rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

ニッポンの文学 / 佐々木敦

ニッポンの文学 (講談社現代新書)

ニッポンの文学 (講談社現代新書)

 80年代から現代までにおける日本の小説の歴史を、代表的な作家の名を挙げながらまとめた本。

 いわゆる文学作品と呼ばれるような小説だけでなく、SFやミステリといった、いわゆるジャンル小説まで取り上げているというのが面白いところ。

 もっぱら文学系ばかり読む自分のように、好みが偏った人が他のジャンルに手を出そうという時のブックガイドとしては最適な本なのではないかと思う。実際、自分はこの本を読んでから、綾辻行人やグレッグ・イーガン(はもちろん本書には出てこないが、SF小説として)に手を出したりしている。

 逆に、ディープな批評のようなものを求めている人にはちょっと物足りないかもしれない。もっともそれは、ライトな語り口と、歴史を俯瞰的に描こうというコンセプトから受ける印象であって、ジャンルを越境して文学の歴史を描くというコンセプトそのものも含めれば、実はかなりディープな一冊なのかもしれない。


 文学と非文学を同時に取り上げることが画期的である、ということは、言い換えれば「文学は偉くて、エンタメ小説はあんまり偉くない」と多くの人が漠然と思っているということでもある。それはおそらく日本も海外もそんなに変わらないのではないかと思う。

 そしてその観念は、「芸術は偉くて、娯楽作品はあんまり偉くない」という意識に通じている。

 なぜそのような意識が生まれるかというと、娯楽作品は人間のためのものであるのに対し、芸術は神様(のようなもの)に捧げるものだ、という感覚が人々の中にあるからではないだろうか。

 だとすれば、人々が聖性というものを求め続ける限り、そして小説というものがこの世にある限り、文学とエンタメという分類は無くならないのかもしれない。

 ともあれ、文学とはなにか、という一見不毛な問いは、なにが聖でなにが俗であるか、という本質的な問いにどこかで繋がっているのかもしれない。というのはほとんど今の思いつき。


 現代日本における「文学のよくわからなさ」は凄まじい。どのくらい凄まじいかというと、又吉直樹の「火花」が掲載された雑誌「文學界」などの文学雑誌を読んでみればわかる。

 おそらく95%くらいの人は、そこに書かれていることの意味や理由といったものを理解できないと思う。

 かくいう自分もそちら側の人間で、好きな作家が連載をしている時だけ文学雑誌を読んでいたが、それ以外の部分についてはほぼ理解できなかった。そして最近はもうほとんど読んでいない。

 つまり、日本における現代文学は、おおよそ全人口の5%ほどの人向けに書かれている。そしておそらく文学を書いている人は、さらにその5%のうちの5%くらい。つまり超ニッチジャンルなのである。

 という話には実はちょっと嘘があって、実際にはわかる人/わからない人を二分法で分割することはできず、一人の人間の中にわかる/わからないがアナログ的に混在していていたりすると思うのだが、話を分かりやすくするためにあえてそうした。

 ここで僕が言いたいのは、現代日本文学は極めて少数の人向けのものでありながら、とてもエラくて重要なものだ、と思われているということである。

 外部の人からすればそのような、昨今流行りの言葉で言えば「既得権益」のような有様は、とても不健全なものに見えるかもしれない。実際、「文学不良債権論」なんてものもあったらしい。

 でも多分それは間違っていると思う。なぜならいま日本で文学をやっている人(の多く)は、間違いなく文学が好き、というか、文学は大事だ、という思いに基づいてやっているのであって、決して権益にしがみつくためにやっているのではないからだ。

 文学に対する想念の形は人それぞれであって、中にはかなり屈折していることもある。小説なんか書きたくないと言いながら小説を書き続ける人もいるし、こないだのある文学賞の授賞式では、受賞者が「私の作品には何の価値もない」と言い放つ、なんてこともあった。

