rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

本気になればすべてが変わる 生きる技術をみがく70のヒント / 松岡修造

本気になればすべてが変わる―生きる技術をみがく70のヒント (文春文庫)

本気になればすべてが変わる―生きる技術をみがく70のヒント (文春文庫)

 かつて自分は重度のニコ厨、つまりニコニコ動画のヘビーユーザーであった。

 そして松岡修造という漢は、ニコニコ動画のスターだった。

 彼が公式ホームページにアップロードしていた動画がニコニコユーザー達の目に留まり、多数のMAD動画が投稿され、爆発的な人気を博したのである。

 最も再生数の多い動画は400万回に達しており、全動画の累計では2000万を軽く超えているだろう。かつてここまで注目を有した「MAD素材」はニコニコの歴史の中でも数えるほどしか無い。

www.nicovideo.jp

 しかしともすれば冷笑的な傾向が強いと言われるネットユーザー達に、彼のストレートすぎる言葉がウケたのはなぜか。

 もちろん動画素材そのものが、シュールな笑いを多分に含んでいたことが主たる要因だろう。しかしそれだけとは思えない。

 松岡修造という人物は、本当の努力家であり、しかも人一倍謙虚だ。だからこそ人々のハートをわしづかみにした。そうとしか思えないのである。

 いや、月並みな結論で申し訳ない。でも動画を見ればわかる。彼の態度・動き・肉体から、彼の「本気度」が確実に伝わってくる。もちろんそれは彼がテレビタレントとして成功している理由でもある。


 「本気になればすべてが変わる」、なんて言われたら、普通の人は「ほんとかな?」と思うだろう。

 でもあの松岡修造に言われてしまうと「そうかもしれないな」と説得されてしまう。

 それは彼が、そのような言葉を実践的に用いて自らを奮い立たせ、それによってテニスプレイヤーとして高みに登ったからだ。

 つまり言葉が持つ力の一端を熟知しているわけで、説得力が無いはずがない。

 彼自身がことあるごとに語っていることだが、本来の彼はどちらかと言えばネガティブになりがちな人間だという。

 だからこそ、本書に書かれたような言葉や行動によって、自らを鼓舞する必要があった。

 つまりここに書かれた言葉や言動は、松岡修造という、いち人間の生命力を高めるために使われた実績があることになる。

 その効果は実戦で実証済み、というわけだ。


 本書には、実に様々なシチュエーションにおいて、よりポジティブに生きるためのヒントが書かれている。それを実際の生活に役立ててみるのもいいだろう。

 ただし全てが万人に適用可能である、とまでは言い切れない。そんなことはあらゆる本について言えることだが。

 「ネガティブ」には、見ようによっては「批評性」という側面もある。

 そして、あらゆる人間が松岡修造のようになれるわけではない。

 そんなようなことを頭に入れつつ読んでも、なお彼の前向きな生き方からは学ぶべきことは多いと思う。

 ミョーに妻との関係の苦労を語る箇所が多いので、夫婦関係に悩んでいる人にもオススメかもしれない。大変だろーな、松岡修造の奥さんをやるのって。

積読を20冊。

 なんだか久しぶりに本が読みたくなった。本屋と古本屋に通い、3日かけて20冊ほど購入し、寝る前などにちょっとずつ読んでいる

 昔、最も本を読んでいた時期は、月に1度はこれくらいのペースで本を買っていたと思う。

 それに比べてここ1、2年は本当に本を読まなくなった。去年読んだ活字の本は9冊だけ。あとはマンガを15冊くらい。

 ストレスからか、なんとなく体調が優れなくなったのが一番の理由かもしれない。だるいときは集中して本を読む気が起こらなくなる。で、ネットを見たりゲームをやったり。それはそれで楽しくもあったけど。最近は体調もマシになってきている。

 本を読まないせいで文章力が落ちたような感覚がある。逆に以前のように、読んだ本の影響をモロに受けたような文章は書かなくなったが。いっときは町田康の影響を受けまくっていた。若気の至りである。


