rhの読書録

読んだ本の感想など

わたしは孤独な星のように / 池澤春菜

 声優で文筆家の池澤春菜の、初の短編SF小説集。

 自分が子供の頃から、アニメキャラの声としてその声を聞いていた、あの池澤春菜が文筆活動をしている、という情報はラジオ『アフター6ジャンクション』などを通して文字通り耳に入ってきていた。

 父の池澤夏樹との対談集の中で、現在小説を執筆中であることが語られていたが、その初めての短編集が出たということで読んでみた。

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 とにかく著者が好きなものを詰め込んだ作品集、というのが第一印象で、そのウキウキ感、高揚感と同時に、小説を書くことの困難に立ち向かおうという、いい意味での「力み」が伝わってくる。多分まだ詰め込みきれてないんだろうなという感触もある。

 中でも最初の短編『糸は赤い、糸は白い』は、そのむき出しの「キノコ愛」が、それこそキノコの菌糸のように充溢していて、読後に強い印象が残った。

 「SF」と「少女的な感性」が混ぜ合わさっている、という言い方でいいんだろうか、自分はそのどちらにも疎いのだけれど、その2つが自然に一体となっていることに、個人的には新鮮味を感じた。

 いわゆる「ネットオタク」的な語りを駆使した作品だったり、著者自身の声優という職業が反映されるエピソードがあったりと、表現の幅が広く、かと思えば表題作の『わたしは孤独な星のように』は、ストレートな宇宙SFに出会いと別れの切なさが盛り込まれていて胸を打った。


 「SFって、いろいろなものを拡張しようとする試みなんだな」ということを本書を読んでしみじみ感じ入った。空間、時間、肉体、精神、生活、愛。それらのさらにありうるかもしれない形を、科学というフィルムを透してスクリーンに映写する。

 そういうことは、体感としては、たとえば子供の頃に手塚治虫のSFマンガとか星新一のショートショートを読んでいたときから感じていたことだと思うけれど、本書をきっかけに初めて自分の中で言語化されたのかもしれない。

 そして本書に漂う「滅び」の雰囲気は、今の現実の雰囲気と地続きで、そのことが本書を今の現実としっかりつなぎ合わせていて、ただの絵空事ではないなと感じさせる。それは良い小説の1つの条件であると自分なんかは思うのだけれど、いかがでしょうか。

街とその不確かな壁 / 村上春樹

 とにかく本作を読んでみて欲しい。読んで、自分で判断してみて欲しい。あらゆることを。

 いや、そんなことを言っていたら本の感想を書くという行為が成り立たないのはわかっている。別に成り立たなくてもいい気すらするんだけども。とにかく書いてみよう。


 村上春樹は今からおよそ40年前に、『街と、その不確かな壁』という小説を書いた。その小説は彼にとってどこかしら不本意な作品だったため、単行本化されず、全集にも入らなかった。ちなみに自分は掲載された雑誌を図書館で読んだことがある。15年くらい前のことなので詳しい内容は覚えていないけれども。

 その、いわば封印された小説を、40年ぶりに「書き直した」のが、2023年に出版された本作『街とその不確かな壁』だ。読点(、)があるのが古い小説、無いのが新しい小説。正直ちょっとまぎらわしい。

 「書き直し」とはどんな意味か、「続編」なのかそれとも「同じストーリー」なのか、と思うかもしれないが、そのどちらとも微妙に違う。こういう文芸作品にはよくあることだけれど、そもそも「ストーリーライン」とか「整合性」みたいなものを目指して書かれていないし、多くの読者もそういうものだと思って読んでいる。強いて言うなら映画やゲームで言うところの「リブート」に近いか。

 実は旧作『街と、その不確かな壁』のストーリーは、変形されて『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』という小説の一部に使用されている。「世界の終わり」と「ハードボイルド・ワンダーランド」という2つのストーリーが交互に書かれていく小説で、その「世界の終わり」パートが、『街と、~』とモチーフを共有している。ちなみに当時読んだ自分はその結末に納得がいかなかったらしい。読み返すのも恥ずかしいけど一応リンクを貼っておく。

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 新作である本作『街とその不確かな壁』もまた、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と同じように2つの物語が並行して進んでいく。「ぼく」の物語と「私」の物語の2つ。その「私」の物語の方が、「世界の終わり」パートとほぼ同じストーリーをなぞっていく。


