rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

読書日記 「中動態の世界」、「こちらあみ子」、カフカなど

 読書のペースが落ちると読書ブログの書き方も忘れてしまいがち。大変よろしくない。

 というわけで前回の記事以降の読書事情について、かなりフランクな感じで書いていこうと思う。


 数ヶ月前に読んだ「中動態の世界(國分功一郎)」。学術的で大変難解な本。

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)

 しかし語り口がわかりやすく、読者のペースに合わせて一歩ずつ話を進めてくれるので最後まで読めてしまった。

 現代の言語では、動詞は能動態(する)と受動態(される)の対に分類されることがほとんど。

 しかし古い言葉には能動態(他に対してする)と中動態(自らに対してする)の対が存在した。

 言葉が変われば人の考え方も変わる。能動と受動の対が基本の社会では、意志や責任が自明な概念として扱われている。

 だがその概念ではうまく説明できない出来事(筆者はその例として「カツアゲ」や「薬物依存」を挙げる)が存在する。

 能動と中動の対を用いればそれをうまく説明できるのではないか。我々が忘れてしまった中動態という概念が、社会や人などを読み解くヒントになるのではないか。

 と、いうような内容だと自分は読んだ。自信はあまり無い。


 「こちらあみ子(今村夏子)」。奥付によると2017年頃に買った文庫版だが、今年の3月末にようやく読み始めた。ずいぶん時間がかかってしまったのには理由がある。

こちらあみ子 (ちくま文庫)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

 文庫版の解説を書いているのが町田康と穂村弘。僕が日本語の書き手で好きな人5人を挙げろと言われたら確実に入ってくる両人である。その2人が絶賛する小説を読んで、もし感性が合わなかったらどうしよう……そんな恐怖があったのだ。考え過ぎなのはわかっていたけれども。

 そして実際に読んでみたらそれは杞憂だった。読み終わって数日は意識が別のところに行くくらいのショックを受けた。

 平素な文体で、ちょっとした事件が描かれているように見えるのだが、その内側に人間の、あるいは人と人の間にある地獄が渦巻いている。「一途な愛が周囲の人間を傷つける」というテーマについて重く考えさせられる。

 なのに読後感は良く、なぜか清涼さすらある。そんなすごい小説だった。

 今村夏子はしばらく小説を発表していなかったが2016年頃からまた活動を始めたらしい。チェックせねば。


 こちらあみ子の衝撃もあって本をドカ買いしたが、その後全然積読を崩せていない。

 岩波文庫の「幸福論(アラン)」。ちょっとした時に開いて目についた章を読んだりしているので、一生読み通すことは無いかもしれない。基本的に「幸福はあなたの機嫌次第」的なことが書かれていて、普段自分はあまりそういう話を好まないんだけど、この本に関してはなぜかすっと心に染み入るものがある。

 「アメリカの鱒釣り(ブローティガン)」。1ページ読んだだけでなんとも言えない色気のようなものが立ち込めてくる小説。

 「ヘンな論文(サンキュータツオ)」。東京ポッド許可局というラジオを聞いており、そのパーソナリティの本を読んでみようと購入。タイトルの通り、変わった論文を紹介している。わかりやすくて楽しい。

幸福論 (岩波文庫)

幸福論 (岩波文庫)

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)

ヘンな論文 (角川文庫)

ヘンな論文 (角川文庫)


 そんな中なぜか「カフカを読もう」と思い立ち、岩波文庫の「カフカ短編集」「カフカ寓話集」を古本で購入。

 元々カフカは「変身」くらいしか読んでおらず、長編の「城」は途中で挫折してしまった。

 カフカの長編は全て長編で起承転結が乏しいものが多くハードルが高い。だったら短編から攻めてみよう、という算段。

 比較的有名な「断食芸人」「流刑地にて」の二編から読んだが非常に良かった。目論見通り。というわけで少しずつ読み進めている。

カフカ短篇集 (岩波文庫)

カフカ短篇集 (岩波文庫)

カフカ寓話集 (岩波文庫)

カフカ寓話集 (岩波文庫)

ラオスにいったい何があるというんですか?紀行文集 / 村上春樹

ラオスにいったい何があるというんですか? 紀行文集

ラオスにいったい何があるというんですか? 紀行文集

 村上春樹の最新紀行文集、つまり旅行記をまとめたもの。

 わりと前に衝動的にkindleで買ったものを積ん読ならぬ「積んdle」していたのをようやく読了。最近の本だと思っていたが単行本の初出は2015年。時の流れよ。

 村上春樹の紀行文集で読んだことがあるのは『遠い太鼓』と『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』の二冊。