 今回買ったのは文庫本が主だが、以前と比べて電子書籍で買う機会はかなり増えた。以前電子書籍について書いたときよりも。

 特にマンガに関しては、ちょっと前まで紙とKindleを行ったり来たりしていたが、今は完全にKindleに切り替えた。かさばらないメリットはやはり大きい。

 マンガの新刊はほぼ確実に電子化されるのでいいのだが、活字の本はまだまだ電子書籍化されないことが多い。

 特に、ラジオなどで紹介されて読みたいと思った本に限って、紙のみの場合が多い。大変辛い。果たして「来る来る」と言われ続けた電子書籍元年はいつになったらやってくるのか。


 面白い本を読むのは、それはもう面白いのだが、そこに至るまでのハードルが高い。特に自分のようなものぐさな人間にとっては。

 年をとって本を読むしんどさは以前よりも増している。お金もかかるし。

 でもやっぱり読書から完全に離れたくはないし、離れてはいけないな、とも思う。

 その理屈は自分でもよくわからないが。

暇と退屈の倫理学 / 國分功一郎

 暇、とは。何もやることが無い状態。

 退屈、とは。現在の自分の状態に飽き足りない、という心の動き。

 退屈とはなんだ。贅沢な話じゃないか。世の中には、退屈なんて感じる余裕がない人もいるのに。

 でも多くの人が、きっと自分の人生の中で、様々な退屈を感じているだろう。だから一人一台スマートフォンなんてものが普及した。

 ところでなぜ、「退屈なんて贅沢だ」という声がどこからともなく湧いてくるのだろう。誰が決めたわけでもないのに。他人は他人なのに。


 そんな暇と退屈に対して、我々はどう向き合うべきか、という本が『暇と退屈の倫理学』。倫理学とは、一般に「人はどう行動すべきか」を考える学問。

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)

 退屈には三つの形式があり、第三の形式の中から人は自分の可能性を見出すことが出来る、というハイデッガーの議論が引用される。

 それに対し著者は、第一と第三の形式は、実質的に同じものなのではないかと指摘し、第二形式の中にこそ、人間の最も人間らしいあり方があるのではないか、と提唱する。

 そして退屈の中に楽しみを見つけ、何かを考える契機を発見することが、望ましい退屈との向き合い方なのではないか、とも。

 詳しい議論については直接本書を読んで頂きたい。とにかく情報密度が高い本だ。正直自分も全てを咀嚼し切れたとはとても言えない。

 本書の優れているところは、膨大な学術的引用を駆使した多彩な議論が展開されていること。そしてその語り口が大変わかりやすい。知的好奇心を刺激されっぱなし。

 そして退屈という、ともすれば軽視されがちなテーマに対する筆者の知的誠実さ・切実さが全編にうかがえる。それらの源泉はあとがきにて明かされる。

 学術的な本だと言うのに、書き出しが日常的なエピソードから始まるというのもニクい。一ページ目から引き込まれてしまった。


 考えてみれば読書という行為も、大いに暇つぶしの要素を含むものだと言える。

 そしていい本は、楽しさと考える契機を読んだ人に与えてくれる。もちろん本書もそういう本だ。なるほどそういう構造だったのか、と気づいた所で今日の暇つぶし(ブログ)はおしまい。

文明の子 / 太田光

文明の子 (新潮文庫)

文明の子 (新潮文庫)

 お笑いコンビ「爆笑問題」の太田光が書いた長編小説。

 僕自身、太田光が好きかと聞かれるとちょっと答えに困るのだが、常に気になる存在ではあった。

 小学生の頃に読んだ「爆笑問題の日本原論」。ほぼ欠かさず見ていたバラエティ番組「爆笑問題のバク天!」。聴かない時期もあったが最近また聴くようになったラジオ「爆笑問題カーボーイ」。太田光の自伝も読んだ記憶がある。

 しかしライブに行きたいとは思わないし、テレビをチェックしているわけでもないし、日本原論シリーズを全作読んだわけでもない。いわゆる「ファン」とは言えないだろう。

 どうも自分が大学に入った当たりでいろいろな本を自発的に読むようになった時期から、自分と「太田光的なもの」との間にほどほど距離を感じるようになったような気がする。必ずしも悪い意味ばかりではなく。