 しかしどの人も、この世にひとつでも多くの面白い小説が存在したほうが良い、という点では共通している。どこにその証拠があるのか、と聞かれたら、それは実際に作品を読んでいただくしかないだろうが。

 だから文学が高度に複雑化しているのは、文学を特権化するためではなく、もっと別に原因があるのだと思う。文学をやっている人のほとんどは、こんなに面白いものがあるのだからもっと多くの人に文学をしてもらいたいと思っているハズだ。多分。

 であればこそ、文学はもっと開かれたものになるべきだ、と言いたい、言い切りたいところではあるのだが、そうも言い切れないのは、なんかそういう教科書的なことを言って意味があるのかね? という疑問があるからだったりする。


 本書で最後に見出しつきで紹介される作家は、芥川賞を受賞したお笑い芸人の又吉直樹だ。

 個人的にも、「小説家役」としてテレビCMに出演したりしている彼の姿を見ると、彼の受賞は「ニッポンの文学史」におけるターニングポイントの一つとなるだろうと感じる。もし彼が二度と小説を書くことが無くても。

十角館の殺人 / 綾辻行人

十角館の殺人 <新装改訂版> (講談社文庫)

十角館の殺人 <新装改訂版> (講談社文庫)

 綾辻行人のデビュー作。以前読んだ『ニッポンの文学』という本で、新本格ミステリ最初の作品として大絶賛されていたので、そんなに面白いなら読んでやろうじゃないの、と思い読んだ。

ニッポンの文学 (講談社現代新書)

ニッポンの文学 (講談社現代新書)

 自分はこれまで、いわゆるミステリと呼ばれるなような小説をほぼ読んだことが無かった。「ミステリ=エンタメ=面白いだけで後には何も残らない」という単純過ぎる図式を持っていて、その図式が短絡的過ぎるということをわかっていながら、あえてその図式を更新しようという努力はしてこなかった。

 なぜ努力をしなかったのか。おそらく怠惰だったのだと思う。

 で、今回初めてミステリを読んでその印象は変わったのか。

 なんとも言えない。なんとも言えないとしか言いようがない。


 小説を含むあらゆるエンタメ作品は、そのジャンルの「お約束」に従うために、多かれ少なかれ何かしらの不自然さを抱え込むことになる。

 ウルトラマンで怪獣やウルトラマンが壊した街について語られることは(基本的に)無いし、アクション映画でシュワちゃんの銃が弾切れすることも無い。

 どんなに不自然であっても、マンガや映画やゲームなら、作品を面白くするためのものとして違和感なく楽しめるのだが、こと小説となると、なぜかそういった不自然さが気になってしまうのは自分だけだろうか

 不自然か否かで言えば、いわゆる文学作品にだって、不自然なところはたくさんある。そもそも文学作品の中には、リアリティというものを始めからかなぐり捨てたような作品も多数ある。しかしそっちの方は不思議と気にならない。

 なぜ気にならないかといえば、文学作品の不自然さは、面白さのためではなく、もっと別の、なんだかよくわからないなにかのために存在している、ように感じるからかもしれない。


 この小説は発表当時、先輩作家達からの激しいバッシングに晒されたらしい。

 その辺の事情は、ミステリ門外漢である自分にも少しわかるような気がする。

 孤島での連続殺人というベタ過ぎる展開。あまつさえ主要人物たちは、偉大な海外ミステリ作家の名前をあだ名として(ポウとかエラリイとか)、お互いを呼び合うという設定。ほとんどパロディすれすれだ。

 まるでこれまでの日本におけるミステリの歴史を無視したかのような、ある意味で稚拙に見えるこの小説に対して、既存作家が怒るのも無理は無い。

 しかしこの小説には「ミステリっぽいもの」が、過剰過ぎるほどに詰め込まれている。

 そしてそれは「ミステリが好きだ」という初期衝動や「ミステリをモノにしてやろう」という作家の気概の表れであり、同時に「ミステリかくあるべし」としてミステリを占有していた先行世代へのカウンターパンチでもあったのだろう。

