思考だだ漏れ読書録

とあるブログ書きの読書記録。

動物記 / 高橋源一郎

動物記

動物記

 動物記、というと、大抵の人は「シートン動物記」のことが思い浮かぶのだろうか。正直に言うとぼくは、読み終わってからGoogleで「動物記」と調べるまで、そのことに気付かなかった。無教養な男である。

シートン動物記 (子どものための世界文学の森 19)

シートン動物記 (子どものための世界文学の森 19)

 高橋源一郎が書いたものをずっと読んでいるので、本書に収められた短編小説の「元ネタ」っぽいものはある程度わかる。

 例えば「家庭の事情」に登場する「ふつう」の人々(人が動物に置き換えられているわけだが)の「ふつう」の思考と暮らしは、「あの戦争からこの戦争へ」の評論などで取り上げていた、橋本治の小説を思い起こさせる。

「あの戦争」から「この戦争」へ ニッポンの小説3

「あの戦争」から「この戦争」へ ニッポンの小説3

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 「そして、いつの日か」の主人公である、柴犬のタツノスケは、明らかに二葉亭四迷(本名・長谷川辰之助)をモデルとして書かれている。高橋源一郎は「日本文学盛衰史」や「官能小説家」の中で、二葉亭四迷ら文学者が活躍した明治期を、虚実ないまぜに書いている。

 「文章教室1」の中で登場する短歌は、ほぼ全てが、穂村弘が「短歌の友人(高橋源一郎が文庫版の解説を書いている)」の中で取り上げたものを、動物に置き換えたものだ。例えば、

たくさんのメスのペンギンがいるなかで
わたしをみつけてくれてありがとう

は、

たくさんのおんなのひとがいるなかで
わたしをみつけてくれてありがとう   今橋愛

 のもじりであろう。

短歌の友人 (河出文庫)

短歌の友人 (河出文庫)

 「文章教室2」の中で、アフリカゾウが書いた文章を、真木蔵人のようだと評しているが、「国民のコトバ」という本の中で高橋源一郎は、真木蔵人が書いた文章を激賞している。同じ短編で出てくるベニクラゲの絵手紙は、武者小路実篤が晩年に書いたものだ。

国民のコトバ

国民のコトバ

 このような「元ネタ探し」にどれほどの意味があるかは分からないが、事実の指摘として、ここに書き留めておくことにする。


 本書に収められた短篇集には、そのいずれにも、なんらかの形で動物が登場する。なぜ、動物なのだろう?

 一般的に動物は、「自意識」と呼ぶべきものを持っていないとされている。自意識が無いというのは、もっと平たく言えば、自他の区別が曖昧だ、ということだ。実際のところは、動物とは言葉が通じないので、わからないわけだが、少なくとも我々人間には、そのように見える。

 一方、ほとんどの人間は自意識を持っている(らしい)ので、自分は他人とは違う、固有の名前を持った固有の人間であり、生まれて死ぬまで同一存在であると考えている。

 しかし、動物は、そんなことを考えずに生きている(ように見える)。そんなんで生きていけるのだろうか?と、人間であるぼくなんかは思ってしまうが、もちろん生きていける。自意識などというものは、ただ生きるだけならば、ぜんぜん不要なものだからだ。

 自意識を獲得した人間は、肉体的には弱いが、道具を使うことで、自然を、動物を、支配してきた。その観点から言えば、人間は強く、動物は弱い。つまり、人間は「ことばを持った強者」であり、動物は「ことばを持たない弱者」である、と言える。

 しかし、あえて考えなくてもわかることだが、人間の中にも、「ことばを持った強者」と「ことばを持たない弱者」がいる。というよりも、人は弱者になることで、ことばを奪われてしまうものだ。

 「ことばを持たない動物」を「ことばを持たない人」になぞらえるために、高橋源一郎はこれらの小説を書いたのかもしれない。そう考えると、文学者や主婦を「動物化」させた理由がわかる。少々安直な読み方かもしれないが。


 動物はことばを持たない、と書いたが、これは正確ではなかったかもしれない。

 動物もまた、ことばを持っている。しかし我々人間には、動物たちのことばを聞き取ることができない。なぜなら、聞き取ろうという努力をしないから。 ことばを聞き取ろうという努力をしなければ、たとえ相手が動物であっても人間であっても、ことばを聞き取ることはできない。

 というよりも、「ことば」ということばの定義に、動物たちが使っている「ことば」を、含めていない。それでは聞き取れるはずがない。

 「ことば」ということばの定義に含まれないことばは、ことばではないのではないか? と思うかもしれないが、それこそが人間の驕りなのではないか、とぼくなんかは思うのである。


 「動物=弱者」説が正しいと仮定した上で、表題作である「動物記」を読むと、あたかも著者自身の懺悔であるかのように見えてくる。

 わたしが動物の世話をできないのは、彼らがなにを考えているのかわからないからなのかもしれない。動物の世話ができる人間は、彼らの考えや、なにを感じているのかがわかるのだろうか。わかったような気がするのだろうか。わからなくとも気にならないのだろうか。

 そもそも、強いものが弱いもののことばに耳を傾けることが、本当に可能なのか? 意味があるのか? その答えは誰にもわからない。誰も保証してくれない。

 ひとりの人間にできることは、ただ、あらゆる声に耳を傾けようと努めることだけなのかもしれない。それさえも、無意味で不可能なことなのかもしれない。

 それでも、「聞こえない声が存在すること」を指し示すという行為は、可能であるし、何かしらの意味があるのではないかと思いたい。

 ほらね! ほらね! ほらね! 私の言った通りだろ! 人間の中でも、子どもたちはわかってるんだ! あらゆる生き物がことばを持っていることを!