rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

批評王 / 佐々木敦

批評王—終わりなき思考のレッスン

 面白く読んだ本だけれど、なんだか感想を書くキーボードを叩く指が進まない。

 「批評王」に批評されてしまう! という感じがする。

 というのはあくまでもののたとえであって、実際に著者が直接殴り込んでくるとかそういうことを心配しているわけじゃない。絶対無いし。

 そもそも「批評王」という呼称自体、著者いわく”一種のアイロニカルなジョーク”として自らを称しているのであって、100%ベタにそう名乗っているわけではない。

 じゃあどういうことかというと、自分としてはいつものように、単なる本読みとして、読んだ本の感想を書いていきたいと思っている。

 でも、本書に収められた優れた批評の数々を読んだ後だと、どうしても書くことが批評っぽい方に引き寄せられてしまい、自分の手に負えなくなっていってしまう。なのでいつもより多く、何度か頭から書き直すことになった。

 そしてそこには、素人が無理やりプロフェッショナルと同じ土俵に立とうとしているような痛々しさが出てしまう感じがする。プロ野球の観客が「俺に投げさせろ」とグラウンドに入り込むことが昭和の時代にはあった、とテレビで見た気がするが、それほど興ざめすることはこの世に他に無いだろう。

 そういうためらいがある。それを「批評王に批評される感じ」と言うのはよく考えるとズレている気がするが、ともかくそんな感じ。

 と、書いているこの文章がすでに少し理屈っぽくなっている。



 本書は、この本を最後に批評家の肩書を辞める予定の(そして実際に辞めたらしい)著者が、様々な媒体に発表してきた文章をまとめたものだ。

 非常に分厚い。全525ページ。最近己の中の読書欲が高まっているのと、同じ著者による『ニッポンの思想』『ニッポンの文学』を読んだ信頼があるのでなんとか全て目を通したが、正直結構流し読みになった感は否めない。そうでもしないと読み終われなかった。

 テーマは思想、文芸、音楽、映画、コミック、アートと多岐にわたる。

rhbiyori.hatenablog.jp

 村上春樹。東浩紀。小松左京。斎藤環。高橋幸宏。プリンス。涼宮ハルヒ。やくしまるえつこ。キング・クリムゾン。スピルバーグ。石川淳。ジョン・ケージ。

 そういったキーワードに引っかかる人は読んでみて損はない。



 それなりに文章読解能力がある人であれば、大抵の本は、最初の数行を読んだだけでマトモな本かダメな本かくらいはわかるだろう。

 ちなみに「マトモかダメか」とは別に「面白いか面白くないか」を見極めるのはいつでも難しい。

 「マトモなのに面白くない」本はいくらでもある。「ダメなのに面白い本」というのには今のところ出会ったことがない。いや、もしかすると、面白い小説はある意味全部「ダメなのに面白い本」なのかもしれない、とふと思った。その理由はすぐ後に書く。

 しかし、自分自身がどうやってマトモな本とダメな本を見分けているのか、ということについて思いを至らせたことは今まで無かった。この本を読んで感想を書こうとするまでは。

 ダメな本とは、自分の感想や意見を、まるでそれが事実であるかのように詐称しようとしている本、なのではないか。事実とは何かという哲学的な問題はもちろん脇に置いておくとして。

 ある種の人は、自分の意見や感想を読者に事実だと思い込ませることを、文章能力だと考えているように見受けられる。

 身も蓋もないことを言えば、嘘をついて人をダマすことが出来るのが優秀な書き手だと考えている。

 もっとヤバい人は、自分の意見や感想が実際にこの世の真実なのだと思いこんでいる。そしてその真実をもっと多くの人に知らしめねば、と思って本を書く。結果、ヤバヤバすぎてとても読んでいられないシロモノが出来上がる。

 しかしこれが小説になると話が変わってくる。小説は虚構、すなわち嘘がベースになっている。嘘を通して現実に何かを及ぼすのが優れた小説だろう。だからある意味「ダメなのに面白い」。そのメカニズムについては、ただの本読みである自分の手には余る話。



 書くことがどうしようもなく理屈っぽくなっている。しかたない、これが自分の感想なんだから。もうちょっとで終わる。



 何が言いたいかというと、本書の著者は「事実」と「自分の感想や意見」、つまり「解釈」を分けて書くことに極めて秀でているのではないか、ということ。つまり極めてマトモな書き手であるということ。

 本書の中で著者が”私が批評でしたいのは、ふたつのこと、ここにこれがあるよ、と告げること、それから、それは何をしているのか、を記すこと、なのだ。”と書いている通りに。