 16歳の「ぼく」は作文コンクールで出会った「きみ」と恋愛関係になる。しかし「きみ」はある日長い手紙を残してどこかに消えてしまう。これが「ぼく」のパート。

 一方「私」のパートでは、「私」は不思議な街にいて、街の図書館で「きみ」と同じ姿の少女に助けられながら、夢読みという不思議な仕事をしている。

 ここまでが第一部冒頭のごく簡単なあらすじ。

 やがて「ぼく」が成長して「私」になり、ある日現実から街へ落下したことが明かされたりするのだが、一体この「街」とは何なのかがハッキリ示されることなく物語は進んでいく。どうやら精神世界のようなものらしいのだが。


 一体この物語はなにを表しているのか? そのとっかかりがつかめない。というか、つかんだそばから「とっかかり」が消えていく、と言うべきか。

 すべてがAでもありBでもある。「Aである」と言った瞬間にそれはもうBになっている。そういう感触がある。そういうところを目指して書かれたように感じられる。

 村上春樹の文体をパロディする際に「あいまいな物言い」がよく引き合いに出される。「Aかもしれないし、Aじゃないかもしれない」みたいな。本作はそのようなあいまいさがますます極まっていると言える。

 にも関わらず、本作の文章そのものはあくまでもシャープに研ぎ澄まされている。たとえば『世界の終わりと~』と比べてみれば、本作のシンプルかつソリッドな、余計な贅肉を削ぎ落としたような文章が際立って見えるだろう。


 そんな本作を読んで自分はどう思ったか。「共感できるが疑問が残る」。短く言うとすればそんな感じになるだろうか。

 主人公は自分にとって最も大切な存在、自分が命を賭けても守りたい存在、自分とひとつになるはずだった存在の「きみ」を失う。

 「街」は「きみ」が残したものであり、「きみ」と「ぼく(主人公)」が共に作り上げたものだった。ゆえに主人公のその後の人生は、街と向き合い続ける人生になる。

 街に行けば「きみ」に会える。彼女は現実の世界から見れば「きみ」の影にすぎない。でもその街にいる限りにおいては、彼女は紛れもない本物の「きみ」だ。街とはそのような場所であるらしい。

 だったら街で暮らし続ける方がいいのか。でも街はとても限られた世界だ。壁に囲まれた狭い世界。時間さえそこには無いように見える。「きみ」以外の何もない世界、と言ってもいいかもしれない。

 「きみ」がいない現実の世界。「きみ」以外の何も無い世界。その二つのどちらを選ぶべきか、主人公は思い悩む。

 「きみ」は果たして本物の「きみ」なのか? 現実の論理で言うならば、もちろん本物ではない。自分の精神世界にいる存在なのだから、

 自分の内面にいる存在であるとすれば、「きみ」は主人公自身であると言ってもいいかもしれない。自我の延長。オルターエゴ。

 しかし現実に生きているわれわれにとっても、他人は完全に到達することのできない存在だ。誰かのことを完全に理解することなんてできない。他者は他者でしかない。

 例えば誰かに憧れを抱くということは、自分というキャンパスに他人の像を描くような行為だ。自分にとっての他人を、自分の中に作り出す。そのようにしか人は他人を理解できないのかもしれない。

 そういう意味においては、街にいる「きみ」は、主人公にとっての「きみ」そのものであると言っていいのではないだろうか。少なくとも街の中においては。


 「そんな風に一人の世界に閉じこもっていないで外の世界に出ろ」というのがおそらく「健全な」考え方ということになるだろう。学校とか社会とかの。

 またある種の人々は「自分の中に真実を見い出せ」みたいなことを言うかもしれない。スピリチュアルとかそういう系統の人たちは。

 「内側」を向くか「外側」に出るか。本作はその二項対立に対して、わかりやすい解答を積極的に避けようとしているように見える。だから主人公は2つの世界を行ったり来たりする。

 主人公は「きみ」を求めて街に行く必要があった。「イエローサブマリンの少年」はあくまでも街を求めてそこに行った。

 でもそれは「自分だけの世界、サイコー!外ってクソだよね」というようなメッセージではもちろんない。全然、ない。

 主人公は街の成り立ちに不自然さを感じ、そこから出ようとする。だからといって「やっぱ人は社会に出てオトナにならないとダメだよね」ということでもない。

 主人公はただ街から出るのではなく、自分の半分を街の外に出す、という選択をする。現実と非現実の間を生きようとする。

 ひとまず中間に踏みとどまる。たとえばそういう生き方もできる。そのことを本作の物語はひとまず示しているように見える。

 現実でも、インターネットでも、あらゆる場所で分断が生まれてしまっているこの世界において、「どちらでもない」というありかた、二つの場所を行ったり来たりするようなありかたを、物語によって語ろうとしている。そのことに著者なりの覚悟を感じる。