 『遠い太鼓』は、『羊をめぐる冒険』や『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』で売れっ子作家になり多忙を極めた末、そこから逃れるように海外を点々とした日々(と、本人は書いていないが虚心に読めばそう捉えるのが自然だろう)の厭世的な気分が出ていてかなり好きだった。

 それと比べると本書は、老齢に差し掛かりつつある作家が悠々自適に旅をした記録、という印象を受ける。それを読みたいと思うかはアナタ次第である。

 以前から村上春樹読者からすると、『遠い太鼓』で訪れたギリシャのミコノス島やスペッツェス島(あのヴァンゲリスさんは亡くなったそうだ)、イタリアのトスカナ、さらに(どの本か忘れたが)エッセイで触れていたボストンなどを再訪しているため、読む側としても懐かしさを感じる。

 また全国的に大人気で関連商品が大量流通しているくまモンに対する見解など、彼らしい批評眼、というかちょっとナナメな目線が垣間見れたりもする。

とにかくうちに帰ります / 津村記久子

とにかくうちに帰ります(新潮文庫)

とにかくうちに帰ります(新潮文庫)

 会社員たちの日常。そして大雨の中の帰宅風景を書いた短編集。大きなドラマはない。人は死なないし恋愛もしない。でも読んだ後に確実に何かが残る。

 同僚の意外な一面を発見すること。特にパッとしないフィギュアスケート選手について雑談すること。大雨の日に、少しだけ誰かを助けること。そんな日常に積み重なるほんのささいな出来事が、ていねいに綴られている。歴史には残らないし、もしかしたら記憶にも残らないかもしれないそんな出来事たちが、この小説の中では少しだけ輝いて見える。

 人が生きている「手ごたえ」のようなものを感じ取るのは、そんなささいな出来事からなのかもしれない。そしてその手ごたえを糧にしてまた明日を生きていく。だからこの小説を読むと生きる活力が湧く。


 作者の身体的な感受性の高さをまざまざと感じさせられるのが表題作。雨に濡れて身体にひっつく服。雨粒と夕方の曇り空がつくりだす一面灰色の世界。秋の空気と水分で奪われていく体温。そんな誰もが一度は体験したことがある情景を精妙に筆致しており、しかも文面から受ける印象はとてもやわらかい。誰にでもできそうで実は誰にも真似できない、作者が好きなお笑いで例えるならハリウッドザコシショウの芸風のようである。


 以前エッセイの中で作者は「小説を書くためには会社員を続けたほうがいいような気がする」というようなことを書いていたが、Wikipediaによると2012年に専業作家になったらしい。僕自身近年めっきり本を読まなくなったせいで知らなかったが、最近の作品などもフォローしていきたいところ。

スタジオパルプ / 久米田康治

スタジオパルプ 1

スタジオパルプ 1

 久米田康治が白泉社の雑誌「楽園」に連載中の作品。電子版がなかったので本で購入。巻頭カラーページが主人公のグラビア風で大変オシャレなのが良い。ちなみに楽園は年三回刊行というヒジョーに珍しい形態の雑誌。


 主人公の「役者丸ひろ子」は役者になることを目指し撮影所へ。そこにいたのは久米田作品のキャラクター達。

 しかしどこにもスターがいない。なぜならここはB・C級スターだけが集う撮影所だから。

 そう、スターシステムはスターシステムでも、「ダメスターシステム」だったのだ!(という自虐ネタ)


 「スターシステム」を謳う通り、過去の久米田作品のキャラが登場。

 作者本人が恒例のあとがきで語っている通り、テイストは「かってに改蔵」に近い。というか話数を重ねるごとに近づいていっている。「さよなら絶望先生」のキャラが出て来る「改蔵」と言った方が近いか。

 一応キャラクター達は俳優という設定で、「高橋」や「山田」といった平凡な名前が与えられているのだが、結局オリジナル作品での性格を引き継いでいるあたり、設定がぶれぶれではある。

 猟奇的な名取羽美、動物好きの小節あびる、謝ってばかりの加賀愛など。

 しかし懐かし「あのテイスト」が再び味わえるというだけで往年のファンにとってはたまらない作品。実に感慨深いものである。いやホントに。

 まるで成長した改蔵たちや絶望少女達に会っているような気分。にしても絶望先生が終わったのが5年前も前だなんて…(絶望)。

rhbiyori.hatenablog.jp


 作品が進むにつれて主人公の出番が減っているのは気がかりなところ。そもそもただの狂言回しでキャラが無い。気がついたらフェードアウトしていてそれがネタになったりしそう。

 絶望先生でメインポジションだったカフカがいないのもちょっと気になる。伏線だろうか?

