rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

この世界の片隅に / こうの史代

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

 アニメ映画が大ヒット中の作品だが、原作のマンガ版を2013年の発売直後に家族が買っていたので、今更ながら読んだ。

 とても面白かった。「良い作品に出会ったときの何とも言えない感動」をしみじみと感じた。

 しかし、読み始め数ページの印象は「なんだか普通の漫画だな」だったことを、あえて正直に書いておくべきだと思う。

 特に主人公のすずが子供時代の章は、のんびりとした牧歌的な昭和の日常が描かれるため、ドラマチックな展開はあまり無く、自分にとっては一日一章ペースで読むのがちょうどよかった。大人になった章からは一日で一気に読んでしまったが。

 普通だと感じたもうひとつの要員として、あまりにも映画版の評判が良すぎて、期待値が上がりきっていたことも無関係ではないと思う。

 これは「東京ポッド許可局」というラジオで言っていたことのほぼ受け売りなのだが、どうも映画版は「主演声優」だとか「戦争映画」だとかいった、映画の良さそのものとは別の部分で過剰に持ち上げられているように感じられる。まだ観てないけど。観ようよ。

 少なくとも原作であるマンガ版の感想として言うならば、「一見地味だがとても深い魅力を持っており、しかも万人が読んで楽しめるマンガ」だと感じた。

 なのでおそらく映画版を人に勧めるときも「日本映画史上最高傑作」だとか「これぞ反戦映画」みたいなセンセーショナルな言い方よりも、「普通に面白くて感動できる映画だ」と言ったほうが、変にハードルが上がらなくて良いし、より多くの人に届くのではないかという気がする。まぁちょっとばかり後出しジャンケン的な意見になってしまうかもしれないが。


 それはそれとして、このマンガ、本当にスゴい。

 読んだときのインパクトもスゴいのだが、それ以上に、読み終わってから時間が経つほど「あぁ、スゴいマンガだったなぁ」という思いがしみじみとこみ上げてくる。

 一人の女性の人生を、時代を、土地を、戦争を、日常を、あますことなく描いている。誇張も抑圧も無しに。

 あるいは、人間が生きるということ、流されること、流された先で生きること、戦うことや逃げること、ありふれているのにかけがえのないものに出会うこと、かけがえのないものを失うこと、失ったあとを生きること、などを。

 「文学びいき」の僕個人としては、これはもう文学じゃないか、と言いたくなる。

 それはどういうことかというと、大切なものは全部このマンガの中にある、と言い切ってしまいたくなる、というか、でも全部なんてあり得る? と思いつつ、いや、あるよ、全部、と断言できるような、そんな奇跡的なマンガだ、ということだ。そしてそれを一言で言えば「スゴいマンガだ」ということになる。


 ほのぼのした日常を描くことで誰もが楽しめる作風になっており、かつ膨大な時代考証によって当時の社会風景を細かく再現している。ぜひ次の『はだしのゲン』として全国の学校図書館に置くべきだと思う。少々大人な表現もあるが、むしろ教育によいのではないかと。

 伏線の張り方、すずのラブロマンス、戦災の恐怖を描いたサスペンス要素など、(あえてこういう言い方をするが)エンタメとしてのクオリティも素晴らしい。

 もちろん映画版も、かつての火垂るの墓のように毎年夏にテレビで放送すべきだろう。多分。まだ観てないけど。観なきゃダメだろ。今度観てきます。

残像に口紅を / 筒井康隆

 最近なんだか活字の本を読む気が起こらずにいたのだが、古本屋で筒井康隆の本を立ち読みしたところ、「筒井康隆の小説を読みたい欲」が急に湧いてきた。

 二日間ほど何を読むか検討した結果、『残像に口紅を』に決定。そこからさらに二日ほど近所の古本屋をチェックしたものの、一度も発見できず。実験的な小説だからあまり売れてないんだろうか。結局新品を買って読むことに。

残像に口紅を (中公文庫)

残像に口紅を (中公文庫)