 『新潮』2023年6月号に、7人の書き手が本作に応答する文章を寄せている。

 7人の内の1人である小沢健二は、文の段組みまでデザインしたその文章の中で、ゲーム『Undertale』に言及している。というか文章全体の7割くらいUndertaleの話題で埋まっていて「小沢健二、自由だなぁ」としみじみ感心してしまうのだが、確かにUndertaleには本作に共通する部分を感じる。

 「落下した少年」が閉ざされた世界から脱出しようとする。そこにはモンスターという非現実の存在が生活している。ベストエンドとでも言うべきエンディングで、ある人物が主人公に向けて語る「人生観」には、まさに本作のような「どちらにも与しない」という精神を見出すことができる。


 先ほど「共感はできるが疑問が残る」と書いたが、じゃあ疑問とは何なのか。

 ハッキリと形のある疑問ではないので、ちょっと断片的な書き方になってしまいそうだけれど、とにかく書いてみる。

 何もかもがスムーズすぎる、という印象が読後に残った。

 第2部の冒頭で現実に帰還した主人公は、夢で見た光景に従って福島県の図書館の館長になる。子易さんという前館長の助けを受けて、図書館の業務に順応していく。

 一事が万事その調子で、あらゆることが目に見えないものの導きによって(あるいは導かれるようにして)、するすると滞りなく進んでいく。少なくともそういう風に読めてしまう。

 子易さんもイエローサブマリンの少年も、主人公のために登場し、主人公の手助けをし、その役割を終えると去ってしまう。あくまで自分にはそう読めるということだけれど。


 もう一つの疑問は、作者の顔が見えすぎるということ。

 井戸、図書館、主人公を導く言葉少ない若者、といった過去作に登場したモチーフが本作にも登場する。

 物語展開にも既視感がある。読んでいて、多分主人公はこの女の人と寝るだろうな、と思った女性とちゃんと寝たときには、さすがにちょっと頭を抱えた。

 スムーズさと村上春樹っぽさ。この2つの要素のせいで、物語内における現実世界が、あまり現実に感じられない。「村上春樹ワンダーランド」とでも言うべき世界に映ってしまう。そのせいで「現実」と「非現実」の往復というテーマが薄まってはいないか。「現実」の方も非現実的なせいで、どっちも「非現実」に見えてしまう。

 ひいては、この小説内世界そのものが、この小説全体の犠牲になっていやしないか。そんなことまで考えてしまう。それこそ「街」の犠牲となる単角獣のように。

 著述家の内田樹はXで、本作には「外部がない」と述べているが、自分が感じている印象もそれに近いものかもしれない。


 そういった諸々込みで、冒頭に「読んで自分で考えてみて欲しい」と書いたのだった。

 ともあれ偉大な作家が40年越しに完成させた集大成的な小説であるという意味で、本作が重大な意味をもつ作品であることは間違いないだろう。

電気羊と夏の海で / 小島アジコ

kuragebunch.com

 小島アジコ『電気羊と夏の海で』を読んだ。Web漫画の1話について感想を書くのは初めてなのだけれど、自分の中に得体の知れない「感想書きたい欲」が湧いてきたのでちょっと書いてみることにする。

 祖父の遺言に従い、彼が住んでいた家にいくことになった「僕」。

 そこにはかつて祖父と共に暮らしていたアンドロイドの「羊」が待っていた。

 祖母と同じ名を持つ羊は機能が劣化しており、僕を10年間待ち続けていた祖父の「新(あらた)」だと誤認識しており、記憶が1日分しか保たなくなっていた。

 僕は、毎日記憶が巻き戻る羊と共に夏の海や山での日々の暮らしを送る。

 家を出る最後の日、星空を見ながら、僕は羊に秘密を打ち明ける。


 記憶喪失の羊、捨てられた街、そして僕。失われていくものたちが出会うさまが夏の風景と美しく描かれる。あらゆるものは失われていく。でもそこにあるのは必ずしも悲しさだけではない。

 印象的なのは羊の服装が毎日変わっていること。記憶のない彼女は何を思って毎日僕(新)のために服を着替えたのか。あるいはそれもアンドロイドの「機能」だったのか。単に祖父のシュミなのか。

 秘密を打ち明けられる羊は人工的なジャージ風のジャケット。秘密を聞いた後、眠る彼女は子どものように無垢なワンピース。最後に「誰か」を迎える際にはやわらかな印象のパフスリーブのブラウス。