 と、同時に、どこかマトモでない部分も感じなくはない。いくつかの文章には、なにか上手く丸め込まれたような印象を受けるものもある。

 でも事実と解釈がちゃんと分かれているので、騙されているという印象は無い。むしろ自分の頭で「本当はどうなんだ?」と考えたくなる。マトモじゃなさがスゴみになっている、と感じるところもある。

 だから自分のように無教養な本読みでも面白く読み進められるのではないだろうか。

ぜんぶ本の話 / 池澤夏樹 池澤春菜

ぜんぶ本の話

 池澤夏樹と池澤春菜が親子である、という事実は、『スティルライフ』を読み、『ケロロ軍曹』を観ていたネットオタクの自分としては、結構ものすごいことではあった。

 が、イマイチ世間的に騒がれていない印象があった。両者の分野に結構な距離があったからだろうか。それが逆に、そこに「七光り」的なものが無いことの証左にもなっていると言える。

 近年になってようやく本書のような共演をするようになった模様。ラジオ『アフターシックスジャンクション』の出演が、自分が本書を知ったきっかけ。

open.spotify.com

 そんな二人がこれまで読んできた本について語り尽くしたのが本書。かたや世界文学全集と日本文学全集の両方を編纂した父・夏樹。かたや小学校の図書室の本をすべて読み尽くし転校したがって親を驚かせた娘・春菜。

 SF、ミステリーなど、自分が通ってこなかったジャンルが中心なのでうかつなことは言えないが、ブックガイドとして信頼できる。というかしていきたいと思っている。

1998年の宇多田ヒカル / 宇野維正

 『1998年の宇多田ヒカル』を読了。著者のことはポッドキャスト番組『三原勇希 × 田中宗一郎 POP LIFE: The』で知った。ここ数年、読書から遠ざかっていた自分にとって主たるカルチャーの供給源は専らラジオやPodcastだった。

 1998年にデビューした宇多田ヒカル、椎名林檎、aiko、浜崎あゆみ。時に交差する4人の女性ミュージシャンの足跡を辿りながら、「ディーバ」「歌姫」といった表層的な評価にとどまらない、より正当な音楽史的評価を定義づけようという試み。そういう本であった。

 4人それぞれのデビューの経緯や、「アーティスト」という言葉がポピュラー音楽家を指す言葉として用いられるようになったのは「アイドル」というイメージを嫌ったからだ、とか、実は宇多田ヒカルと椎名林檎には長年の交流があった、といった知識は非常に興味深かった。



 ただこれは完全に自分の問題なのだけれど、昔から女性ボーカルの曲が苦手で、愛聴してきた曲がほとんど皆無。

 本書で取り上げられた4人も年齢的には「直撃世代」と言っていいハズなのだけれど、特に聴き込むようなこともなかった。宇多田ヒカルのファーストアルバムは家にあったが2回くらいしか聴かなかったと思う。椎名林檎とaikoは家族にファンがおり、ある時期までのアルバムを全て揃えていた(iTunesへのインポートをやらされるので把握していた)が、自分から再生したこともほとんど無し。

 本来なら本書を読んで得た知識をもって彼女たちの楽曲を聴く、というのがベターな楽しみかたなのだろうけれど、正直言ってそれもあまりしたくない。別に音楽的な評価が低いわけではない。ただ聴きたくないだけで。

 特に本書で音楽的な才能を讃えられている宇多田ヒカル、椎名林檎、aikoの楽曲は、聴く人をこちらを取り込んでくるような「侵襲性」が強いと感じる。だからより苦手を感じるのではないか。というのも本書を読んで改めて感じたことではある。現に今も本書きっかけで聴いた浜崎あゆみ歌唱の『Movin'on without you』が頭から離れない。

 なのであまり本書の細かい感想を書くのも、自分にとって適切ではないなと感じる。



 本書が出版されたのは2016年だが、オリンピック組織委員会への参加を熱望していた椎名林檎があの開会式、閉会式を見て何を思っただろう。想像するとちょっと切なくなる。特に入場行進におけるゲーム音楽の、あの何のひねりもない雑な使い方。

 ネットでは特に『NIPPON』リリース時期の彼女のパフォーマンスなどに対し、「国粋主義者だ」「いや、アレはただのポーズだ」などと議論が巻起こったが、本書に載ったインタビューなどを読むと、単に日本を称揚するというよりも、自分が頑張って衰退していく日本を盛り上げなければいけない、という(少々過剰な)使命感のようなアティチュードを強く感じる。



