rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

村上春樹は、むずかしい / 加藤典洋

村上春樹は、むずかしい (岩波新書)

村上春樹は、むずかしい (岩波新書)

 現代において、村上春樹、という名前は、ある特殊な響きを持っている。そして、その特殊さを的確に表現する力を、僕は持っていない。困ったぜ。しょうがないから表現できることだけを表現していこう。


 現代日本の小説家を思い浮かべるとき、多くの人の頭に最初に浮かぶのは「村上春樹」だろう。割合で言えば「村上春樹」が3割、「大江健三郎」と「石原慎太郎」を足して1割、「東野圭吾」「宮部みゆき」「池井戸潤」「百田尚樹」あたりを足して1割、残り5割が「誰も知らない」といったところだろうか。予想の正確性に自信は全く無いけど。

 「普段本を読まない人でも村上春樹の名前だけは知っている」という状況だけを見れば、彼は「国民作家」という(実態のよくわからない)言葉に最も近いポジションにいると言える。

 なぜそんなポジションにいるのか? という問いに答えを出そうとすると、それだけで本が一冊くらい書けるだろうし、やはりそれを書く力は僕には無い。

 本が売れるから。国民が「国民作家」という存在を潜在的に欲していて、メディアがそれを代弁してもてはやしているから。毎年ノーベル賞候補と目されているから。サリン事件を取材したりして、話題性があるから。

 実際のところはよくわからない。

 しかし少なくとも、「小説が優れているから」という印象はあまりない。

 いや、僕はなにも、村上春樹の小説が優れていないと言いたいわけじゃない。むしろ優れていると思っている。優れまくっている。僕がほぼ全作品を読んでいる小説家は村上春樹と町田康と高橋源一郎だけだ。ときどき読み返したくなるし。なんか言ってることがバカっぽいぞ。まぁいい。

 村上春樹の作品はスゴイ。でも、現在の村上春樹の知名度は、そのスゴさのみによってもたらされたものではなく、「話題が話題が呼ぶ」という形で雪だるま式に膨らんでいったものなのではないか、と、感じるのである。僕が。あくまで印象として。


 問題は、「村上春樹」というネームバリューの巨大さに対して、「村上春樹作品のどこが優れているか」という議論があまりに少なすぎることなのではないかと思う。

 もちろん批評家レベルでは大量の「村上春樹語り」が溢れている。しかし一般の、村上春樹は名前しか知らないというような人たちのレベルで言うならば、ノーベル賞の話題が出ることを考えれば、テレビのワイドショーで「村上春樹のココがすごい!」みたいな特集をやってもおかしくないのではないか。

 ではなぜ、村上春樹作品の優れたところを語る言説が少ないのか。それは「村上春樹は、むずかしい」からではないだろうか。というのは別に本書の主張というわけではなく、あくまで僕自身の想像なのだが。今回はやけに「あくまで」が多いな。


 なぜ村上春樹はむずかしいのか。本書の主張を思い切り噛み砕いて言うならば(あまり噛み砕かない言い方については他の方のレビューなどを参照していただきたい)「この世界との(人間社会との)向き合い方についての真摯な問いかけが、巧妙に隠されているから」という感じになるだろうか。

 よく初期の作品は「デタッチメント」と形容されることが多いが、実際はそうではなく、「否定性」の行方をはっきりと捉えた、当時の時代性を切り取った作品だ、と本書の筆者は言う。

 文学はいまやこの種の近代型の「否定性」だけでは生きていけないことを大きく過去に見開かれた目で見通し、低い声で語っていた。(「Ⅰ 否定性と悲哀 2 「新しい天使」と風の歌」より)

 「否定性」とはなにか、ということをこれまた大雑把に説明するならば(詳細な説明は本書を読んでいただきたい)、文字通り「なにかを否定すること」を指す。

 かつて文学は、家父長制の「父」を、戦争を、国家を、金持ちを、その他多くの「否定的なもの」を否定することによって、初めて成り立つことができた。それを象徴するのが、「風の歌を聴け」における鼠のセリフ「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ」だった。