 疲弊した未来。人類は願いを現実にする装置「ヴェガ」に、人類そのものの存続を託そうとする。

 しかし装置を発明した天馬博士が行った試運転で、彼の息子の願い「空飛ぶクジラ」が現実化され……。

 というのが本作の大まかなストーリー。

 全編に手塚治虫の「火の鳥」の影響がかなり見受けられる。また連作短編の形式で書かれており、本筋とはかなり遠い章もあって、そちらの作風は星新一っぽさもある。このへんは文庫版解説で大森望が書いているとおり。


 正直な感想として、手放しで絶賛できる小説ではなかった。

 文章はこなれていないと感じたし、設定も納得いかないところがあった。

 でもそのあたりのことを細かく書いていくより、この小説が言わんとしていることについて考えたほうがいいかなぁ、と思ったので、そうすることにする。以下、ネタバレ注意。



 文明がもたらすものは悪いことばかりではない、というのが本作のテーマだ。

 戦争、虐殺、環境破壊。そういった文明の負の側面を認めつつ、それでも文明は「良きもの」を生み出す可能性があるのではないか? そんな命題に沿うようにして、物語が語られていく。

 「〇〇は××だと思われているが、違うんじゃないの?」という姿勢。それ自体が太田光らしいといえばらしい。というのは作家論的態度。


 僕はお笑い芸人になったことがないからわからないのだけれど、お笑い芸人というのは、当たり前のことを当たり前に言っているだけではやっていけないんだろうと思う。

 あえて世間の常識とは外れたことを言う。そこに笑いが生まれるのではないかと思う。

 しかし難しいのは、ただ単に「常識の逆」を行けばいいわけではない、ということ。

 「常識の逆」も、時間が経って硬直してしまえば、いずれ別の「常識」になってしまう。

 常に常識から外れつつ、自分自身が常識にならないためには、常に常識を疑い続けなければならないのだろう。そしておそらく終わりはない。


 僕は小説家になったことがないからわからないのだけれど、小説家に求められるのも、常に常識を疑い続けることなのではないかと思う。

 あらゆる常識に則った常識的な小説、というものを想像してみればわかる。あるいはあらゆる表現作品と言い換えてもいい。

 どう考えても見るに値しないだろう。風刺としてなら成立するかもしれないが。


 文庫版解説によると、太田光はあるインタビューの中で本作の執筆動機を語っている。

 原発事故が起こった理由について、尊敬する作家が海外で演説したんです。戦後、日本人は人間の命よりも効率を選んだ。それが原発事故を招いた――という趣旨でした。僕はそれを聴いてちょっと違和感を覚えました。自分たちの文明をそんなに簡単に否定していいのか、と思ったんです。

文庫版「文明の子」解説より

 
 「尊敬する作家」の演説というのは、間違いなくカタルーニャでの村上春樹のスピーチのことだろう。

 人間が作ってきた文明というのは、たしかに時々失敗もするし、乱暴だし、とんでもない冒険もする。でも、それは必ずしも金や効率のためだけではなく、人間の命を守るという目的もあったのではないか。そういう文明をなんとか肯定的に捉えられないか。そんな思考実験に挑戦してみようと考えました

同上

 つまり文明の負の部分だけでなく、正の部分を描こうとしたわけだが、しかし本作の中で人類の「文明」が迎える結末は、表面的に見ればあまりにも悲惨なものだ。考えうる限り最悪、と言ってもいいかもしれない。

 しかし文明がもたらした正のものは、全く別の場所に受け継がれ、そこに新たな文明を生み出すこととなる。

 果たしてそれは、良きことなのかどうか? 文明を正とするならば、それもまた正なのだろう。しかしそれじゃあトートロジーみたいだ。

 人智を超えたことの善悪は、人間には決められないのかもしれない。しかしそれじゃあ判断保留だ。


 そもそも村上春樹のスピーチは、「文明を否定」したものだったのだろうか?