 章が進む毎に、ことばが消えていく、という小説である。冒頭から既に「あ」が消えており、ゆえに章題以外の本文中には「愛」も「あなた」も一切登場しない。ちなみに冨樫義博のマンガ『幽☆遊☆白書』に出てきた「海藤」というキャラの能力はこの小説がモデルであるとされている。

幽★遊★白書 完全版 1 (ジャンプコミックス)

幽★遊★白書 完全版 1 (ジャンプコミックス)

  • 作者:冨樫 義博
  • 発売日: 2004/08/04
  • メディア: コミック

 2章では「ぱ」が、3章では「せ」が、という風に消えていくのだが、消えるのは文字ごとではなく「音(おん)」ごと。

 例えば「お」が消えるときは同時に「を」も消えるし、「ず」が消えるときは「づ」も消えるというルール。この辺のルールも作中で説明される。

 ではなぜこの小説にそんなルールが設けられているのか、というと、これまた説明するのが難しい。

 主人公で小説家の佐治勝夫は、自分が小説の登場人物であるということを把握している。つまりこの小説はいわゆるメタフィクション。今風に言えば、アメコミ原作で映画にもなった「デッドプール」の主人公が「自分がコミック(映画)キャラであると知っている」という設定で、あれもメタフィクション。

 のみならず、この『残像に口紅を』という小説そのものが「佐治勝夫によって書かれた(行われた)小説である」と、登場人物によって作中冒頭で言明されるのである。

 よくわからないかもしれないのでもう一度書く。

 この『残像に口紅を』という小説は、登場人物であり主役の「佐治勝夫」によって書かれた小説である。

 普通だったら「いやいや、登場人物が自分の出ている小説を書くなんておかしいじゃん?」とか「この小説を書いてるのは作者の筒井康隆でしょ?」と思うかもしれない。しかしそういう正論は一旦カッコに入れて読むのがこういう小説のお約束。というより、そういった虚実のわけのわからなさと、結局全部ひっくるめて虚構でしょ? みたいな混沌とした感じそのものがこの小説のキモであるとも言える。

 その冒頭の場面で、佐治は懇意の文芸評論家である津田得治と話し合い、ある文学的な実験を行うことを決める。

 その実験こそが、この小説そのもの、つまりことばが失われていく小説を書く(行う)ことなのだ。ことばの失うことによって、初めてその大切さがわかるかもしれない、という動機によって。


 しかしそんな小難しいことは抜きにしてこの小説を読んだとしても、ことばが失われていく中で作者(=主人公)がいかに苦心しながら物語を進めていくのかを、作者お得意のスラップスティックによって描いたコメディとして楽しめる。

 官能小説をやったり、己の半生を振り返ったりと、使えることばが少ない中であえて困難なことをやる。そこにバカらしさと凄みが生まれる。と、解説してしまうのも野暮だが、それもこれも筆者がことばに熟達しているからこそ出来ることだ。

 特に使える文字がほとんど無くなった終盤は、小説というよりほとんど言葉遊びの詩みたいになってくる。ちなみに最後に消える文字は自分が読む前に予想した通りの文字(音)だった。


 ところでここまで書いて思い出したのだが、つい最近ネット上で「語彙力ない小説」というのが少し話題になった。

togetter.com

 『残像に口紅を』が限られたことばの中から使える語彙を絞り出すような小説であるのに対し、「語彙力ない小説」は、一見すると少ない語彙で楽をして書かれているように見えるかもしれない。

 しかしよくよく読むと「すごいやばいくらいの美少女」だとか「それが僕と彼女の一度目の出会いだった」というように、稚拙なようで細かい工夫によって作られたであろう語句の組み合わせにより、おかしみを生み出している。しかも文章の流れがスムーズで、かなりリーダビリティが高い。って、解説しちゃうのはやっぱり野暮なんだけど。

 全く正反対の小説に見えて、いずれも「異化効果」によって文章を、ひいては文学を客体化しようという試みであるという点で共通していると言えるだろう。それが何の役に立つのか、と効かれても困るのだけれど。大事なのは「どうやって役に立てるか」なのだ、とここは言い張っておこう。

