読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

思考だだ漏れ読書録

とあるブログ書きの読書記録。

反知性主義とファシズム / 佐藤優 斎藤環

さ:斎藤環 さ:佐藤優 読書メモ

反知性主義とファシズム

反知性主義とファシズム

 「反知性主義とファシズム」。物騒なタイトルである。物騒なタイトルに反して、語られるテーマは「AKB48」「村上春樹」「宮﨑駿」といった、ポップカルチャー的、あるいはサブカルチャー的なものごとについてだったりする。しかし読み進めていくことで、それらのテーマが現代日本を読み解くカギになっているように思えてくる。そういう仕組みになっている。

 はじめに二人は、濱野智史の「前田敦子はキリストを超えた」について言及しつつAKB48について語る。

前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)

前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)

 二人は濱野の「前田敦子=キリスト」という議論を「浜野さんの議論って、神学から見ると実に真っ当な議論なんです。これは大きな意味での神学です(佐藤)」と、その真摯な姿勢を一定程度評価しながらも、全体としては、勢いが先走りがちで、少々粗の目立つ論であるとしている。

斎藤 濱野さんがこの本の中で「サリンを撒かないオウム(真理教)」を作るべきだと確信的に言っています。しかし、私は無理だと思うんですね。あえて危険なことを言いますと、オウムはサリンを撒いたから、あれだけ“魅力的”なわけで、サリンを撒かないオウムは全然魅力がないのではないでしょうか。宗教的享楽というのはまさに危険な次元に踏み込んでるからあるわけです。キリスト教でも、病人の膿を啜った聖女の話とか、いっぱい出てきます。アブジェクション(おぞましくも魅惑的なもの)の領域を含みこんだからこその魅力がまったくない宗教は、人々をどこまで惹きつけられるんでしょうか。
佐藤 私も全く同じ意見です。

斎藤 僕が一番マズいと思ったのは濱野さんがこの中でAKBシステムがこれからどんどんリトル・キリストを生み出していくと書いているところです。
佐藤 たぶん生み出しません。
斎藤 キリストの複数性を言っちゃったら、キリスト教の構造が保たなくならないかという素朴な疑問があるんですけれども。
佐藤 そう思います。そうなると、カトリシズムに近付いていくと思うんですね。要するにキリストの代理人みたいな話になって、エージェントがたくさん出てきます。コピーとオリジナルが一緒だということになって、前田敦子の特権性がなくなっちゃいます。

佐藤 これ、明らかに夜書いてる本ですね。
斎藤 あはははは(笑)
佐藤 ディートリッヒ・ボンヘッファーっていう、ナチスに抵抗して殺された有名な神学者がいるんです。東ドイツに残ったボンヘッファー門下のシェーンヘルっていう神学者が、ボンヘッファーについて書いてる本があるんですけど、こういう忠告を聞いたそうです。「説教は昼の下で書け。夜は悪魔の支配する時間だ」。
斎藤 それ、かなり根源的な批判に聞こえますけど(笑)。
佐藤 夜書くとものすごいものができあがるからダメだということですね。

佐藤 最終的には救済の問題って死の問題と裏表だと思うんです。
斎藤 そう思います。まさに濱野さんもそこに触れてなかったと反省しているわけですけど、死生観がAKBから得られるかって言ったら、さすがにそれはないです。
佐藤 五〇年後にもしAKBがあるとしたら、七〇歳のメンバーはなかなかセンターになりにくいと思うんです。新陳代謝してシステムとして永遠に生きるということになると、不死のシステムになるので、貨幣と一体化しちゃいますよね。
斎藤 そうなっちゃうと……。
佐藤 たぶん救済は出てこないんです。その一番難しい問題をかわしたところが濱野さんの話者としての誠実性なんですよね。
斎藤 誠実性と見るかごまかしと見るかですね。

斎藤 濱野さんはAKBが構造としては宗教と近いものがあると言いながらも、最終的には一生懸命さの擁護みたいになってしまうところがあります。懸命さや切実さはたしかに魅力的なものですが、擁護ということならそれだけでは不十分ですね。それは要するに「強度」の擁護なので、そこにAKBのセクシュアリティも暴力性も、あるいはヤンキー性も全部内包されている。そこを見据えた上で、もう少し「その先』が言えなかったのかなと思います。
 どうもAKBファンの論客は、秋元さんに関しては戦後を代表する知性みたいな言い方になりがちで、批判はタブーという雰囲気がある。ひいきの引き倒しも甚だしい、と異議申立てをしておきます。

佐藤 もしかすると、この本も普遍を見つけようとしている一つの試みかもしれません。濱野さんがかなり真面目なので、逆説的に東亜共同体みたいな方に行っちゃうんですよね。
斎藤 今のところはそれを強化する方向にしか行っていないところがこの本の限界です。