 しかし経済発展を成し遂げた日本では、そのような否定性は没落する運命にある。その後の「羊三部作」における鼠の末路のように。

 そして代わりに台頭するのが、架空の小説家デレク・ハートフィールドの著作である「気分が良くて何が悪い?」という言葉に象徴されるような「肯定的なもの(金・酒・いい車など)」の肯定であろう。

 ということを、「否定性の没落」という形で描いたのが村上春樹であり、同時期に、「肯定性の台頭」を高らかに歌い上げたのが、村上龍であった、と筆者は言う。


 同じような調子で、村上春樹作品がいかに社会に目を向けて書かれたものであるかを、筆者は丁寧に解き明かしていく。

 その論旨自体は、おそらく筆者の過去の村上春樹関連書籍と被っている部分も多いと思われるが(手元に無いので確認できないのです)、話がコンパクトにまとまっている分、過去の著作よりも読みやすいと感じた。

rhbiyori.hatenablog.jp
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 純粋に慧眼であることももちろんだが、筆者のようにひとつのことを(この場合は「村上春樹」のことを)何十年もかけてじっくりと考えている人というのは、現代のように変化の激しい時代においてはとても貴重なのではないか、というようなことを読みながら思ったりもした。

鬱ごはん / 施川ユウキ

鬱ごはん(1) (ヤングチャンピオン烈コミックス)

鬱ごはん(1) (ヤングチャンピオン烈コミックス)

 なぜ人は食事をするのか? そりゃお腹が空くからに決まってる。しかしもちろん食事とは単なる栄養摂取ではなく、社会的・文化的な営為でもある。

 毎日家族と食事をしていると、そこに習慣が生まれる。僕自身、日常的に料理を作ってくれる家族がいるので、食事について考えなければいけない時間は大幅に短縮されている。ありがたいことに。

 しかし一人暮らしの人は、自分で自分の食事を全て決めなければならない。マネージし、コーディネートしなければならない。なぜ横文字を使いたくなったのかはよくわからない。

 このマンガの主人公鬱野たけしのような自意識過剰の男の場合、その食事風景もまた、自意識過剰な感じになってしまうことは避けられない。

 自意識過剰な男の自虐あるある、みたいな小説・マンガは昔から多いが、このマンガのように、そこに食事という要素を絡めたものは珍しいかもしれない。

 自意識過剰な人は、目的に向かって淡々と行動するということがうまくできない。なにかするたびに細かいことが気になってしまい、それに心がとらわれ、そのせいで動きが不自然にぎくしゃくしてしまう。

 このマンガを読んで爆笑するか、それともしみじみと共感するかどうかが、自意識過剰か否かの分かれ目だと思う。

 僕など最近は、自意識過剰になるほどの敏感さも無くなってきたので、読みながら「もっと普通にちゃんとやれよ」とつい思ってしまったりしたのが、なんだか寂しくもあるようなよくわかんないような感じだ。よくわかんないことを言って申し訳ない。

 リア充でなくては生きられない、絆がなくては生きられない、そんな風潮が今の世の中にあるように感じるのは、僕の中にもまだ自意識過剰さが残っているせいだろうか。

 リア充でなくても、絆がなくても、人は生きていくし、生きるためには食べなくてはいけない。このマンガは、そんな現実を、目を逸らすこと無く見つめたマンガなのかもしれない。ほんとうの意味で現実を見つめている作品は、とても稀有で貴重なものである。

適当日記 / 高田純次

適当教典 (河出文庫)

適当教典 (河出文庫)

 高田純次の人生相談本。

 多くの方がご存知である通り、高田純次は適当である。

 最近、高田純次のファンである家族と一緒に、録画した「じゅん散歩」を見ることがあるのだが、やっぱり適当。

 中年の女性を見かけるたびに「女子大生ですか?」などと声をかけ、幼稚園児に「みんなはビール飲むの?」と質問をする。やりたい放題である。

 本書にも、その「テキトーエキス」が随所にちりばめられている。というよりも、全編適当であると言ったほうがいいだろう。

 できる後輩は全力で潰せ、日曜に遊びたがる子どもには「うすーい睡眠薬」を飲ませて寝かせろ、良いアニメを作るには『人間交差点』からパクれ、など、言いたい放題である。


 高田純次の「適当」とは、くだらないこと、その場の思いつきのようなこと、失礼なことを平然と言ってしまう・やってしまう、という点にある。

 普通の人がそのような行為をすれば、他人からバカにされたり軽蔑されたりするわけだが、なぜ高田純次はそうならないかというと、それらの行為がいずれも「確固たる信念」みたいなものに全く裏打ちされていないからであり、全然本気じゃないからであろう。要するに、適当だから、だ。