 4人を80年代アメリカンポップスのミュージシャンに例えるなら、マイケル・ジャクソンのスキャンダル面だけを背負わされたような立ち位置になってしまった浜崎あゆみ。(宇多田ヒカル=マイケル・ジャクソン、椎名林檎=プリンス、aiko=ジョージ・マイケル)

 今日現在でも、「浜崎あゆみ」で検索すれば彼女の私生活にまつわるゴシップニュース記事がヒットする。7年経っても全く立ち位置が変わっていない。



 2016年の復帰(「人間活動」が話題になった休養からの復帰)によって、デビュー以来再び宇多田ヒカルが音楽シーンを変えてしまうかもしれない、と予測する本書の結末。

 実際のところどうなったのか。上記の通り浅学なのでまるでわからないが、さらっと調べたところ、日本ではエヴァンゲリオンの主題歌等によって存在感を示しつつ、アルバムがメディアで評価されるなど海外でも着実に地歩を固めつつあるようである。

 日本のいわゆる芸能界からは適度に距離を取りつつ、しかしマツコ・デラックス(氏が「女性を認める人物」というポジションをテレビ上で確立しているのはAdoとの共演への視聴者の反応を見ても明らか)の番組にゲスト出演したりもしつつ、海外を拠点に曲作りに励んでいるようだ。

 めっちゃええやん。そのスタンス。最高やん。

 と、自分の中のエセ関西人が謎の上から目線でつぶやいている。そういやソラのスマブラ参戦PVは最高だったなぁ。ちゃんと『光』も流れて。



 そういえばちょっと前にコンビニかどこかで宇多田ヒカルの曲が流れてきた時、「この人は『この世のものでないような音楽』を作るようになったなぁ」と、感心と恐怖を同時に抱いた記憶がある。今調べたら曲は『初恋』だった。

 恐怖。そう、宇多田ヒカルの曲はどれもどこか怖い。要するに自分が女性ボーカルが苦手なのは、女性の底知れなさが怖いのかもしれない。なんてことを今言ったらポリティカル的にアウトなのだろうか。

 というようなことを考えるに至ったのも本書を読んだおかげ。

珈琲飲み / 中根光敏

 かれこれ20年くらい、夕食後に1杯のドリップコーヒーを飲むのが習慣になっている。改めて考えてみると実に長い。最近は目覚めのインスタントコーヒーも日課になっている。

 今年の2月、ふと思い立ち、粉末のレギュラーコーヒーではなく、初めて焙煎された豆のコーヒーを買い、コーヒーミル(某100円ショップの500円商品)で粉砕してドリップしてみた。

 美味かった。めちゃめちゃ美味かった。今まで飲んでいた「粉のコーヒー」とは別物だった。長州力と長州小力くらい別物だった。長州小力は素晴らしいお笑い芸人であるが、やはり長州力とはどう見ても別人である。そのくらいに違った。

 缶コーヒーやインスタントコーヒーの美味さを「1」とすると、レギュラーコーヒーのドリップは松竹梅の「松」くらいの美味さがある、と考えていた。それくらいの差がある。というより前者と後者は完全に別の飲み物だ。そう考えている人の方は多いのではないか。

 初めて飲んだ、飲む直前に挽いてドリップした珈琲は「三冠王」くらいの美味さだった。なかなか味の余韻が消えず、一時間くらいそわそわしていた。

 と、同時に、市販のレギュラーコーヒーの雑味や、時間が経って酸化した豆の酸味がわかるようになった。わかるようになってしまった、と言った方がいいか。



 そんな経緯で、もっとコーヒーについて知りたくなった。そこで目に止まったのが本書。

 おそらく『珈琲飲み』というタイトルは有名な小説『やし酒飲み』からの引用ではないか。これは信用できそうだ、と。うーん、文化的。やし酒飲み、読んだことないけど。今度読もう。

 なお本書では「珈琲」「コーヒー」という表記が両立しているが、率直に言って自分には違いがわからないので基本的に「コーヒー」で統一する。

 昨今書店に並んでいるコーヒー関連の書籍は、なんとなく業界のコマーシャリズムをそのまま流しているもののように自分には見受けられる。いや、自分は素人だからよくわかんないんだけどね。うん。

 その点本書は、著者の知識と経験に基づき、誰かに都合のいいことも悪いことも公平に書かれており、極めて真っ当な本であると、素人の自分でも感じた。

 オーディオマニアがケーブル1本に100万円出すような、もはや素人にはわかりかねる領域の話も多かったが、そういった主観的な部分と、客観的な事実がキッチリ分けて書かれているので読みやすかった。



