは映画にはあまり詳しくない。っていうか全然詳しくない。十年くらい映画館に行ってないし、レンタルビデオもネット配信も利用しない。生涯で見た映画の本数は、二桁前半であると思われる。

 去年、「映画を見よう!」と一念発起して「ブラックホーク・ダウン」「ブレードランナー」「タクシードライバー」と続けざまに視聴したのだが、結局それっきりになってしまった。三日坊主ならぬ三本坊主である。ひどいありさま。

 そんなぼくがこの本「トラウマ恋愛映画入門」を読んだのは、町山智浩のラジオでのトークや著作がいずれも素晴らしく面白いからであり、そんな彼が恋愛についてどんな風に書くのかを知りたくなったからである。


 あえてぼくが言うまでもなく、フィクションで描かれる恋愛は全て作り物である。実際の恋愛とフィクションの恋愛が異なるのは、実際の恋愛が、再現不可能な一回きりのものであるという部分にある。実際の恋愛が生きている生き物だとしたら、フィクションの恋愛はよく出来た彫刻や剥製のようなものに似ているのかもしれない。

 だからフィクションの恋愛なんてくだらない、という話をしたいわけではもちろんない。作り手の経験と情念がこもった、しかるべき技術で描かれたフィクションは、実際の恋愛に劣らないくらい、観たものの心を動かす。それは映画だろうと小説だろうと変わらない、のだろう。きっと。それにフィクションは持ち運びや長期保存に便利だったりするし。

 フィクションと違い、実際の恋愛は制御が非常に難しい。というか、制御可能な時点で、それはもはや恋愛とは呼べないのかもしれない。「ちょっと愛情が15km/sくらいオーバーしてるからブレーキを踏もう」とか「こっちの彼よりあっちの彼のほうがお金持ちだから、愛情をまるごと基地移設させよう」なんてことは、普通はできない。いや、できる人もいるのかもしれないが、多分そういう人はちょっと危ない人だと思う。色んな意味で。

 制御不能だからこそ、恋愛はしばしば色々なものをメチャクチャにしてしまう。にも関わらず人が恋愛をやめないのはなぜだろう。まぁ、動物的本能だからだと言ってしまえばそれまでなのかもしれないが。

 恋愛の制御不能性は、「自由」というものと密接に関わっているのではないか、とぼくは前々から思っているのだけれど、具体的にどのように関わっているのかはまだわからない。


 というようなことを考えながら読んだ本書は、町山智浩による映画評論であると同時に、恋愛論にもなっている。

 映画監督フランソワ・トリュフォーは、生涯に数々の女性たちと愛し合い、数々の恋愛映画を作ったが、晩年の作品『隣の女』でこう言っている。
「男はみんな恋愛のアマチュアだ」(前書き『恋愛オンチのために』)

 僕らは自我を捨てられない。吉蔵のように死ぬこともできない。せめて、愛する人と二人きりの時だけは、自我を抑え、世界を忘れて吉蔵を目指そう。(『愛のコリーダ』)

 どれほど愛しても別れは必ず来る。でも、愛さずにはいられない。誰も愛さない人生は、誰かを愛して傷つくよりも不幸だから。(『悲しみをみつめて』)

 「トラウマ」恋愛映画入門というだけあって、本書で紹介される映画はいずれも「上手くいかない恋愛」が描かれたものばかりだ。

 人は失敗から学ぶ。それは恋愛も例外ではないだろう。しかしいくら学んでもやっぱり失敗してしまう。なにしろ恋愛は制御不能な生き物だから。

 これまたあえてぼくが言うまでもなく、恋愛に正解はない。しかし「恋愛についてどのように悩んだか」という「悩み方」を、映画という形で残してくれた先人たちがいる。それを学ぶことが、直接的に恋愛に「役立つ」かどうかはわからない。知らないほうがよかったと思うことも、世の中にはある。

 だとしても「無知よりは知を選ぶ」という態度を選ぶ人にとっては、本書は恋愛における「悩み方」の解説書として、とても優れている、と感じた。映画を見ないぼくが言うことに、どれほど説得力があるのかはわからないけども。映画、見ないとなぁ。