 どんな誹謗中傷でも、どんなインモラルなことでも、「適当」でさえあれば、いくら発言しても許されるのだとすれば、もしかすると「適当」ってすごい発明なのかもしれない。よくわかんないけど。

 もうひとつ付け加えておくならば、ある種のジョークには、あえて常識を踏み外すことで、逆説的に常識というものを確認する、という機能がある。

 幼稚園児に「ビール飲む?」がジョークとして成立するのは、言うまでもなく、幼稚園児はビールを飲んではいけないからである。そのことを、あえて言うことで、確認する。

 そのようなジョークを連発できる高田純次は、つまり常識というものを常にわきまえているわけで、だからこそ視聴者に安心感を与えることができるのかもしれない。多分。

 ついでに言うならば、高田純次に対して「適当」という、ある種失礼な呼称をしている時点で、我々も既に高田純次ワールドに巻き込まれているのである。あな恐ろしや。


 高田純次の「適当」は、言うまでもなく「キャラ」である。しかしこの人の場合、キャラと本音が高度にミックスしていて、もはや区別がつかなくなっているように見える。あくまでも視聴者目線で言えば。

 適当キャラはもはや完成の域に達しているかに見えるが、同時にオシャレで車好きな芸能事務所社長でもある彼が、本当のところなにを考えているのかは我々には想像できない。交友関係が広いようなので、おそらく悪い人ではないんだな、などと予想しているが。

 まぁそんな細かいことまで考えずとも、純粋にエンターテイメントとしての「適当」をエンジョイすればいいのかもしれない。そういう心構えで読めば、最高に面白い本である。

最終兵器彼女 / 高橋しん

最終兵器彼女(1) (ビッグコミックス)

最終兵器彼女(1) (ビッグコミックス)

 いわゆる戦闘美少女もの(©斎藤環)ということで、昔に一度読もうとしたことがあったのだが、挫折した。

 なぜ挫折したか。1ページ目からコテコテの恋愛マンガで、キッツイな、と思ったからである。

 最近になって久しぶりに斎藤環の本を読み*1、さらに最終兵器彼女に関するブログ記事を読んだ*2のを機会に、もう一度挑戦してみようと思い、読んでみたら、なんとか読めた。

 二つの意味で、読むのがしんどかった。でも、心に残るマンガだった。

 しんどかった理由その1は、設定があまりにご都合主義に見えたから。

 あらゆる設定が、シュウジとちせの二人の恋愛を盛り上げるために存在するような感じ。先輩であるテツの彼女ふゆみと二股関係になるシュウジ。その憧れの先輩といい感じになるちせ。なんだそりゃ。ベタか。ベタ・オブ・ベタか。

 戦争ですら、二人を盛り上げるための小道具のように見える。ちせが兵器になっていくというのも、セカチューのような「恋人死んじゃう系」の亜種に見えなくもない。

 だいたい戦争が起こってる理由を作中でキチンと説明しないのはなんでなんだ。作者にそういう戦争考証やSF考証をする能力が無いからなのか。あるいはあえて暗示的にすることで読者の深読みを誘おうという作戦か。エヴァンゲリオン的な。


 しんどかった理由その2は、ストーリーが重たいから。

 とにかく人が死ぬ。シュウジに密かに好意を抱いていたクラスメイトのアケミが、シュウジの腕の中で死んでいく。シュウジの先輩テツ(すげーいい人)が、ちせの腕の中で死んでいく。死、看取りすぎ。まるで北斗の拳のようだ。そりゃ人が死ねば読んでる人は心揺さぶられるだろうよ。