 1970年代中頃、中学生だった著者は地元愛知で喫茶店通いを始める。

 80年に大学進学で大阪に出てからは、ジャズレコードをかけながら飲食を提供する「ジャズ喫茶」に足繁く通うようになる。

 子供の頃からコーヒーに興味を抱いていた著者は、2003年に広島の喫茶店「モンク」でマスターの指導を受けながらコーヒーの焙煎・粉砕・抽出を学ぶ「珈琲修行」をする。勤務している大学の「国内留学」制度を利用し、社会学的研究と並行しつつ。

 まず「珈琲修行」という概念が自分の中で新鮮だった。しかし考えてみればどこかに「コーヒー専門学校」みたいなものがあるわけでもなし、珈琲に関する国家資格もおそらく無いので、喫茶店のマスターに指導を請うのが正道になるのは自然の流れと言える。

 そこから日本におけるコーヒーと喫茶店文化の趨勢、専ら商業的要請によって作られてきたコーヒーの流行など、コーヒーにまつわる社会学的知見を交えつつ、社会学者となり、同時にディープなコーヒーマニアになった著者の珈琲遍歴が語られていく。


 明治期に開かれた、今で言うアミューズメント施設のはしりのような「可否茶館」、女給のサービスがどんどんエスカレートし、ついに規制対象になった「特殊喫茶」などの歴史は、「昔も今もやってることあんま変わらんなぁ」などと妙な感慨を抱かせる。

 元々ヨーロッパで発祥したカフェは元々社交場的色合いが強く、誰でもコーヒー1杯分の料金を払えば議論に参加できる場であり、イギリス民主主義やフランス革命にもその役割を果たしたと言われている。そんなカフェ文化は日本には根付かなかったようである。



 19世紀後半のアメリカでは、生豆の状態で数年以上保管した「オールドコーヒー」をヴィンテージワインと同じように高級品として珍重していた。

 しかし近年はアメリカのコーヒー業界が中心となって「生豆は新鮮であればあるほどよい」という「ニュークロップ至上主義」を広めている。

 帝国飲食料新聞社が1965年と2003年に出した書物をそれぞれ見比べると、オールドコーヒーに対する評価が180度反転していて、そのあまりにも露骨な手のひら返しはちょっと笑ってしまうほど。

 50年も経てば物事の評価が変化するのは当たり前かもしれない。しかし著者はこの変化を政治的、あるいは商業的な理由によるものではないかと推測している。

 19世紀後半には、オランダ政府が保管していたジャワ島やスマトラ島に保管していた「年代物官製ジャワ」が存在し流通していた。これに偽装するため安くて新しい豆を有毒な砒素や鉛で着色したする悪質な業者が現れ、「毒入りコーヒー」として事件になったこともあったという。

 しかし現在では、大量のコーヒーを良好な状態で保存、管理するのがコスト的な問題で難しい。

 筆者の視点からも、コーヒーは一概に「新しければ良い」「古ければ良い」というものでもなく、両者は別の個性を持った別のコーヒーであると述べている。

 だったら手間とコストのかかるオールドコーヒーよりも新しいコーヒーを流行らせて高い値段で売ったほうが儲かるじゃん、という理屈。うーん、資本主義。

 そんな現在でもコーヒー通の個人間などでは生豆を保管するエイジングが行われており、歴史のある老舗の珈琲店ではオールドコーヒーを提供している場所もあるらしい。一度は味わってみたいもの。



 その他、コーヒーにまつわる大小様々な話が満載。江戸時代に伊万里焼の珈琲椀が輸出されていた、なんて全く知らなかった。

 日本で始めて缶コーヒーを商品化した伝説の人物三浦義武氏が作ったとされる幻のコーヒー「ラール」のエピソードはもはやファンタジー。

 ネットでざっと調べたところ現在ラールは「ヨシタケコーヒー」として復元され、氏の出身地である島根県浜田市の喫茶店で提供されているとのこと。本書の著者もその認証委員会に関わっている模様。

 「珈琲修行」を経た著者は、全国のコーヒー店を行脚し、小型の業務用焙煎機を自宅に設置、キログラム単位で購入した生豆を焙煎し、少人数の会員に配布する「珈琲倶楽部」を立ち上げ、ついにはコーヒー豆の産地インドネシアのスマトラ島にあるコーヒー農園まで見学に行く。