斎藤 濱野さんも吉本(隆明)ファンではないと思うんですよ。ただ、「何か偉い人』みたいな感じで飛び付いた感じがすごくあって。
佐藤 そう思います。どうして吉本ファンじゃないかっていうのは、この本に『共同幻想論』が出てこないからです。
斎藤 出てこないです。
佐藤 もしこのテーマを扱うんだったら、「対幻想」は必ず出てくるはずです。
斎藤 絶対に外せません。「幻想論」なしでAKBを語るってありえないんだけど、いきなり『マチウ書試論」だから、たぶん吉本隆明がどういう文脈で出てきたかっていうのを全くすっ飛ばしてます。

 うーむ、面白いので引用しすぎてしまった。「前田敦子=キリスト」論の瑕疵うんぬんではなく、単純に二人の対話が面白いのである。ぼくは「前田敦子はキリストを超えた」を読んでいないが、それでも面白い。

 面白いからとにかく読め、で終わりにしてもいいのだが、タイトルになっている「ファシズム」という言葉についても、ちょっと書いてみたい。


 よく、強権的なやり方をする政治家などに対して「ファシストだ」というようなことを言う人がいるが、じゃあファシズムってなんだろう、と考えてみると、意外と難しい。

 フツウの日本人が「ファシズム」という言葉で最初に思い浮かべるのは、ナチスドイツやヒトラーだろう。しかし実際に政治理論としてファシズムを言い出したのはイタリアのムッソリーニだったりする。このへんからもう認識のズレがはじまっている。

 厳密なファシズムについての定義について考えだすと、到底ぼくの手には負えなくなってしまうのでやめるが、広義のファシズムは、「独裁的政治手法」や「美的なものの賛美」や「暴力の肯定」といった要素を内包した思想のことである、と言って大きな間違いはないと思う。

 で、斎藤環はジブリアニメについて、「生命主義的ファシズム」と親和性が高い、と指摘する。

 生命主義とは「この世界を、ただ一つの生命の多様な現れとして理解する」思想のことで、もとは大正時代に流行った「大正生命主義」が源流であり、宮沢賢治がそれに影響を受け、さらに宮﨑駿が宮沢賢治に影響を受けるという形で受け継がれていったのではないか、と。

 その生命主義がどのようにファシズムと結びつくのか、という話だが、ものすごく雑な例えをするならば、「もし『風の谷のナウシカ』のナウシカが日本の総理大臣になったら」みたいなことを想像してみればいいんじゃないかと思う。

 ナウシカ首相は自然を破壊するものを一切認めないので、ダムとかゴルフ場とか高層ビルみたいなものは全部ぶっ壊してしまうかもしれない。もちろん原発もダメ……かと思いきや、「私が見張ってれば大丈夫」的なことを言い出しかねない気もする。わからんけど。

 もちろん反対する奴は剣でグサーッ!メーヴェでドーン!王蟲でドドドドド!である。でも美人なので国民には人気出ちゃったりして。

 というのは実にくだらないぼくの妄想であるが、事の本質からはそれほど、そんなには外れていないのではないかと思う。思いたい。

 しかしだからといって、「宮﨑駿=ファシズム」で、だからダメなんだ、というような単純な話ではない。ファシズムとは、今すぐに我々の生活を破壊してしまうような極端なものではなく、もっと潜在的に我々の意識に入り込んでくるものだ、と二人は指摘する。

佐藤 圧倒的大多数の人々は、ファシズムっていうものを、あまりにも簡単に処理しすぎちゃったんですよ。ナチズムのような極端な事例と混同して、『風立ちぬ』は箸にも棒にも引っかからないんだと判断してしまう。ファシズムっていうのは、潜在力が相当あるんですよ。

斎藤 今もですけど、ひと頃の宮沢賢治ブームみたいなものには非常にヤバいものを感じていました。岩手県の県職員全員の名刺には、銀河鉄道が刷ってありますから。賢治は、ヤバい読み方がいくらでもできちゃうんで、ハマりすぎた人って、ちょっとお近づきになりたくない感じがするんです。

 その上で、佐藤は「風立ちぬ」のような作品が受け入れられる今の時代の空気に危険なものを感じる、と否定的に見る。一方で斎藤は、宮﨑駿が自身の中にあるファシズム的なものへの葛藤を最もストレートな形で表現した作品である、として「風立ちぬ」をある程度好意的に評価している。

 「風立ちぬ」もぼくは見ていないのだが(なんも見てねーな)、戦争を描きながら戦争賛美も反戦も無いというこの奇妙な映画を読み解く上での確信的なポイントを、二人の議論は突いているのではないかと感じた。