 その意図が、荒削りながらも一個の完成された作品として結実している。

 そしてそういった「熱さ」に同調した作家たちが、後の新本格ミステリの潮流を作ったのだろう。多分。

 こういった流れは、ロック音楽の世界に、パンクロックや、グランジや、00年代のガレージロック・リバイバルが登場してきた事情と似ているのかもしれない。あるいは日本文学における村上春樹の登場にも。


 結局、自分にとっての「ミステリ」というものの印象はそれほど変わらなかったが、何かしらの熱量のようなものは感じることができた。その意味で一度は読むべき小説だと思うし、今回読むことができてよかったと思う。

キャラの思考法 / さやわか

 現代日本において、「キャラ」という概念がどのような様態を示しているかを論じた本、でいいのかな。

キャラの思考法: 現代文化論のアップグレード

キャラの思考法: 現代文化論のアップグレード

 「キャラ」という概念は、今やすっかり普遍的なものになっている。日常の会話でも「それは自分のキャラじゃない」とか「〇〇さんとキャラが被ってる」とか言うし、アニメやマンガには当然のように「ツンデレキャラ」が登場するし、新たなキャラのお笑い芸人が日々入れ替わり立ち替わりでテレビに登場している。

 しかしそれほど普及しているにも関わらず、「キャラ」という概念に関する議論はかなり手前の段階で止まってしまっている、と筆者は言う。

 キャラ論、と言えば僕にとっては斎藤環なのだが(実際、筆者と斎藤環は本書刊行後に対談を行っている)、世間的には伊藤剛「テヅカ・イズ・デッド」がその端緒とされているらしい。今度読んでおこうかな。新書化したらしいし。でもこういう微妙に古い本って読むの大変なんだよね。話が逸れた。

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ (星海社新書)

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ (星海社新書)

 キャラ概念は変化している。しかしその変化は未だ十分に言語化されていない。ならばオレがやってやろう、というのが本書の意図である。いや、全然そんな横柄な態度じゃないけどね。じゃあなんで書いた。

 実際に読んでみると、確かにキャラという概念が時代とともに変化してきていることがわかる。しかしそれが筆者が言うような、例えば「キャラが時間を持つ」という形の変化なのかどうか、正直に言うと自分にはうまく理解できたとはいえない。

 全体的に「言われてみればそうなのかもしれないけど、本当にそうなんだろうか?」と思うことが多かった。しかし話としては面白いのでどんどん読んでしまった。

 キャラの流動性。インターネット的な双方向性。虚構であることを知りつつ、それでもキャラを演じるという態度。そういったあたりがキーワードなのだろう。しかしそんな単純な話でもなさそうな奥深さを感じる。

 なぜ奥深さを感じるかと言えば、例えば少年サンデーを取り扱った章は、極めてエッセイ的な述懐から始まっておきながら、さりげなく少年サンデーの編集部の歴史という事実関係に触れ、さらに原作:矢島正雄、画:尾瀬あきら『リュウ』という現代から見ればややマイナーな漫画を取り上げ、最後には少年サンデーの「少年サンデーらしさ」は記述困難である、という結論で終わる。

 章を通して「なんだかよくわからない」読後感があるのだが、その「なんだかよくわからない」感は「少年サンデーらしさ」に通じているように思えてくる。もしこれが学術論文のような体裁だとしたら不要であるはずの、文章的なテクニックが用いられているのである。

 評論、というと、理屈っぽくて厳密である方がエラいと思われがちだが、後の世に残るような「評論の良さ」のようなものは、こういった曖昧なこと、言葉にしにくいことを言葉にする企みの中に宿るのではないかと思う。多分。