 結局最後はみんな死んで、シュウジとちせの二人きりになる。ここもまぁご都合主義と言えばご都合主義だがまだ許容範囲。しかし重いよ。全員死亡って。


 と、散々悪口じみたことを書いてきたが、しかしこれらの欠点・粗がありつつも、それでも心にずっしりと残る何かがこの作品にはあった。

 そしてその「何か」の正体が一体なんなのがわからず、ずーっとモヤモヤしていた。

 あまりにもモヤモヤが収まらないので、仕方なくインターネットの力を借りることにした。「最終兵器彼女」でキーワード検索した。そしてそこで見つけた、この作品の解説をしているとある動画を見たことで、ようやく自分の感じた「何か」の正体が分かった気がした。どんな動画だったのかは、まぁなんというか色々とアレなので、深く聞かないで欲しい。


 まずこのマンガ、恋愛描写が極めて高度なのだ。吹き出しや書き文字、フォントの使い分け。キャラクターのデフォルメ。シリアスとコメディの切り替え。全てにおいて計算し尽くされており、恋愛を描く上で最強のツールである少女マンガの手法を用いた、高水準の表現を成しえている。

 シュウジとちせの恋愛における心の機微の描写もとにかく細密で、その細密さとリアリティは、「描写の極北」とでも呼ぶべき域まで達している。

 心象風景では空白を多用し、対照的に現実場面では細密な画風を用いるなど、単になんとなく描くのではなく、随所に的確なテクニックが用いられている。

 また当時としては先進的だったコンピューターグラフィックを使った表現が上手く、レイヤーを重ねることでガラスの写り込みを表現するなど、単なるCGの乱用ではない、CGならではの描き方をキチンと使いこなしている。

 戦争や地球の運命といった核心部分こそぼかされているが、実は暴力・残酷描写もかなり的確で、死に際のアケミをシュウジが抱え上げる時に固まった血が「べりっ」と剥がれるシーンを、ある評論家が絶賛していた。

 要するに、このマンガ、マンガとしてものすごく「上手」なのだ。


 ではなぜそんな上手なマンガが、最初に書いたような瑕疵を抱えることになったのだろう?

 作者はあとがきで、「最終兵器」と「彼女」という単語をくっつけたらどうなるだろうというところから着想を得た、と書いている。また、思春期の狭かった世界を描こうとした、というようなことも言っている。

 作者は、思春期ならではの、独善的な、二人だけが世界の全てであるような、ある種ご都合主義的な恋愛をこそ、描きたかったのではないか。

 そのような恋愛を描くためにあえて、そのような恋愛が持つ強引さと同じような手つきで、最終兵器という設定や、戦争という背景を半ば強引に借りてきたのではないか。

 その作者の意図は、ちせの体からミサイルがこぼれ落ちるシーンを見ると、よくわかるのではないかと思う。

 一度目は、自転車の荷台に乗るちせの服の間から、二度目は、試着室のカーテン越しにシルエットで。いずれも具体的にどのような仕組みでちせの体からミサイルが生成あるいは排出されているのかは、意図的に明らかに隠蔽されている(「明らかに隠蔽」ってなんかおかしいな)。

 作者の画力を持ってすれば、その部分を細密に描いて物語に重厚性を出すことは可能だったし、はっきり言ってその方がマンガとしては面白くなったと思う。でもそうしなかった。つまり隠すことそのものに意味があった。

 その意味とは、青春の独善性と、作品との独善性を重ね合わせることで、作品そのものに青春性を持たせること、だったのではないか。


 青春な作品は、青春な人ほど刺さる。実際、この作品の熱心な読者は10代が多かったらしい。あとがきでは「大学生や社会人に受けいられるようにあえて性描写を入れた」と書いているが、おそらくそれは建前だろう。この手の描写は初心な十代ほど記憶に残る。大人になったら「ふーん」という感じにしかならない。思えば僕も、小さい頃読んだ「お〜い!竜馬」の裸シーンで興奮したけど、高校生くらいになって読み返してみたら「こんなんで興奮してたのか」と驚いた、なんてことがあったなぁ。え? そんな話聞いてない?