 ここまでくるともはや世間一般で言うマニアのレベルを超えている。茶人ならぬ「コーヒー人」とでも呼ぶべきか。

 自分はそこまでコーヒーに人生を捧げる覚悟は今のところ無いので、特別な日に豆を買って挽く、くらいのところでコーヒーを楽しんでいこうと思っている。今のところは。

 この本を読んで明日から自宅で簡単に美味しいコーヒーが入れられるようになる、というたぐいに本ではない。代わりにコーヒー文化の奥深さと歴史に思いを馳せることができる。そして今後の人生の「コーヒー観」を豊かにしてくれるだろう。それこそコピ・ルアクのように希少な良い読書体験だった。コピ・ルアク、飲んだこと無いけども。

むらさきのスカートの女 / 今村夏子

むらさきのスカートの女 (朝日文庫)

 暖かくなってきて活動的になり読書を再開。気になっていた小説を読む。今村夏子『むらさきのスカートの女』。著者の小説を読むのは『こちらあみ子』以来2作品目。ネタバレありの感想。



 近所でよく見かけるむらさき色のスカートを穿いた女性と、それを観察する語り手の「わたし」。

 「むらさきのスカートの女」は「むらさきのスカートの女専用シート」と名付けられた公園のベンチによく座っており、そこで週に一度近所のパン屋で買ったクリームパンを食べる。わたしはその姿を見て、離れ離れになったわたしの姉に似ていると思う。姉に似ているとすればわたしにもどこか似ているのかもしれない。さしずめわたしは「黄色いカーディガンの女」だ、などと考える。

 そんな風にして「わたし」による「むらさきのスカートの女」の観察記録が続く。しかし読者である自分にとって、「女」は言ってしまえば、どの街でもときどき見かけるようなちょっとした変わり者でしかない。その観察記録が延々と続くのではないか、と予想しちょっと不安になった。

 しかし読み進めるほど徐々に浮かび上がってきたのは、「女」ではなく語り手である「わたし」の異常性。良い意味で期待を裏切られた。

 人混みをすり抜けるのが異様に上手い女に、わたしは興味本位でわざとぶつかりに行く。結果避けられた挙げ句、勢い余って肉屋のショーケースに激突、破壊してしまい修理代金を請求されるハメになる。勢い、強すぎ。

 その後もわたしは女のことを「元フィギュアスケート選手のタレント」や「画家になった元同級生」など、様々な人に似ている、と考える。さながら恋愛対象を見るような視線で。

 わたしは女が住むアパートを調べ、仕事場と労働日をチェックし、女の元気さによってその日女が働いた日どうかを判別しようとしている。

 ここに及んで読者は「わたし」が完全がストーカー行為を働いていることに気づく。しかも語り手のわたしはそのことを省みたりはしない。当たり前のこととしてそれをやっている。唐突に「むらさきのスカートの女と友だちになりたい。」と語り出すわたし。その唐突さがまた怖い。

 わたしは「女は街の有名人になっているに違いない」と考えている。しかしそれもわたしの誇大妄想なのではないか? と疑わしくなってくる。

 読んでいるうちに、もしかすると女よりもわたしのほうが近所では不審者として有名なのか? とも思ったが、むしろわたしはどこに言っても目立たない、社会的に透明な存在として描かれているのでおそらくそれはないだろう。



 小説には「信頼できない語り手」という手法がある。主にミステリー小説でよく用いられる手法で、小説の語り手自体が何らかの嘘やごまかしをしている、というもの。ゲームに例えると「実は主人公が魔王だった!」みたいな展開。本作もそれに分類できるだろう。

 あるいはちょっと物語作品に触れることに慣れている人であれば、ここまで読んで、もしかして語り手のわたしとむらさきのスカートの女は同一人物なのではないか? と考えた人も多いのではないか。

 ストーキングにしては女に密着している時間が長すぎる。むしろわたしが女の別人格、あるいは女がわたしの生み出した妄想だとすれば、序盤の描写は色々つじつまが合う部分がある。

 そういった、良くも悪くも謎解きパズルみたいな小説なのではないか、と危惧しながら読み進めた。しかし結論から言えばそのような展開にはならない。



 わたしは「専用シート」に印をつけた求人雑誌を置くことで、ある仕事の面接を受けるよう仕向ける。いつも髪がパサパサに汚れている女の心証を良くするため、こっそりアパートの前にシャンプーの試供品を置くという根回しまでして。ここは少しだけわたしが健気に見えてくる。