夏への扉 / ロバート・A・ハインライン

 ハインラインの『夏への扉』を読んだ。kindle(電子書籍)版で。

夏への扉

夏への扉

 この小説が、古典SF小説としてかなり評価が高いということは前々から知っていた。最近では『バーナード嬢曰く。』などで名前が挙げられていたりもした。

rhbiyori.hatenablog.jp

 それを今になって読む気になったのは、つい最近、小説家の高橋源一郎がラジオで「夏に読む小説」として幾つか推薦していた本のうちの一冊に、この『夏への扉』が入っていたからだ。

 前半は株式や特許がどーのこーのという話が多くてちょっと退屈だったが、中盤からドンドン話が盛り上がっていき、かなり夢中になって一気に読んでしまった。

 僕個人はSF的な描写に対してそれほど愛着が無く、そもそも1950年代に書かれた作品であるため、現代な視点から読むと未来的というよりは「レトロフューチャー」な印象が強かった。それはそれで興味深くはあるのだが、当時読んだ人が感じたようなワクワク感はあまり無かったと言えるだろう。

 しかしそういった部分を抜きにしても、先を読みたいと思わせるストーリー展開が見事だった。ほとんど「お手本的」と言っていいほど。

 いろいろと気になる部分もあるにはあるが、なんせ昔の小説だし、エンタメ小説だと思って読めばとてもクオリティが高いのは間違いない。

 あまりにも「良い話」過ぎてストーリーそのものにのめり込むのは難しかったが、スゴく出来が良い作品に出会えた、という意味での感動は確実にあった(まるきり余談だが、先日公開された映画『シン・ゴジラ』を見た時も同じように感じた)。そういう意味で読んでよかったと思う。

読書日記 再読したい時期に入りつつある

 ここしばらく活字の本を読んでいなかったが、そろそろなんか読みたいという気持ちがムクムクと湧いてきた。

 新しく本を買うというのも考えたが、あまりいいのが見つからず。そう言えば町田康の「バイ貝」が文庫化したらしいので(某書店のポイントカードを作ったら、購入履歴に基づいてオススメの新刊をメールで教えてくれるようになったので、それで知った)、うちにあるハードカバー版を再読することにした。

rhbiyori.hatenablog.jp

 この小説(?)は読んでいると本当に身につまされる。冒頭の、安い鎌を買ってしまって銭失いするところから、思わず「あるあるある!」と叫びたくなる。

 また、文庫版の解説に書かれた後半の解釈を読んでから(立ち読みしました。ごめんなさい)読み直すと、この本は意外に起承転結がかっちりしているんだな、と新たな発見をしたりした。

 最近の趣味はゲームをやったり映画を見たりネットを見たりすることが主だったが、久しぶりにじっくり読書をすると、なんだか心が落ち着いた。

 何せ本には画像も映像も音も無いし、体もほとんど動かさなくていい。ネットのように随時情報が更新されたりすることも無いので、じっくりと(ほぼ)頭だけを使うことができる。目は疲れるけど。

 やっぱり生活の中に読書があった方がいいな、と感じたので、しばらく昔読んだ本を読み返してみて、弾みをつけたところで未読の本に手を出していけたらな、などと思うが、果たして。

かくしごと / 久米田康治

 「さよなら絶望先生」の久米田康治先生の最新作。作者の漫画家としての体験談をネタとしたギャグマンガである。

かくしごと(1) (月刊少年マガジンコミックス)

かくしごと(1) (月刊少年マガジンコミックス)

 久米田先生がかつて「著者近影で脱ぐ」タイプの下ネタギャグマンガであったことは、ファンならば周知の事実であろう。

 本作の主人公である漫画家も後藤可久士も同様の過去を持つ。

 自分の過去が娘に知られたらグレてしまう、と考えた可久士は、自分の仕事を隠していくことを決意。

 しかし新しい担当者が手違いで娘のいる自宅に来てしまうなど、思わぬ事態の連続で、可久士の苦労は今日も続く……というコメディが本作の基調。

 他にも(あくまで自虐としての)あんまり売れてない漫画家あるあるや、締め切り前の漫画家あるあるといった、久米田先生の経験を元にしたネタが多い。


 久米田先生の前作「せっかち伯爵と時間泥棒」は、ストーリーや設定がかなり突飛で少々飲み込むのに時間がかかったが、本作はうって変わって日常感が強くなり、落ち着いた雰囲気になった。