 あとがきには「この作品はある時期が来たら読めなくなると思うので、そうなったら人に譲ってください」というようなことも書いている。もしかしたら作者はこの漫画を、中高生向きの「裏課題図書」のような作品にしたかったのかもしれない。

 赤裸々な恋愛描写と過激な残酷描写で、読んだ人の心を揺さぶる。でも一定以上の大人が読むと「それってあざとくね?」と感じる。そのように意図して描かれたのがこのマンガなのではないだろうか。その意図自体があざといんじゃないかと思う向きもあるだろうが。

 かつてはある種の文学作品が、そのようなポジションを担っていたのだろうと思う。太宰治とか。太宰はちょっと違うかな? 島崎藤村とかかな。読んだことないけど。ノルウェイの森とかもそうかな。

 ちなみにこのマンガを読んであまりの鬱展開にハートブレイクした人は、このマンガのアンサイクロペディアを読むことをオススメする。一周回ってギャグ漫画なんじゃないかという気がしてくるから。「シュウちゃんのこっこほしいよぉ」って、冷静に考えたらギャグだよなぁ。

おたく神経サナトリウム / 斎藤環

おたく神経サナトリウム

おたく神経サナトリウム

 "日本一「萌え」に詳しい精神科医(帯文より)"こと斎藤環による連載時評の書籍化。主に「おたく」にまつわるトピックが扱われている。

 もともと斎藤環の本をよく読んでいたので、連載中から気になってはいたのだが、「ゲームラボ」という雑誌が少々アウトローな感じだったのであまりフォローはしていなかった。書籍化によってまとめて読めるようになったのはうれしい。

 あくまでも自身はおたくではなく「おたく愛好家」であることを自認している著者の分析は、しかしあくまでも鋭い。二次元ポルノの規制に反対し、ゲーム脳を批判する姿勢は、まさしく「おたくの味方」といったところか。

 著者自身による定義によれば、「おたく」とは「二次元で抜ける人」であるが、個人的には「アニメ・マンガの『キャラ』で抜ける人」と言った方が正確な気がする。前者の定義だと、葛飾北斎の春画で抜ける人もおたく、ということになってしまう。まぁ、それはそれで正しい定義なのかもしれないが。

 そんなおたくにまつわる歴史を振りかえりながら、「こんな面白い作品があるんだ」とか「あんな事件があったね」ということを知ることができる本書は、「おたく教養本」として大変優れていると言わざるを得ない。

 なにしろ文体がライトなので読みやすい。ときどき文法が間違っているように見えるところがあるが、全てネットスラング(主にブロント語)であることは確定的に明らか。

 どのような教養が得られるかというと、例えば本書冒頭、2001年の時評では、「エイリアン9」というアニメが取り上げられる。エイリアンを防具として体に規制させて戦う美少女アニメである。もちろん僕はそんな作品は知らなかったが、今聞いても斬新な設定だ。

 で、エイリアン9でググると、今でも考察が行われていたりして、かなりの人気があったことがうかがえる。よし、覚えておこう、エイリアン9。

 みたいな感じで「ページをめくる→グーグル検索」を繰り返しているとなかなか読み進められないわけだが、やっぱり知らないことを知るのは楽しいなぁ、なんていう小学生並みの感想を抱いたりもする。

 他にも、エルシャダイの話題が出たときはMAD動画を見返したり、佐村河内事件のポエム化問題についての文章を読んではMAD動画を見直し、号泣議員こと野々村竜太郎の件に触れたところでMAD動画を見る。こいつMAD動画ばっか見てんな?

 もちろん真面目な話もちゃんとある。ゲーム脳問題。秋葉原通り魔事件。児童ポルノ規制問題。おたくの歴史は明るい話題ばかりではなかった。

 果たしておたくに未来はあるのか? っていうかイマドキおたくなんてどこにいるの? いや、コミケがあれだけ盛り上がってるんだから、いっぱいいるでしょ。でも二次元で抜くなんてもうわりと普通じゃない? そうでもないか。とりあえず二次創作の非親告罪化は避けられたみたいだから当面は大丈夫なのかな。