 しかしその間にも、わたしが家賃を滞納し、夜逃げの準備までしている、という状況が明かされる。どう見ても他人に気を使っている場合ではない。

 女は面接に受かりホテル清掃の仕事を始める。この初出勤のロッカールームの描写で、特に上記の「わたし=女」感が強まる。わたしの主観が女の主観に限りなく接近するのである。

 実際のところ、わたしは元々ホテル清掃の職場で働いており、女を自分と同じ職場で働かせようとしてたことがわかる。視点が接近するのは、同じロッカールームですぐそばから女を観察していただけに過ぎない。

 文庫版の巻末に収録されたエッセイによると、どうも著者は「わたし=女」を狙って書いたわけではないらしい。しかし「わたし」の無意識な同一化願望が著者の無意識を通して出てきたとすると、それはそれでとても面白い。



 冒頭からわたしの目にはまるで街の変人のように映っていたむらさきのスカートの女だが、意外にもスムーズに職場に馴染んでいく。所長にも気に入られ、彼女の本名が「日野まゆ子」であることも明かされる。

 同時に読者にとっての「わたし」の信頼できなさがさらに加速していく。このあたりで気づけば自分も物語に引き込まれていた。



 果物やお菓子といった職場の余り物を持ち帰る女。公園でリンゴを食べ、子供と遊ぶ女。どこにでもあるような女性の姿だ。今では見知らぬ大人が子どもに声をかけることはありえないだろうが、作中の時代設定であればそれほどおかしなことでは無かったと思う。

 異例の早さでトレーニング期間を終え、職場の飲み会にも参加する女。順調である。一方わたしは女に話しかけるタイミングを伺っているがなかなか切り出せない。

 ある日混雑する出勤バスが揺れた際に、不意に女の鼻をつまんでしまうわたし。ちょうどその時女は痴漢をされており、犯人の男を警察に突き出す。

 このシーンに、ここまであらわになってきたわたしの「不条理さ」が凝縮されているように思う。

 痴漢の被害を受けていた女は、当然のように鼻をつままれた程度のことはまったく覚えていない。

 しかしわたしはそのことを覚えていてほしかった。だから、もう一度鼻をつまもうと決意する。

 細かいことにこだわりすぎるおかしさは、まるでコントのよう。しかしおかしさの裏に、偏執狂的な怖さがある。と、同時に、好きな人にちょっかいを出して気を引きたいという加虐心には普遍性もある。鼻をつまむほど肉薄しているにも関わらず女に認識されていないわたしの哀しさも感じさせる。その全てがブラックホールのように一点に集約されている。



 その日以降、女は出勤のバスに姿を見せなくなった。のちに所長に車で送迎されていることがわかる。

 公園で子どもたちにホテルのチョコを配る女。ここで、何者かがバザーでホテルの物品を横流ししていることがほのめかされる。

 この間、わたしは二回ほど女に話しかけようとする。しかし別の人との会話にかき消され声は届かない。



 やがて「女」は妻子のある所長と不倫関係になり、職場でも堂々と振る舞うようになる。服装や化粧も華美になり同僚に嫌われ始める。これ以降の女にまつわるレディースコミックじみた描写はいかにもな俗っぽさなのだが、そこに「わたし」の視線が加わることで異様さがいやおうなく増している。

 この早すぎる「女」の変わりようも、見ようによっては少々不自然ではあるが、特に理由が明かされることはない。

 休日、女と所長のデートをストーキングするわたし。

 待ち合わせの喫茶店で落ち合い、映画の時間に間に合わせるため、ミルクティーを急いで一口だけ飲む女。何気ない描写だが、店員への気遣いが出来る女の健常さが示唆されている。

 一方わたしは、二人を追って入った映画館で「ダーティーハリー」を観るのが楽しみすぎて、うっかり二人を見失いかける。読者が思わず、アカンやろ!とツッコミたくなる突っ込みたくなるポイントである。

 「わたし」はとにかく異様に計画的だったり、かと思えば衝動的だったりするのである。そのことが時におかしく、時に怖い。

 居酒屋に入った女と所長。それを追うわたしはビール3杯につまみ2品という、明らかにストーキングに必要ない量の注文をした挙げ句、おそらく金欠のために食い逃げをする。いよいよ堂々と犯罪行為に手を染め始める。

 さらにわたしは居酒屋で所長が忘れたサングラスを置き引きしていた。女を奪った所長に対する意趣返しだろうか。

 二人の会話から女に実家と兄、姪と甥がいることを知る。一家が離散したわたしとは対照的に。

 やがて女と所長は、わたしと女の近所の商店街に近づく。着飾って男と歩く女の変わりように皆が気づくのではないか、と妄想を膨らませるわたし。しかしもちろんそんなことは起こらない。そんな風にむらさきのスカートの女に執着しているのは、わたしの他に誰もいないから。