 自分はそうは思わない。

 村上春樹の初期の作品は、確かに文明に対する失望と、個人としての生き方を模索しようという方向性があったと思う。村上作品風に言えば「文明にうんざりしていた」といったところか。

 でもある時期から(およそ「アンダーグラウンド」の前後あたりから)、この社会全体をどうにか肯定しようという方向にシフトしている、と感じている。


 村上春樹のスピーチについて調べているときに、上記とは別の、アンデルセン文学賞受賞時のスピーチ内で以下の発言を見つけた。

 自らの影に対峙しなくてはならないのは、個々人だけではありません。社会や国にも必要な行為です。ちょうど、すべての人に影があるように、どんな社会や国にも影があります。

 明るく輝く面があれば、例外なく、拮抗する暗い面があるでしょう。ポジティブなことがあれば、反対側にネガティブなことが必ずあるでしょう。

 ときには、影、こうしたネガティブな部分から目をそむけがちです。あるいは、こうした面を無理やり取り除こうとしがちです。というのも、人は自らの暗い側面、ネガティブな性質を見つめることをできるだけ避けたいからです。

(中略)

 自らの影とともに生きることを辛抱強く学ばねばなりません。そして内に宿る暗闇を注意深く観察しなければなりません。ときには、暗いトンネルで、自らの暗い面と対決しなければならない。

【受賞スピーチ全文】村上春樹さん「影と生きる」アンデルセン文学賞

 この発言を含めて考えれば、村上の「効率」発言は、効率を追い求めた文明を否定するものではなく、「行き過ぎた効率」という文明の影の部分を指摘したものだと言える。

 そして「文明の子」もまた、文明の影をこれでもかと描きつつ、どこかにあるかもしれない光を求めて綴られた作品だ。

 二人の小説家が向いている方向は、それほど違わないのではないだろうか。


 太田光といえば、新刊が出るたびに村上春樹の批判をしていることでも有名だ。

 しかし同時に「なぜ村上春樹が人気なのかわからなくて悩んでいる」という発言もしているようだ(ただしソースは書き起こしサイト)。

 そもそも彼が批判をする理由は、一貫して「自分が読んでつまらないから」であり、おそらくそこにはメディア向けのポーズのようなものは含まれていないのだろう。要するに、「売れているから批判している」のではない。

 そんな彼が、村上春樹の発言に対して、一つの小説という形でアンサーを返したあたりに、彼の誠実さ、真面目さが表れている。


 そう、この小説は徹頭徹尾真面目なのである。

 しかし「真面目に不真面目」を地で行くような太田光の芸風とはあまりにギャップが大きく、だからこそ話題性があまりついてこないのではないだろうか。

 読んだ人に突然モデルガンをぶっ放すような、そんなメチャクチャな小説を彼が真面目に書いたとしたら、芥川賞や直木賞もそう遠くないのではないか。そんな風に思ったのだった。だったのだった。

ぶんぶくたぬきのティーパーティー / 森永あやみ

ぶんぶくたぬきのティーパーティ 1巻 (LAZA COMICS)

ぶんぶくたぬきのティーパーティ 1巻 (LAZA COMICS)

 面白いWebマンガを探していた時に見つけた作品なのだが、今すぐアニメ化して欲しいくらいクオリティが高いのに、それほど話題になっていないように見える。

 『ぶんぶくたぬきのティーパーティ』森長あやみ | まんだらけWEBコミック ラザ

 主人公「屋敷ふみ」は化け狸の女の子で、家族も全員化け狸。父も母も人間の姿だが、人を「化かす」いわゆる超能力を持っている。特に母親のそれはチート級。

 しかしなぜかお兄ちゃんだけは生まれつき人間に化けることができず、飼い犬同様の扱いを受けている。

 そんなわけで見た目は完全にただのタヌキなお兄ちゃんだが、妙に博識で毎回様々な雑学を教えてくれる。

 学生のふみは飼育部に所属するが、部員仲間も全員動物が化けた女の子。それぞれキツネ・コウモリ・三毛猫。


 そんな彼らの日常が実にほのぼのと描かれる一ページギャグ漫画なのだが、ギャグのセンスがなかなかにトガッていて、ほのぼのタッチの絵柄とうまくコントラストをなしている。