 月刊マガジンで連載中の「かくしごと」がマンガ家をテーマとした作品なのに対し、こちらは芸能ネタが多く登場。執拗な長渕剛イジリには笑った。

 しかしモノによっては風化しやすいのが芸能ネタの難しいところ。第一話の雑誌掲載は2015年なので、もはや懐かしさすら漂う。

 少年誌連載だった作品と比べるとバイオレンス描写がほんのりダイレクトになっているのは、媒体の違いなのだろう。羽美ちゃんを筆頭に女性キャラのサイコ度が増していて良い。


 実はいろんなところで連載や原作をやっている久米田先生。正直言ってこの作品を月一ぐらいで読みたい気持ちはあるが、「かくしごと」の方も面白いので痛し痒し。っていうか最新刊チェックしてなかった。読もう。

rhbiyori.hatenablog.jp

生者と死者―酩探偵ヨギガンジーの透視術 / 泡坂妻夫

生者と死者―酩探偵ヨギガンジーの透視術 (新潮文庫)

生者と死者―酩探偵ヨギガンジーの透視術 (新潮文庫)

 以前『アメトーーク!』の読書芸人で紹介されていた小説。帯分によると『嵐にしやがれ!』で又吉直樹もこの本の話をしたらしい。

 まずなにより本書が特徴的なのは、ほとんどのページが「袋とじ」になっている、ということ。

 袋とじの状態で読んでも短編小説として成立しているのだが、ミシン目を開くことで短編のページ間に新たな文章が出現し、長編小説になる。結果、元の短編小説は消失してしまう仕掛けになっている。実際に本屋で手に取ってみるのが一番わかりやすいだろう。

 言い換えれば、長編小説の中の数ページを取り出して繋げることで短編小説になるように、計算して書かれているのである。

 それだけでもスゴイことなのだが、

  • おそらく製本の都合で、きっかり16ページごとに袋とじになっている
  • 短編の状態で多くの文章がページとページの間をまたいでいる
  • 短編と長編がほぼ完全に別のストーリーになっている

 という趣向。どういう脳ミソを持っていればこんなシロモノが書けるのか、もはや想像もつかないレベルの離れ業だ。繋ぎ目部分の文章に多少の不自然さはあるが、もちろん短編・長編共に筋の通ったストーリーとして成立している。

 ちなみに「短編と長編をいつでも読めるようにするためには二冊買うべし」と帯に書かれているのだが、あらかじめ短編のページに印をつけておけばわざわざ2冊買う必要は無い。ちょっとズルいけど。

 また袋とじという性質上、新品で読まなければ楽しめず、電子書籍で読むのも難しい。紙の本が売れない現代に生き残っていくのは、こういう本なのかもしれない。


 短編と長編のストーリーを別のものにするために、様々な修辞的テクニックが駆使されている。

  • 姓のような名、名のような姓を登場人物につけることで、登場人物を変える
  • 中性的な喋り方をさせることで登場人物の性別を変える。敬語と女性言葉が似ていることも活用
  • 長編でその場にいる人物を短編でこっそり省略する
  • 言葉のダブルミーニングを利用する
  • ページまたぎを利用して、ある言葉を全く別の言葉にする

 などなど。さぞかし苦心したはずだ。

 著者が奇術師としても活動した人物だったからこそ、このようなトリックによって人を驚かせる作品が書き上げられたのだろう。作中にも手品や超能力が頻出する。

 またこの他にも奇術的な仕掛けの小説をいくつか書いているらしい。本作は探偵「ヨギ ガンジー」が主役の長編2作目で、第1作の『しあわせの書〜迷探偵ヨギ ガンジーの心霊術』は「本自体が手品の道具になる」ようになっているという。


 ストーリーの方は、いわゆるオカルトブームの残り香がするミステリ。

 かつて超能力の存在が真面目に(どの程度真面目だったかはわからないが)議論されていた時代があり、テレビでスプーン曲げをしたり、「ノストラダムスの大予言」なんてものについての討論番組が放送されていたりした。

 大月という登場人物の名は、超能力否定派(という肩書きも今考えるとなんだかよくわからないが)の大槻教授がモデルかもしれない。

 その後オウム真理教事件などの影響もあり、すっかりオカルトは下火になった感がある。なによりインターネットの存在が大きい。スマホのカメラでだれもが情報発信可能な時代に、「未知のパワー」なんてものを信じる方が無理がある。そのかわりに出てきたのが「都市伝説」、といったところだろうか。