 なんてことを思う私は萌えを解さない、どちらかというとゲームオタクに分類される人間なのだが、狭義のおたくの活動が規制されるようなことがあれば、日本のオタクカルチャー全般が委縮することにもなりかねないので、なるべくそういうのは避けてもらいたいと願っている。

 あと個人的な話だが、小田嶋隆先生がゲームラボに連載を持っていた、ということを本書を読んで初めて知った。

 はてな的には、となりの801ちゃんの名前が出てきてちょっと驚き。はてな村奇譚の人というイメージの方が強い自分は紛れもないニワカ。というかそもそも著者ははてなダイアリーユーザーだったりする。

d.hatena.ne.jp

ほんのり!どんぱっち / 澤井啓夫

ほんのり!どんぱっち (ジャンプコミックスDIGITAL)

ほんのり!どんぱっち (ジャンプコミックスDIGITAL)

 『ボボボーボ・ボーボボ』の澤井啓夫が描く、『ボーボボ』のパラレルワールドを舞台とした、日常系ギャグ漫画。

 ボボボーボ・ボーボボは大好きなギャグ漫画のひとつだった。僕がギャグ漫画好きになったのは、主にボーボボと『魔法陣グルグル』と『魁!クロマティ高校』と『泣くようぐいす』の影響である。結構多い。

 当時連載されていた週刊少年ジャンプの中でも、ボーボボの画風はお世辞にも上手いとは言えないものだった。特に連載初期は、ありていに言って子どもの落書きレベルに近かったと言っていいだろう。もっともこれは当時作者が若かったこともあるし、裏を返せば、その画力でも連載開始にこぎつけられるほどの卓越したギャグセンスを有していたことの証拠でもある。

 『ボーボボ』の連載終了後しばらくは、短期連載や読み切りしか発表していなかったようだが、2011年に最強ジャンプで新作『ふわり!どんぱっち』の連載を開始。その画力は『ボーボボ』と比べると大幅に上達しており、そのあまりの進化がネット上でもちょっとした話題になった。

ふわり!どんぱっち 1 (ジャンプコミックス)

ふわり!どんぱっち 1 (ジャンプコミックス)

plus.shonenjump.com

 『ふわり!』連載初期は『ケロロ軍曹』風の居候ドタバタコメディだったのが、だんだん可愛い女の子が出てくる日常萌え系ギャグへとシフトしていき、終盤には『よつばと!』風のまったり日常漫画に。画風のみならず、作風もどんどん変化して行ったのである。

 そして単行本が3巻出たところで、タイトルを『ほんのり!どんぱっち』に変え、連載場所も「ジャンプ+」に移行。

 ほんのり!どんぱっち | 少年ジャンプ+

 『ほんのり!』初期はより『よつばと!』色が強かったが、徐々にセリフの多い、ストーリー系のギャグ漫画へと変遷していった。そして今回読んだのがその単行本。一巻のみの短期連載の形となっている。

 実を言うと自分は、『ふわり!』はリアルタイムで読んでいなかった。というよりも、ボボボーボ・ボーボボが『真説ボボボーボ・ボーボボ』になったあたりから、どうもギャグが失速しているように感じて読むのをやめていた。もちろん、単に自分が年をとって対象年齢から外れただけだった可能性もある。しかし少なくとも『ボーボボ』の頃のギャグは、今読んでも間違いなく面白い。

 そんな自分が『ほんのり!』を読もうと思ったのは、つい先日、なんとなく思い立ってボーボボについて調べたところ、結末が衝撃的な感じになっているということを知ったから。上述の『ふわり!』での作風の変化などについて知ったのもそのときが初めてだったりする。


 というのが僕と『ボーボボ』との今日までのあらまし。やっと本題である『ほんのり!』の話に入れる。

 『ふわり!どんぱっち』の舞台は現代日本風のふわり町で、『ボーボボ』の世界のパラレルワールドという設定だった。それがタイトルを『ほんのり!』に変えるにあたり、さらに世界観をリセット。ふわり町によく似た、また別のパラレルワールドにあるふわり町という設定になった(コミックス話間ページの作者解説より)。