 本書のようなオタク論の本を僕は好んで読むわけだが、どうも近年は下火ぎみらしい。ということについて、上記の対談でも触れられていたそうだ。

togetter.com

 そもそも近年のサブカルチャー的な事象の一部を束ねて「オタク的」と呼ぶこと自体が困難なのかもしれない。

 その一方で、広い意味での文化、というか、あるいはポップカルチャー、と呼ぶべきなのか、そんなような領域では、まだまだ語られるべき事象が多くあり、本書の筆者はその語り手としての役割を積極的に担おうとしており、一読者としてはとても好ましいことだと思う。

人生パンク道場 / 町田康

人生パンク道場

人生パンク道場

 人生相談とはなんだろうか。

 人生に悩みを持った人が、誰かに質問する。そしてその誰かが答える。大枠で言えばそういうことである。ベリーシンプル。

 実際にその答えが悩みの解決に役立つかどうかは重要ではない。しかしだからといってどんなムチャクチャな回答でもいいというわけでもない。いや別にムチャクチャだって構わないんだけど。

 大切なのは悩みを解決することよりも、言葉のやり取りをすることであり、コミュニケーションすることなのだ。と、わかったようなことを言い切りたい気持ちもあるが、そうやってわかったようなわからないことを言うのが一番よくない。


 「人生」と「パンク」。並べてみると真逆の言葉であるようにも思える。

 そもそもパンクってなんなんだ、とか、町田康にとってのパンクってどういうものなんだ、ということを一瞬考えたくなるが、やはりそういう賢しらなことを考えるのは無意味であるようにも思う。


 さっきからこいつは何が言いたいんだ、と思われるかもしれないが、僕自身だってよくわからない。ただ思いついたことを書いているだけである。

 ただひとつ言い訳させていただくなら、僕はこの本をキチンと読んだ上で、一週間ほどいろいろ考えて、しかるのちにコレを書いているのであって、全くのデタラメを書いているわけではない。多分。

 思いつきでなにかをやる、というと、何事も計画を立てることが重要だとされている現代ではよくないことだとされがちだが、そもそも人が人生でつまづくのは、物事が計画通りに上手くいかないからだったりする。脳内で拵えた理想が現実とズレる。そこに苦しみが生じる。

 町田康は以前、「音楽を即興的に演奏することと小説を書くことは、自分の中では同じだ」というようなことを書いていた。いわばアドリブの天才なわけだ。

 人生には計画どおりに上手く行かないことが多々ある。情報は限られ、時間は無い。とっさの機転でその場をどう切り抜ければよいか、という疑問への回答者として、アドリブの天才たる町田康以上に適した人物はいない、のかもしれない。

 我々が見るべきは、回答そのものではなく、回答者としてのとっさの身のこなし、華麗なステップ、素早い切り返し、一瞬の急加速、といったような点なのではないかと思う。

 最後に、町田康は以前にも「人生を救え!」という人生相談本を出している。こちらも素晴らしいのでぜひ読んで欲しい。圧倒的、である。

人生を救え! (角川文庫)

人生を救え! (角川文庫)

僕たちのゲーム史 / さやわか

キャラの思考法: 現代文化論のアップグレード

キャラの思考法: 現代文化論のアップグレード

僕たちのゲーム史 (星海社新書)

僕たちのゲーム史 (星海社新書)

 『キャラの思考法』という本を本屋で見つけて、ちょっと面白そうだったのだが、ハードカバーは高いので同じ著者の新書であるこの『僕たちのゲーム史』の方を買って読み始めた。

 この本は、ゲーム(いわゆるコンピューターゲームを指す)が持つ「ボタンを押すと反応する」という(原則的に)不変な要素と、「物語をどう扱うか」という常に変化し続けてきた部分に着目しながらゲームの歴史を振り返る本である……というような通り一遍の説明は他の書評ブログなどにも書かれているのでそちらを参照していただきたい。丸投げ。