 自分は普段こういったミステリを読まないこともあってか、単純な小説としての感想は、そこまでピンとこなかった、というのが正直なところ。

 ただストーリーにおける「二重性」というテーマが、本書の特異な仕掛けと通底していることには少なからぬ感銘を覚えた。

 その意味で本書の仕掛けは、文学的なメタフィクション表現と言えるだろう。

 人間は、いとも簡単に先入観に騙される。そしてすべての言葉は、文脈に依存している。そのような不確かさが小説を、そしてあるいは奇術というものを成り立たせているのかもしれない。そんなことを考えた。


 著者である泡坂妻夫の未完の遺稿は、本書の続編として15年ぶりにヨギ ガンジーが登場する作品だったらしい。

 なにか新たな仕掛けを施す予定だったのか。それはどんなものになるはずだったのだろうか。実はもう小説は書き上がっていて、15年後に公表される、とかだったらスゴイなぁ。などと、本の外側のことについて考えてみるのも読書の楽しみ方のひとつと言える。

ずぼら瞑想 / 川野泰周

ずぼら瞑想

ずぼら瞑想


 瞑想やマインドフルネスに興味がある人は多いのではないかと思う。かくいう自分もそのひとりだ。

 かつては宗教的な精神修行の一環として行われてきた瞑想。そしてそれを科学的かつ現代的に解釈したのがマインドフルネス。

 でもなかなかやる機会がないし、本などを読んで個人的にやってみようとしても長続きしない。

 そんな時に見つけたのがこの本。前書きに、「ずぼら」な人に向けた本だ、と書かれており、まさに自分向けかもしれない、と心を惹かれて買ってみた。

 マインドフルネスの考え方は、今やっていることに意識を向けることで、あちこち色んな方向に向きがちな意識を休ませ、脳をリラックスさせる、というもの。

 なのでごく簡単な動作や、日常で行っていることを、いつもより細かく観察しながらやるだけで、それがマインドフルネス≒瞑想の実践になる、と禅僧であり精神科医でもある著者は言う。

 例えば最初に紹介される「ひと息瞑想」は、自分の手のひらに向けてゆっくり息を吹きかけるだけ。息の当たり方が均一かどうかをただ感じるだけでいい。

 その次の「キャベツの千切り瞑想」に至っては、文字通りキャベツの千切りをするだけだ。

 到底瞑想になるとは思えないこれらの動作も、しっかり意識を向けながら行うことで、立派な瞑想になるという。これなら自分でもやれそうだし、自分の日常の中から瞑想を見つけ出せそうな気もしてくる

 マインドフルネスで心が穏やかになれば、身体も健康になるし、人間関係も上手くいくようになって、好循環になっていくだろう、と著者は言う。


 今では大企業でも取り入れられ、実際に効果を出しているというマインドフルネス。ただこれが科学的なものなのかということについては、個人的には懐疑的だったりする。

 頭をぼーっとさせればリラックスできる、というのは、別に難しく考えなくても直感的に理解できる話だ。

 そしてマインドフルネスは、単純な動作に意識を集中することで頭をぼーっとさせるという「メソッド」としては実に有用だと思う。

 でも効果がある=科学的ではないし、科学的=絶対に安全、というわけでもない。そこのところを履き違えてはいけないと思う。

 マインドフルネスに効果がある、という部分だけを見れば実証的かつ科学的だが、そのマインドフルネスに用いられている理論に関しては、非実証的で、ときに宗教的な部分もあると思う。

 それでも、マインドフルネスがメソッドとしては有用なのであれば、存分に活用するに越したことはないだろう。


 著者はゲームセンターにあるワニワニパニックを趣味としているらしいが、例えば昔のパソコンに最初から入っていたソリティア(今は後から無料でインストールできる模様)のようなコンピューターゲームも、マインドフルネス的になるかもしれない。

 ただしパソコンやスマホのようなマルチタスクな道具はあまりマインドフルネス的でないと言える。何ごとも使いよう、というわけで。


 先日『暇と退屈の倫理学』という本を読んだ。そこで退屈というものについて少し考えた。奇しくもその本にも、本書に書かれている脳科学的な述語(サリエンシー・ネットワークなど)が出てきていたりする。

rhbiyori.hatenablog.jp

 人間が退屈してしまうのは、刺激に慣れてしまうからだ。そして人間は、太古の時代から、新しい刺激を求めるよう進化してきた。

 だが、今まで日常的にやってきた動作をマインドフルネス的にやってみると、新たな発見があったりする。新たな刺激を感じることすらある。

 と、考えると、マインドフルネスは退屈に浸りきった脳を活性化する効果もあるのかもしれない。