 なのでヒロインのビュティは、『ボーボボ』のビュティとは見た目が似ているが別のキャラクター。性格的にもツッコミ役ではなく、マイペースだが包容力のある、ふんわり感のあるキャラとなっている。

 一方、主役である首領パッチは、ビュティの家にペットとして居候している。なぜ彼がビュティの家に来たのかは、作中で語られる。

 前半の数話はビュティと首領パッチの二人を中心に、へっぽこ丸(こちらも『ほんのり!』世界の住人)やビュティの友人であるパンコやリンとの、なにげない日常ギャグが淡々と描かれる。

 『ふわり!』の頃はまだデフォルメが効いていた作者の画風は、本書でより写実的にシフト。古本屋の値札シールやカラオケマシンの採点画面までがフォトリアル。トレースを多用していることは間違いないが、そのリアルな世界に違和感なく首領パッチを溶けこませることができている。

 あのビュティの指先一本一本や、耳のヒダや、ジーンズに包まれたお尻が、まるでそこにあるかのように写実的に描かれているというだけでも、あの頃の『ボーボボ』ファンにとっては感慨深いものがあるはずだ。なんだか着眼点がフェチっぽくなってしまった。


 そんな日常の中に、『ボーボボ』の世界である300X年から首領パッチを追って破天荒がやってきたことで、少しずつストーリーが展開・転回しだす。

 なぜ首領パッチは、世界線を超えてこの世界にやってきたのか? 破天荒の回想シーン。

首領パッチ「でも悪いな 今日でお別れだ」「もう行くわ」
破天荒「え?」「ちょっと待ってください…」「行くってどこへ? 」「な…なぜです? この戦いの謎も この先の未来も まだ何も答えは出てないんですよ」
首領パッチ「オーバーペースで走りすぎたからな ちょい休憩だ」

 『ボーボボ』の世界での戦いに疲れ、ふわり町へやってきた首領パッチの姿は、どこか作者の姿とダブって見える。

首領パッチ「破天荒 なんで俺がここまで全戦全勝なんでも無敵にやってこられたかわかるか?」

首領パッチ「ノリと勢いよ! ドンと構えて 世の常識とやらの逆か上を3段ジャンプで飛び越える」「単純なようで真理 何事も為せば成ると思う強い気持ち ぶれない心が重要ってわけだ」

 『ボーボボ』は、ノリと勢いのハイテンションナンセンスギャグで一世を風靡した漫画だった。


 その後、同じく300X年から黄河文明、インダス文明、メソポタミア文明(知らない人のために説明しておくが、いずれもキャラクター名である)の三人もふわり町にやってきていたことがわかり、さらに話が動き始めるのか……というところで、300X年のボーボボが現れ、ストーリーは唐突に終わりを迎える。ボーボボと首領パッチが河原で語り合うシーンで。

ボーボボ「で 首領パッチ お前の方こそもう答えは出たのか? バカなりに考えて悩んでハジケきれなくなってたんだろ」「こっちの世界に居場所なり新たな可能性なり発見できたのかよ」
首領パッチ「いやいや そーゆーのはよぉ とっくに解決してんのよ オレん中でも」「そこじゃねぇのよ 今オレが思うところは」

 首領パッチ=作者だとすると、「こっちの世界」=「日常系ギャグ漫画」であるという風に読める。果たして作者は「こっちの世界」に居場所を見出すことができたのだろうか。直後のコマに描かれた首領パッチの瞳は、どこまでもメランコリックである。

首領パッチ「…」「ここ ビュティがいんだよ」
ボーボボ「…そうか」
首領パッチ「へっぽこ丸のヤツも…」

 ビュティとへっぽこ丸は、いずれも「子ども=守り育むべきもの」だ。新しい世界で、首領パッチは彼らを見つけた。

ボーボボ「楽しいならよかったじゃねぇか」「ここがお前の第2の故郷になったってことだろ」
首領パッチ「そうだな」

 ラスト手前のコマの首領パッチの顔は、うってかわって爽やかだ。


 このラストの解釈として、ネット上では「300X年のビュティとへっぽこ丸は死亡した」という説が流れているが、僕にとっては、新たな境地を見出した作者の決意表明にも見える。