 はたして祖父は、なにを望んでいたのだろう。僕に羊を見せたかったのか、それとも羊に僕を見せたかったのか。

 羊は1日で記憶がなくなってしまうが、過去の記憶が無いわけではない。人間で言えば短期記憶が無くなってしまうが、長期記憶は残っている。

 「ずっとどこに行っていたんですか」と何度も言う。羊はずっと新を待ち続けていた。

 羊が待ち続ける。それはいわば祖父の「想い」が生んだ結果だ。まず間違いなく、祖母に対するなんらかの想いが。

 その「想い」が今度は僕を出迎える。そこにはどうしようもない「行き違い」が生じている。その想いは元々は完全に祖父自身のためのものであり、孫の僕のためのものではなかった。

 それでも僕は、羊との一夏の暮らしの中でなにかを受け取った。形にも言葉にもならないかもしれないけれど、確実にそこにあったなにかを。

 あらゆる意思の伝達は、本来はそういう「行き違い」なんじゃないか。

 ある日どこかで誰かに生まれた想い。それは郷愁だったり無念だったりするかもしれない。

 その想いが、全然別のかたちで別のだれかに伝わる。それこそがむしろコミュニケーションの本質なんじゃないか。だからこそ、例えばなにかを深く愛したりすることができるんじゃないか。

 本作はそんなごくささやかでありふれた奇跡を描いていると思えた。

芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか / 市川真人

 前回、佐々木敦『成熟の喪失』を読み、江藤淳の「成熟論」と村上春樹作品との関係を知りたくなった。

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 ググって出てきた本書がそれに役立ちそうだったので読んでみた。

 したところ、まさに自分が知りたかったことが書かれていた。俺の本選び、スゴイ。いや、スゴイのは本を書いてくれている人です。


 村上春樹『風の歌を聴け』は擬態(フェイク)としてのアメリカを描くことで、「アメリカに依存し模倣する日本と日本人」を再現した。

 審査員は、その作品がアメリカ的なもので充満していることには気づいた。しかしそこに日本と日本人が描かれていることには気づかなかった。あるいは無意識的に忌避した。だから芥川賞を受賞できなかった。

 自分の知りたかったこと(それは本書のタイトルへの解答でもある)を無理矢理2行に圧縮するならこういうことになる。


 日本を代表する文学者が集まって、そのことに気づかなかったのか、と現代の読者目線で指弾するのはもちろん間違っている。大いに間違っている。

 人はそれが自分たちにとって重大なことであるほど、逆にそのことに気付けない。それを認めることが自分の立場を大きく揺らがせるものであればあるほどに。

 そのような事態はどんな場所でも、いつの時代でも起こり得る。

 ある人のコンプレックスが、周りの人には丸わかりであるにもかかわらず、本人は全くバレていることに気づかない。なぜなら気づかれていることを認めるのがイヤだから。そんな事態に出会ったことがある人も多いだろう。

 かつて日本人にとって「アメリカ」とはそのようなものだったらしい。今はどうだかわからないが。

 昨今の大統領選挙の様子などなどを経て、すっかりアメリカもまた「恥ずかしい」ものになってしまっているようにも見える。でもアメリカの支配が消えたわけじゃない。


 そこから本書は「芥川賞」「近代化」「成熟」、そして「村上春樹作品」といった要素を軸に、日本の小説の歴史を辿っていく。

 「なぜ走れメロスを読むと感動するのか?」や「坊っちゃんのヒロインは誰か?」といった問いを考えていく。

 そこで明かされるのは、日本の小説が、日本の歴史と密接な関係を持ってきた経緯だ。

 どうも「エンタメはエンタメとして楽しめばそれでいい、それで完結したい」みたいに考えている人が世の中には多いと感じているが、それはそれとして、ある作品の内側と外側を詳しく知ることでさらに深い楽しみ方ができる、という事実を本書は示している。

 本書が書かれた2010年頃から、芥川賞は、日本の文学はどうなっただろう。熱心にフォローしているわけじゃないけど、女性とヒップホップの時代になっている、という印象。

 村上春樹はその後『猫を棄てる』というエッセイの中で初めて自身の父親についてまとまった量の文章を書いた。本書でも言及されている、『1Q84』における父についての描写が、彼の態度の変化になんらかの影響を与えたことは間違いないだろう。