 ゲームと「物語」には密接な関係がある、ということは少しでもゲームをやったことがある人なら納得できることだろう。

 本書の帯に「スーパーマリオはアクションゲームではなかった!」と書かれているが、初代『スーパーマリオブラザーズ』の説明書には「このゲームは、右方向スクロールのファンタスティックアドベンチャーゲームです」と書いてある。アドベンチャー。つまり冒険物語である。

 しかし「テトリス」のようにストーリーが無いゲームもあるじゃないか、と思う人もいるかもしれない。それはその通りである。しかしここで言う「物語」とは、「(勇者が魔王を倒す、というような)ゲームのストーリー」のみを指すのではなく、「ゲームを取り巻く言説・行動」をも含んでいる。

 その例として本書では「あるゲーム雑誌において、『ストリートファイターII』紹介記事としてライター同士の対戦会を「小説」として掲載した」という出来事を、「ゲームのプレイヤーを物語化した事例」として挙げている。

 そして本書では「ゲームのストーリー」と「ゲームを取り巻く言説・行動」という、似て非なる2つのものを、区別してはいるものの、あえて違いを強調するわけではなく、いわば並列に扱っている、ように見える。僕の読みが間違っていなければ。

 もし僕が本を書くとしたら、この二つに別々の言葉を当てて厳密に区別して使うと思うんだけど、筆者はどちらも同じ「物語」という言葉を使って説明している場面が多い。

 これは筆者の怠惰や手落ちというよりも、なんらかの意図をこめてのことなのではないかと感じられる。「物語評論家」という筆者の肩書を見ると特に。

 別の箇所で筆者は、「ゲームの領域を広げようとした試みは成功し、『これは単なるゲームではなく○○(芸術とか映画とか)だ』というような試みは失敗してきた」ということを指摘している。

 このことから、「ゲームにはストーリーが必要だ(必要ない)」というような、ゲームの領域を狭めるような議論を避けるために、あえて両者を区別しなかったのかもしれない。


 歴史、というものも、一種の物語である。個々の出来事は事実である(あらねばならない)が、それをどう描き、どう並べ、どうつなぎ合わせるかは、製作者の恣意次第だ。

 筆者が前書きで、本書に登場「しない」ゲームのタイトルを羅列しているのは、歴史というものを描く上で避けられない物語性・恣意性を明示するためだろう。もちろん、過去の全てのゲームを網羅して歴史を書くことなど不可能だ、という現実問題もあるが。

 そして本書が、ゲーム製作者の過去のインタビュー記事などを多く引用しているのも、そういった恣意性(「思い出補正」とか)をなるべく排除するためだろう。


 ゲームの歴史について書かれた本、というと、「ゲームとはなにか」という根源的な問いについての答えが書かれているのではないかと期待してしまう自分がどこかにいる。

 多くの人が「人生とはなにか」という問いを抱くのと同じように、多くのゲーマーは「ゲームとはなにか」という問いを抱くものなんじゃないかと思う。そしてその答えを出すことは大変に難しい。人生についてのそれと同じように。

 とかく人は本質を求めたがる。そしてそれゆえに事実を見誤る。

 そのような過ちを避けるために、本書では「○○の影響を受けて✕✕が産まれた」というような過度な結びつけを控えめにし、それぞれのゲームの特徴とその後の影響を俯瞰的に描いており、バランス感覚に優れていると感じる。

 その分「なるほど!」と感心するような部分があまり無かったが、世の中の本がみんなそんな本ばかりになっても困るし、これはこれでちょうどいい。むしろベター。

大人に質問! 「大人ってどのくらい大変なんですか?」 / みうらじゅん

大人に質問! 「大人ってどのくらい大変なんですか?」

大人に質問! 「大人ってどのくらい大変なんですか?」

  • 作者: みうらじゅん,児童館の子どもたち,一般財団法人児童健全育成推進財団,NPO法人アーティスト・イン・児童館
  • 出版社/メーカー: 飛鳥新社
  • 発売日: 2015/10/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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質問
なんで大人もケンカするの? 9才・男(香川県)