 画力の向上については言うまでもないが、『ふわり!』から『ほんのり!』に至るまでの作風の変遷を見ているだけでも、作者がいかに努力家であるかが感じられる。先行する作品に似通っていることは確かだが、逆に言えば、それらの表現を自己流の表現へと昇華できるほど、先行する作品を徹底的に研究したとも言えるのではないだろうか。『ボーボボ』の頃はただのハイテンションギャグだと思っていたネタも、今考えれば、全て同じような努力によって産み出されたものだったのかもしれない。

 『ほんのり!』後半において作者は、ようやく自分にしっくりくる作風を見つけたのではないか。少なくとも自分にとっては、かなり「こなれて」いると感じた。「ボーボボ」ファンでない人が読んでも面白いくらいに。

 もちろん『ボーボボ』ファンが楽しめる要素も満載。ところ天の助が2ページ丸々喋るシーンがある他、田楽マンが2コマほど登場。さらにサービスマンやカンチョー君といったキャラまでカメオ出演。現在Amazonレビューが0件だが、もっと話題になっていいマンガだと思う。

 試行錯誤を経て新境地に辿り着いた作者は、次にどんな作品を描くのだろうか。今から楽しみで仕方ない。ボーボボを軽く上回るような名作を描いてくれそうな予感が、割と本気でしている。

 ちなみに現在、最初の3話はジャンプ+で読めるが、個人的には破天荒が出てくる7話あたりから面白くなってくると思うので、ぜひ買って読んでいただきたい。

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民主主義ってなんだ? / 高橋源一郎 SEALDs

民主主義ってなんだ?

民主主義ってなんだ?

 高橋源一郎と、SEALDsのメンバー三人の対談を収めた本。

 SEALDsの主要メンバーである奥田愛基氏は、高橋源一郎のゼミの受講者だったそうである。知らないところで意外なつながりが。


 「SEALDsって、ニュースとかで名前を聞くけど、どんなことしてるの?」と思う人は多いだろう。そういう人がまず初めに手に取る本として、この本は適していると思う。なんせ当事者たちの対談だし。

 「チャラついた若者が遊び半分でやってるんだろ?」と思っている人も、本書を読み、そして彼らが実際に活動している動画を見れば、彼らがどの程度本気で活動に取り組んでいるかがわかるだろう。

 「どこかの政治団体がバックに付いてるんじゃないの?」と思う人もいるかもしれない。それについては当事者たちのみが知るところであり、「特定の政治団体には組みしない」という彼らの主張を信じるしかない。本書の内容を信じるならば、彼らが全く異なるバックボーンを持った若者たちの集まりであるようだ。


 彼らの活動をどう評価すべきなのだろう?「若者が政治参加するのは素晴らしい」と持て囃すべきなのか。「衆愚政治の始まりだ」と嘆くべきなのか。

 と、どうも相手が学生だというだけで、僕のような傍観者が「評価する」という上から目線になってしまいがちなのは困ったことである。


 僕の知人の一人は、あるSEALDsメンバーのことを指して「○○(彼の所属する学校)の恥さらしだ」と言った。彼らの活動をそのように受け止めている人々も、一定数いるのだろう。

 民主制とは、国民一人ひとりが国家の主権を持っている、と考える制度のことである。でも、本当に日本人の一人ひとりが、自分は民主主義国家の成員の一人だと日々意識して暮らしているだろうか、というと、かなり怪しい。

 もちろんそんなことを言い始めたら、本当の民主主義国家なんてどこにも存在しない事になる。民主制というのは、あくまでも高邁な理想であって、その理想を追いかけ続けるという運動そのものが、民主主義なのかもしれない。みたいな言い方は、なんだかお茶を濁しているようでもあるが。


 SEALDsの活動が、民主主義のあるべき姿なのか?未来への希望なのか?僕にはよくわからない。そしてそれは、この世界中の誰にもわからないことなのだと思う。

 未確定なものを、肯定する気にも否定する気にもなれない。でも注意深く見守っていくべきだとは思う。新しい物が生まれるのは、未確定な場所からであると、大抵の場合そう決まっているから。みたいな言い方もお茶濁しがちだろうか。