 そして所長が女の家に泊まってデートは終わる。

 本文中には全く書かれないが、「わたし」は「女」のことを勝手に自分と同じ天涯孤独だと見なしており、ゆえに執着していたのではないか。しかし実際は女には家族づきあいがあり、男と交わる社会性、女性性を持ち合わせていた。

 それによってわたしの幻想は破れた。それを否認するために、この後わたしの行動はエスカレートしていったのではないか。静かにダムが決壊するように。



 その後のわたしの具体的な行動と根本的な行動原理は明確には描かれないが、おそらくわたしが横流しをしていたバザーの罪を擦りつけることで女の職場での地位をおとしめ、女と共に駆け落ち同然の逃避行を計画する。

 さらに偶然の事故をも利用し、ついに女と対話する。このシーンの一方通行さもまた恐ろしく哀しい。

 ここでわたしの正体が明かされる。ここに関しては、ちょっと謎解き小説っぽい安直さを感じなくもない。すでに伏線は張られているし*1、正体を明かさず読者が推測する形にした方が「バズった」かもしれない。

 とはいえ現行の「わかりやすさ」も今の読書環境においては必要なことなのかもしれない、とも思う。



 結局わたしの思惑は最後の場面で外れ、女は姿を消してしまう。

 女、そして読者の視点から見れば、よく知らない職場の同僚と共に逃げる必然性は全く無いわけで、姿を消すのは当然のこと。作中では一貫して合目的的に行動する女であればなおさらで、それこそ地元にでも帰ったのではないだろうか。

 だが己の願望と現実の区別がつかないわたしにはそのことがわからない。それが読者に何とも言えない哀しみを催す。

 女を追いかけるために乗り込んだバスの支払いを、わたしはなけなしの「つくば万博記念硬貨」でしようとする。当然、硬貨投入口に入らない。そこでバスの運転手が100円玉硬貨5枚と記念硬貨を交換してくれる。

 このエピソードは極めて重要だと考える。なぜならそれまで社会的に透明だったわたしが、作中で初めて他者と交渉することに成功したシーンだからだ。これまで閉じていた、わたしと現実との回路が開かれるのである。

 わたしの「計画」で落ち合う予定だった街で女を探そうとするわたし。しかしわたしは、昨夜女が履いていたものの色も形も思い出せない。

 ここでわたしがずっと女を「むらさきのスカートの女」と呼び続けていたことの異常さが浮き彫りになる。わたしは「日野まゆ子」という女性ではなく「むらさきのスカートの女」という虚像を追いかけていたのではないか。



 女が消えたあと、わたしは所長を脅迫し、お金を借りることに成功する。読者の目にはもはや完全なサイコパスである。当代風に言えば完全に「ヤベー奴」。

 しかし同時にその行動は、これまで徹底的に非社会的だったわたしが、完全に現実世界に参加するようになったともとれる。透明だったわたしが透明でなくなった。そこにはある種の希望も見い出しうる。女に声をかけることをためらい続けていたわたしの面影はもうどこにもない。たくましさすら感じる。やってることはヤベーけど。

 わたしは専用ベンチでむらさきのスカートの女を待ち続ける。と、同時にむらさきのスカートの女に成り変わる。恐ろしい。でもどこかに明るさがあるのは、わたしに成長のきざしがあったからだろうか。



 「わたし」が読む人の心を捉えるのは、単に異常であるのではなく、そこに不条理さがあるからだろう。本人は良かれと思ってなにかをする。でも世界がそれを弾き返す。そういう不条理。

 そしてそれは愛情の持つ「一方通行さ」というある種の普遍性に根ざしているように思われる。だからどこかで「わたし」のことを他人事とは思えないのだ。

 徹底的に女を観察し、手助けをするわたしは、しかし女に直接関わることはできない。目的の為に必要な行動ができない。追いかけることが目的化してしまっている。

 対して女は極めて合目的的に生きることができる。職場で地位を得て、所長と不倫するような社会性を持っている。

 その二人がぶつかる、というかわたしのほうが「ぶつかりに行く」ことで、ある事件が起こる。その顛末を描いた、恐ろしくて哀しくておかしい不思議な小説だ。

*1:2度ほど意味ありげに名前が出ている他、単行本55ページ、所長が挙げる「全員が個性派」のチーフの中に「わたし」が入っていない

ライムスター宇多丸の「ラップ史」入門 / 宇多丸 高橋芳朗 DJ YANATAKE 渡辺志保

 先日ヒップホップの歴史の本を読んだので、さらに続けて知るために手に取ったのが本書。

 2018年1月にNHK-FMで放送されたラジオ番組「今日は一日"RAP"三昧」という番組を書籍化したもの。

 普段からライムスター宇多丸のラジオをちょくちょく聞いているのでちょうどいいな、と。



 アメリカのヒップホップの歴史と並行する形で日本のラップ史を紹介していく形式をとっているため、日本のラップがどのようにアメリカの影響を受けてきたかがよくわかるようになっている。