喧嘩が始まる原因はさまざまですが、大概は嫉妬です
この世には羨ましがられてる人間と、羨ましがってる人間がいます。
前者はケンカをふっかけないのですが、ふっかけられることがあります。
それは「いや、おまえもすごいと思うよ」などと
思ってもいないフォローをするからです。

 本屋で試し読みした所、この部分にいたく感銘を受けたので思わず買った本。

 みうらじゅんの出ているNHKの番組「笑う洋楽展」を毎週見ているが、そこでも見受けられるような氏の魅力が満載である。

 実際に寄せられた子どもの質問にみうらじゅんが答える、という本なのだが、ズバリと本質を突くような回答と、ナンセンスの極みみたいな回答が混在している。

質問
なんで人は生きているの? 6才・男(福島県)



死んでない限り、
生物というものは必ず生きているからです。

 この本を読んで、人生の指針を得たと思うのか、それとも面白い本だと笑って済ますのかは、読む人次第だろう。そしてこの本は、そのどちらでもあるのだろう。この文を読んで「コイツ適当なこと言ってるな」と思ったアナタ、正解です。

 「まえがき」の

「なんで?」と、聞かれてもうまく答えられないことだってある。考えに考えた答を言った時、
大概、子どもは聞いていない。次の「なんで?」を言いたいだけだから。
でもこれだけは言っとくよ。真理はあっても人生に正解などないってことは。
ま、それでも聞いてくれないだろうけど。

 という文章が、この本の全てなのかもしれない。すなわち、回答の内容よりも、回答することそのものが大事なのだ、と。

 しかし子どもだからといって、テキトーに考えたテキトーな回答をしても、そのテキトーさは大抵子どもにバレてしまうものである。自分が子どもだった頃の記憶から言えば。

 その点みうらじゅんの回答は、一見テキトーなことばかり言っていないように見えるが、実際には本当のこと=真理しか言っていない。

 本当のこと、というと、真面目なこと、と決まりきっていると思うかもしれないが、実際はそうではなく、本当にもその場その場で違った本当があり、人それぞれの本当がある。

 みうらじゅんという人は、硬いもの、柔らかいもの、太いもの、細いもの、短いもの、長いもの、といった様々な本当を使い分けることが出来る人なのかもしれない。本当かどうかはわからないけど。

村上春樹は、むずかしい / 加藤典洋

村上春樹は、むずかしい (岩波新書)

村上春樹は、むずかしい (岩波新書)

 現代において、村上春樹、という名前は、ある特殊な響きを持っている。そして、その特殊さを的確に表現する力を、僕は持っていない。困ったぜ。しょうがないから表現できることだけを表現していこう。


 現代日本の小説家を思い浮かべるとき、多くの人の頭に最初に浮かぶのは「村上春樹」だろう。割合で言えば「村上春樹」が3割、「大江健三郎」と「石原慎太郎」を足して1割、「東野圭吾」「宮部みゆき」「池井戸潤」「百田尚樹」あたりを足して1割、残り5割が「誰も知らない」といったところだろうか。予想の正確性に自信は全く無いけど。

 「普段本を読まない人でも村上春樹の名前だけは知っている」という状況だけを見れば、彼は「国民作家」という(実態のよくわからない)言葉に最も近いポジションにいると言える。

 なぜそんなポジションにいるのか? という問いに答えを出そうとすると、それだけで本が一冊くらい書けるだろうし、やはりそれを書く力は僕には無い。

 本が売れるから。国民が「国民作家」という存在を潜在的に欲していて、メディアがそれを代弁してもてはやしているから。毎年ノーベル賞候補と目されているから。サリン事件を取材したりして、話題性があるから。