 パロディ、ブラック、メタなど、ギャグの引き出しが広く、知性を感じさせる。ちなみに作者は作画担当とネーム担当の二人組とのこと。

 子どもにも美少女アニメ好き層にもウケそうな可愛いキャラクターも魅力。ふみの「アホの子」加減が絶妙。

 ふみ5歳編や母の学生時代編などときおり挟まる外伝もアクセントになっている。突然宇宙人や魔界の生き物が出てきたりするが、大抵一発オチなのがまたおかしい。


 とにかくサラッと読めるのに何度読んでも飽きない味わい深さがある。こんなマンガはなかなかない。本当にもっと人気が出て欲しい。気になった人はWeb版をチェック!

旅のラゴス / 筒井康隆

旅のラゴス (新潮文庫)

旅のラゴス (新潮文庫)

 この小説に興味を持ったきっかけは、『ドラゴンクエストV』という自分が最も好きなテレビゲームに影響を与えているらしいと知ってから。

rhbiyori.hatenablog.jp


 そのソースは不明だが、今回はじめて読んでみて、たしかに両作品には共通する部分が多いと感じた。

 主人公が旅をする。奴隷になる。空間転移がストーリーに絡んできたり、「結婚相手を選ぶ」という場面も出てくる。最終章の「氷の女王」は雪の女王を思わせるネーミングだ。

 しかしストーリー自体は全くの別物。可能性があるとすれば、ドラクエがこの小説をリスペクトして作られたのではないかと思う。

 そもそも1986年に刊行されたこの小説自体、それ以前のファンタジー作品から影響を受けている感があり、後発のファンタジーベースのロールプレイングゲームとモチーフが似てくるのは不自然なことではないだろう。


 それとこの小説、ここ数年になって突然売れ始め、しかもその原因が不明であるらしい。

 謎のヒットに注目集まる 筒井康隆『旅のラゴス』が売れています! | 新潮文庫メール アーカイブス | 新潮社

 かなり信頼性の低い個人的予想だが、昔、某匿名掲示板まとめサイトで「名作小説○○選」に選ばれていた記憶があるので、そのへんから口コミで人気が出始めたのかもしれない。

 実際のところ、筒井康隆の作品の内(自分の読んだ中では)『時をかける少女』に次いでエンタメ要素が濃く、適度に難解で読みごたえがあるので、「筒井康隆入門」にピッタリかもしれない。