 歴史の本だけあって出てくる固有名詞が多いが、トーク形式なのでサクサクと読んでいけるのが良いところ。

 いとうせいこう、スチャダラパーBose、Zeebraといった日本ヒップホップ史の生き証人を迎えたインタビューもあり。

 なによりライムスター宇多丸自体が日本のヒップホップ第一人者のひとりなのであるからして、これほど歴史を語るのにふさわしい場は無い。

 共にパーソナリティーを務めた高橋芳朗が、番組で流した曲のSpotifyプレイリストを公開している。流しながら読めば理解度倍増。



 多くの音楽ジャンルには、定期的に原点回帰のムーブメントが起こる。

 例えばロックの場合、どんどん技術的に高度化、洗練化していく流れに対して、よりシンプルで衝動的なサウンドが揺り戻しとして出てくる。パンクロック、グランジ、ガレージロック・リバイバルなど。

 対してヒップホップにおいては、定期的に「ワル」の方への揺り戻しが起こっているように見受けられる。ヒップホップにおける原点はやはりパーティー、ゲットー、そしてドラッグカルチャー、さらにそこからの「成り上がり」なのだろうか。

 そういった光を当てにくい部分を取り扱うボリュームは少ないと感じた。NHKだからしかたない面はあるが。

 またラップの技術的な側面もあまり扱わない。確か以前チラッと立ち読みした「ラップのことば」という本が日本語ラップを解析的に扱っていたと思うのでそちらを読んだほうが良いのではないかと思う。

 かつてのような「アメリカ文化の輸入」というモードが薄れてきている昨今。果たしてヒップホップはどうなるのか。そんなことにも思いを寄せたくなる一冊。

文化系のためのヒップホップ入門 / 長谷川町蔵 大和田俊之

 正直に告白します。ずっとラップのことをよく出来たダジャレだと思っていました。ごめんなさい。

 と、そんな自分がヒップホップのことを知るべくこの本を読んでみた。するとなぜ自分がここまでヒップホップに興味がないかがわかった気がした。

 いわくヒップホップにおけるラップは、決められたテーマについていかに上手くラップできるかを競うコンペティション、つまり競技である、と。

 なるほど。要するにアレだ。お題に沿って575を作る俳句みたいなもんなんだな。そしてそれは同じ進行を繰り返しながら展開していく黒人音楽の歴史に根ざしている、と。

 逆に自分が愛聴してきたロックやポップスはオリジナル信仰に基づいている。作者個人の経験や知識、あるいは「魂」のようなものが、これまでのものとは全く異なるオリジナルな音楽を生み出す、という価値観。ロックが天才やカリスマを要請するのはそのため。

 しかしその意味でより平等主義的なのはヒップホップの方だと言える。決められたルールの中で仲間内の競争に勝ち、全国での競争に勝てば、よりビッグになれる。本書ではお笑い芸人との類似を指摘しており、それは例えば近年のCreepy NutsとEXITの接近などにも現れているのかもしれない。

 しかもヒップホッパーは地元主義の(日本で言うところの)ヤンキー志向が強く、ビッグになって得たマネーを現地の仲間に分配する思いやりもある。急によくわかんない環境団体に入れ込んだりする大御所ロッカーとは対照的だ。


 というように本書はヒップホップの成り立ちをその歴史と精神性から大変わかりやすく対談形式で解きほぐしていく。自分のようなヒップホップ弱者にとってとてもありがたい書となっている。

 特に第6部の「ヒップホップとロック」では我が意を得たりと膝を打ちまくリング。自分の人生観、人間観にすら思いを馳せましたよ、ええ。

 流石に固有名詞が多すぎて一読では把握しきれていないけれど、例えば似たような他の本を読んだ時に「あそこで出た名前だ!」となれるだろう。そのようにして知識は深まっていく。

 2011年発行の本であるため当然話は現代には及んでいないが、2018年と19年に続編が出ているとのこと。そちらもぜひ手に取りたい。