 実際のところはよくわからない。

 しかし少なくとも、「小説が優れているから」という印象はあまりない。

 いや、僕はなにも、村上春樹の小説が優れていないと言いたいわけじゃない。むしろ優れていると思っている。優れまくっている。僕がほぼ全作品を読んでいる小説家は村上春樹と町田康と高橋源一郎だけだ。ときどき読み返したくなるし。なんか言ってることがバカっぽいぞ。まぁいい。

 村上春樹の作品はスゴイ。でも、現在の村上春樹の知名度は、そのスゴさのみによってもたらされたものではなく、「話題が話題が呼ぶ」という形で雪だるま式に膨らんでいったものなのではないか、と、感じるのである。僕が。あくまで印象として。


 問題は、「村上春樹」というネームバリューの巨大さに対して、「村上春樹作品のどこが優れているか」という議論があまりに少なすぎることなのではないかと思う。

 もちろん批評家レベルでは大量の「村上春樹語り」が溢れている。しかし一般の、村上春樹は名前しか知らないというような人たちのレベルで言うならば、ノーベル賞の話題が出ることを考えれば、テレビのワイドショーで「村上春樹のココがすごい!」みたいな特集をやってもおかしくないのではないか。

 ではなぜ、村上春樹作品の優れたところを語る言説が少ないのか。それは「村上春樹は、むずかしい」からではないだろうか。というのは別に本書の主張というわけではなく、あくまで僕自身の想像なのだが。今回はやけに「あくまで」が多いな。


 なぜ村上春樹はむずかしいのか。本書の主張を思い切り噛み砕いて言うならば(あまり噛み砕かない言い方については他の方のレビューなどを参照していただきたい)「この世界との(人間社会との)向き合い方についての真摯な問いかけが、巧妙に隠されているから」という感じになるだろうか。

 よく初期の作品は「デタッチメント」と形容されることが多いが、実際はそうではなく、「否定性」の行方をはっきりと捉えた、当時の時代性を切り取った作品だ、と本書の筆者は言う。

 文学はいまやこの種の近代型の「否定性」だけでは生きていけないことを大きく過去に見開かれた目で見通し、低い声で語っていた。(「Ⅰ 否定性と悲哀 2 「新しい天使」と風の歌」より)

 「否定性」とはなにか、ということをこれまた大雑把に説明するならば(詳細な説明は本書を読んでいただきたい)、文字通り「なにかを否定すること」を指す。

 かつて文学は、家父長制の「父」を、戦争を、国家を、金持ちを、その他多くの「否定的なもの」を否定することによって、初めて成り立つことができた。それを象徴するのが、「風の歌を聴け」における鼠のセリフ「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ」だった。

 しかし経済発展を成し遂げた日本では、そのような否定性は没落する運命にある。その後の「羊三部作」における鼠の末路のように。

 そして代わりに台頭するのが、架空の小説家デレク・ハートフィールドの著作である「気分が良くて何が悪い?」という言葉に象徴されるような「肯定的なもの(金・酒・いい車など)」の肯定であろう。

 ということを、「否定性の没落」という形で描いたのが村上春樹であり、同時期に、「肯定性の台頭」を高らかに歌い上げたのが、村上龍であった、と筆者は言う。


 同じような調子で、村上春樹作品がいかに社会に目を向けて書かれたものであるかを、筆者は丁寧に解き明かしていく。

 その論旨自体は、おそらく筆者の過去の村上春樹関連書籍と被っている部分も多いと思われるが(手元に無いので確認できないのです)、話がコンパクトにまとまっている分、過去の著作よりも読みやすいと感じた。

rhbiyori.hatenablog.jp
rhbiyori.hatenablog.jp

 純粋に慧眼であることももちろんだが、筆者のようにひとつのことを(この場合は「村上春樹」のことを)何十年もかけてじっくりと考えている人というのは、現代のように変化の激しい時代においてはとても貴重なのではないか、というようなことを読みながら思ったりもした。