 かく言う自分も、長年いつか読みたいと思っていたのを、昨今の人気によって選ばれたであろう新潮文庫夏の100冊に入っているのを見かけて買った次第である。


 つくづく思うのだけれど、筒井康隆の怜悧な頭脳には感服しまくりである。

 その文章から膨大な知識量と頭の回転の早さがダイレクトに伝わってくるような書き手は、それほど多くはない。

 主人公のラゴスが長年かけて大量の書籍から知識を得るシーンが描写されるのだが、筒井康隆もそのようにして知識を得たのだろうか、などと思いを馳せながら読んだ。

 SF要素、ファンタジー要素、旅要素が目につきがちな本作であるが、個人的には「知性や知的活動への誘い」というテーマを強く感じた。

 その証拠、というわけではないが、ラゴスは様々な困難の解決や社会的成功を、もっぱら知性と、それを支える人間的な意志(およびある程度の運)によって成し遂げている。

 平たく言えば本作は「勉強って良いよ」というお話なのではないかと思う。まぁ僕がそう思うのは最近『勉強の哲学』という本を読んだからかもしれないけども。

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために


 知を求め続けたラゴスが、最後にたどり着くのは、己の「魂のふるさと」とでも呼ぶべきものだった。

 その結末は実に人間的で美しく、この小説を名作たらしめている。素晴らしいオチである。


 それとこの小説、最後に登場する人物について、ある可能性が示唆されている。

 恥ずかしながら自分は、読み終わってからネットで書評を漁るまでその可能性に思い至らなかった。こんな読み手が感想文を書いても良いものだろうか。

 ちなみに架空の固有名詞が多く登場する本作だが、「マテ茶」というお茶は実在している。そのこと自体には多分意味が無いが、注意して読んで頂きたい。多分何かがわかる。

騎士団長殺し / 村上春樹

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

 正直に言うと、この小説について、何を言えば良いのかよくわからなかった。読み終わった一ヶ月前からずっと。

 この小説が自分にとって良いのか、良くないのか。面白いのか、面白くないのか。

 いや、もっと正確にこの気持ちを表現するなら、「村上春樹的にこの小説はアリなのか?」。

 なぜそんな気持ちになったのか。少しずつ考えてみたい。


 まず思うのは、この小説はあまりにも「村上春樹的過ぎる」ということ。

 随所に過去作を思い起こさせるモチーフが登場することは、様々な人が指摘していることだが、シチュエーションも、あらすじも、物語構造も、全てが村上春樹っぽい。

 あまつさえ、過去作のタイトルを引用したようなセリフすら登場する。これに至ってはもはや読者サービス。そういうことメタなことをするのか、と少し驚いた。

 一言で言えば、「村上春樹が考える村上春樹小説」みたいな感じなんだけど、それを村上春樹が書くのって、村上春樹っぽくなくない? っていう。うん、むしろややこしくなってる。


 でも実は、同じようなことは、昔から言われている。こないだ、たまたま古本屋で手に取った村上春樹研究本に、「過去作と同じモチーフを用いている』と書かれていた。『ねじまき鳥クロニクル』について。

 そもそも自分が過去作を(多分)全部読んでいるからこそ、そのような感想を持つのであって、初めて読んだ人には余り関係のないことだ。し、そういう部分について、どう評価するのが正しいのか、ベターなのだろうか。難しい。


 もうひとつ気になるのは、政治的に正しいな、というくだりが結構出てくること。

 南京大虐殺のことだとか、ラストの展開だとか。

 恥ずかしながら、「ノーベル賞、狙ってる?」という感想を抱きました。邪推でしょうか。よくわかりません。

 政治的に正しいことは正しいことなんだけど、小説のために政治的に正しいのと、政治的に正しいために小説が有るのとでは、必然的に意味合いが違ってくる。どっちがどうなのかはご想像におまかせする。


 それじゃあつまらなかったのか? というと、そうじゃあないんだ。最後まで読めたしね。それがまた話を難しくしている。

 小説的な完成度は、もう誰も文句をつけられないレベルに達している。無駄が無い。ここには必要なことだけが書かれていると感じさせられる。

 物語が始まりから終わりにかけて、時に早く、ときにゆっくりと進んでいく。主人公が危機を乗り越えて帰還する。

 見慣れたモチーフも、少しずつ変化している。巨大な悪は現れないが、免色という一見紳士的な男が持つ、ほんの少し異常な、そして異常に熱心な欲望が、物語にかすかな影を落とす。主人公が絵画に向かう姿勢は、作者自身の創作論のようだ。そして顕れるイデア。遷ろうメタファー。ちなみに初めてサブタイトルを見た時は「遷ろう!メタファー」のように同調を促す意味だと思っていたのだが、おそらく違う。「さまよう」とか「たゆたう」とかと同じかと。


 ところで全然話は変わるのだが、奥泉光・いとうせいこう『漱石漫談』という本を最近買った。

漱石漫談

漱石漫談

 彼らによると、漱石の『こころ』は「偉大なる失敗作(大意)」とのことである。自分もそれに同意する。

 なぜ失敗作か。四つ折りで封がされたはずの遺書が長すぎるからであり、その遺書の内容である「下」に傾けられた漱石の(小説的な)熱量が大きすぎてアンバランスになっているから。

 しかしそのようなアンバランスさを顧みぬ熱量があったからこそ、こころは名作になったのかもしれないし、あるいはそんなアンバランスさそのものが、こころという小説に異様な迫力を与えたのかもしれない。


 そのような文脈で、体裁の整った小説を成功、破綻した小説を失敗と言うのだとしたら、『騎士団長殺し』は間違いなく成功している。

 しかし「こころ」のような小説としての価値や意義を持っているのか。少なくとも今の自分にはよくわからない。もしかするとそれは、次に出るかもしれない第3部で明らかになるのかもしれない。かもしれないの連打。