 とはいえもちろん久米田作品的なギャグは満載。都会に飽きた漫画家が鎌倉に居を構えたがる様を「鎌倉病」と呼ぶなど、シニカルなテイストも健在で、ファンなら確実に楽しめるだろう。

 絶望先生キャラがスターシステム的に名前を変えて再登場していたりするのも、ファンにとっては嬉しいポイント。キャラがハッキリしているからなにかと使いやすいのかもしれない。

 正直に言うと、過去作と比べてややあたりさわりのない作風になっている感はあるが、そのぶん読後感が爽やかな大人のマンガになっていると思う。個人的には好意的に受け止めている。あと筧亜美ちゃん可愛い。

ポプテピピック / 大川ぶくぶ

ポプテピピック (バンブーコミックス WINセレクション)

ポプテピピック (バンブーコミックス WINセレクション)

 去年あたりからTwitter上でちょくちょく見かけるマンガだったのだが、最近になってじっくり読んでみたところすっかり魅了されてしまった。

mangalifewin.takeshobo.co.jp

 ギャグ四コマである。しかもかなり破壊的な芸風のギャグ漫画である。かつてダウンタウンの松本人志がお笑い芸人ハリウッドザコシショウを評して「ひとりの人間の中にものすごく面白い部分とものすごくつまらない部分が同居している」というようなことを言っていたが、同じような感想をこのマンガに対して抱いた。

 パロディ有り、(不条理な、あるいは没論理的なという意味での)シュール有り、(全然面白くないことを堂々とやっていることが面白い、という意味での)ナンセンス有り、ブラックユーモア有りと、ギャグ漫画のあらゆるパターンを惜しげも無く用いているにも関わらず、読んだ者に否応なく脱力感を抱かせる作風は、常套句ではあるが「センスがある」としか言いようがない。

 そもそも主役の二人がセーラー服を着ていること自体がいわゆる「日常系マンガ・アニメ」のパロディ。背の低い方のポプ子はヤンキーの如き「キレ芸」の持ち主であり、背の高い方のピピ美はなぜかアゴがない。普段はデフォルメタッチなのだが、手がアップで描かれるときはなぜか妙にリアル。このように、いちいちツッコミどころしかない。

 作者は他にも複数のWeb漫画を連載しているが、自分はこの作品が圧倒的に好きだ。設定に変なヒネリが無いのと、絵柄とセリフがポップアート的にキャッチーなのがポイントかもしれない。LINEスタンプが売れるのも納得である。

 それと、こんな作風でありながらポプ子とピピ美のキャラが立っていて、(多分に荒唐無稽ではあるが)「萌え」的な二人の関係性がしばしば描かれるのも人気の秘密だと思う。

 一旦は連載終了してしまったが、竹書房(おそらく僕はこの漫画のおかげで「竹書房」という名前を一生忘れないだろう)の温情?によりセカンドシーズンが現在連載中。一巻の単行本には大人の事情で収録されない話があったりしたので、ぜひリアルタイムでチェックしよう。

mangalifewin.takeshobo.co.jp

ニッポンの文学 / 佐々木敦

ニッポンの文学 (講談社現代新書)

ニッポンの文学 (講談社現代新書)

 80年代から現代までにおける日本の小説の歴史を、代表的な作家の名を挙げながらまとめた本。

 いわゆる文学作品と呼ばれるような小説だけでなく、SFやミステリといった、いわゆるジャンル小説まで取り上げているというのが面白いところ。

 もっぱら文学系ばかり読む自分のように、好みが偏った人が他のジャンルに手を出そうという時のブックガイドとしては最適な本なのではないかと思う。実際、自分はこの本を読んでから、綾辻行人やグレッグ・イーガン(はもちろん本書には出てこないが、SF小説として)に手を出したりしている。

 逆に、ディープな批評のようなものを求めている人にはちょっと物足りないかもしれない。もっともそれは、ライトな語り口と、歴史を俯瞰的に描こうというコンセプトから受ける印象であって、ジャンルを越境して文学の歴史を描くというコンセプトそのものも含めれば、実はかなりディープな一冊なのかもしれない。


 文学と非文学を同時に取り上げることが画期的である、ということは、言い換えれば「文学は偉くて、エンタメ小説はあんまり偉くない」と多くの人が漠然と思っているということでもある。それはおそらく日本も海外もそんなに変わらないのではないかと思う。

 そしてその観念は、「芸術は偉くて、娯楽作品はあんまり偉くない」という意識に通じている。

 なぜそのような意識が生まれるかというと、娯楽作品は人間のためのものであるのに対し、芸術は神様(のようなもの)に捧げるものだ、という感覚が人々の中にあるからではないだろうか。

 だとすれば、人々が聖性というものを求め続ける限り、そして小説というものがこの世にある限り、文学とエンタメという分類は無くならないのかもしれない。

 ともあれ、文学とはなにか、という一見不毛な問いは、なにが聖でなにが俗であるか、という本質的な問いにどこかで繋がっているのかもしれない。というのはほとんど今の思いつき。


 現代日本における「文学のよくわからなさ」は凄まじい。どのくらい凄まじいかというと、又吉直樹の「火花」が掲載された雑誌「文學界」などの文学雑誌を読んでみればわかる。

 おそらく95%くらいの人は、そこに書かれていることの意味や理由といったものを理解できないと思う。

 かくいう自分もそちら側の人間で、好きな作家が連載をしている時だけ文学雑誌を読んでいたが、それ以外の部分についてはほぼ理解できなかった。そして最近はもうほとんど読んでいない。

 つまり、日本における現代文学は、おおよそ全人口の5%ほどの人向けに書かれている。そしておそらく文学を書いている人は、さらにその5%のうちの5%くらい。つまり超ニッチジャンルなのである。

 という話には実はちょっと嘘があって、実際にはわかる人/わからない人を二分法で分割することはできず、一人の人間の中にわかる/わからないがアナログ的に混在していていたりすると思うのだが、話を分かりやすくするためにあえてそうした。

 ここで僕が言いたいのは、現代日本文学は極めて少数の人向けのものでありながら、とてもエラくて重要なものだ、と思われているということである。

 外部の人からすればそのような、昨今流行りの言葉で言えば「既得権益」のような有様は、とても不健全なものに見えるかもしれない。実際、「文学不良債権論」なんてものもあったらしい。

 でも多分それは間違っていると思う。なぜならいま日本で文学をやっている人(の多く)は、間違いなく文学が好き、というか、文学は大事だ、という思いに基づいてやっているのであって、決して権益にしがみつくためにやっているのではないからだ。

 文学に対する想念の形は人それぞれであって、中にはかなり屈折していることもある。小説なんか書きたくないと言いながら小説を書き続ける人もいるし、こないだのある文学賞の授賞式では、受賞者が「私の作品には何の価値もない」と言い放つ、なんてこともあった。

 しかしどの人も、この世にひとつでも多くの面白い小説が存在したほうが良い、という点では共通している。どこにその証拠があるのか、と聞かれたら、それは実際に作品を読んでいただくしかないだろうが。

 だから文学が高度に複雑化しているのは、文学を特権化するためではなく、もっと別に原因があるのだと思う。文学をやっている人のほとんどは、こんなに面白いものがあるのだからもっと多くの人に文学をしてもらいたいと思っているハズだ。多分。

 であればこそ、文学はもっと開かれたものになるべきだ、と言いたい、言い切りたいところではあるのだが、そうも言い切れないのは、なんかそういう教科書的なことを言って意味があるのかね? という疑問があるからだったりする。


 本書で最後に見出しつきで紹介される作家は、芥川賞を受賞したお笑い芸人の又吉直樹だ。

 個人的にも、「小説家役」としてテレビCMに出演したりしている彼の姿を見ると、彼の受賞は「ニッポンの文学史」におけるターニングポイントの一つとなるだろうと感じる。もし彼が二度と小説を書くことが無くても。