成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の崩壊 / 佐々木敦

 『新世紀エヴァンゲリオン』や『シン』シリーズなどの庵野秀明作品と、江藤淳『成熟と喪失 “母”の崩壊』を通して、「成熟」を論じる本。

 そもそも自分は庵野秀明作品があまり肌に合わない体質である。必ずしもキライではないし、エヴァ本編はほぼ全て1回観ている(というかがんばって観た)のだけれど、どうしても観ていると悪酔いしたみたいな気分になってしまう。今回はイケるんじゃないかと『シン・ゴジラ』公開時に劇場に観に行ったが、懇々と小言を押し付けられているみたいな感覚に陥って大変苦しい思いをした。

 自分がエヴァを苦手な理由は「説教臭いから」だと思っていたが、本書の浅田彰を引用した「エヴァはパラノ(偏執)的だ」という説明で腑に落ちた。「逃げちゃダメだ」的観念、戦わなければ生き残れないという強迫性が自分には苦しく感じられるのかもしれない。同じように『ガンダム』とか『進撃の巨人』とか『鬼滅の刃』が苦手なのもそのせいだろうか。

 読み終わってから気づいたが、江藤淳も自分にとってはあまり印象の良くない書き手だった。自分が自発的に本を読み始めた頃にはすでに亡くなっていたが、自分が読んできた本(本書で引用される加藤典洋や大塚英志も含む)の中で江藤淳が好意的に取り上げられていたのを読んだことがない。直接江藤淳を読んだことは無いので食わず嫌いなのは自覚しているけれども。

 そんな自分の「二大苦手」を扱った本であるが、大変興味深く読め、実にいろいろことを「考えたくなる」本だった。「考えさせられる」ではなく。

 以下、本書を読んで自分の中に生じた、現時点での本書の成熟論に対する理解。




 エヴァンゲリオンは長らく「上手く終われない」物語だった。「エヴァの呪縛」に表象されるように、物語構造的に成長が排除されていた。それゆえにか、キレイな「オチ」をつけることができなかった。

 『エヴァQ』の後、庵野秀明は『シン』シリーズを手がける。そこにはエヴァには無かった要素が盛り込まれていた。『シン・ゴジラ』の「公共」。『シン・ウルトラマン』の「他者」。

 そしてシリーズ最終作『シン・エヴァンゲリオン劇場版』で、シンジはゲンドウと和解し、成長した姿でマリと結ばれ、物語はある種の「ハッピーエンド」を迎えた。

 唐突な終わり方ではあった。シンジとマリが結ばれるプロセスは描かれなかった。しかしシンジを成長させたうえでエヴァンゲリオンを「終わらせる」のであれば、この結末しか無かったようにも思える。そしてその唐突さは「すでに庵野秀明が大人になってしまったこと」に由来していると見るべきだろう。

 江藤淳の『成熟と喪失』は、そのある種の前時代的な内容から様々な評論的批判を受けつつも、現代まで影響力のある一冊となっている。

 敗戦によって「父性」が崩壊し、近代化によって「母性」が喪失した日本社会で、人間として成熟するためには「治者」として振る舞うしかない、というのが江藤淳の成熟論だった。

 喪失を通して成熟が可能になるという、江藤淳による「日本的成熟論」が、普遍性や妥当性を欠いているように見えるにも関わらずしぶとく生き残っているのは、そこに人の心を慰撫するようなところがあるからかもしれない。

 かつてエヴァが描いた「成長できなさ」「未熟」には、江藤淳の成熟論に通じるものがあった。『成熟と喪失』の中にはエヴァンゲリオンの解説として読むことすら可能な文が見受けられる。

 庵野秀明は『シン・エヴァ』でエヴァを終わらせ、そのような「成熟」の問題にひとつの区切りをつけたのだろうか。だとすればそれは成熟の終わりではなく、むしろ成熟の始まりだったのかもしれない。大人になったシンジはその後も生きていく。

 シン・エヴァの後に公開された現時点での最新作『シン・仮面ライダー』には成熟への志向は描かれない。キャラクターの命は失われてゆくが、エヴァのように失われたものを中心にぐるぐる回り続けるような物語ではない。

 代わりに登場するテーマが「継承」だ。一文字隼人は本郷猛の遺志を継いで戦い続けることを決意する。

 成熟を追い求めないこと。成熟なき成熟、いわば「成熟の喪失」こそが、日本的成熟の「先」を描くためのカギなのかもしれない。



 そもそも成熟とはなんだろう。喪失を通じて成熟するとはどういう事態だろうか。

 「母」の喪失により成熟する。それを細かい議論をかなり強引に切り捨てて一般的な感覚に言い換えるとすれば、「子供の世界を捨てて大人の世界に入る」と言い換えられるのではないかと思う。

 詳しい人からすると「いや、そういう単純な話じゃないよ」と言われるのかもしれない。し、実際にそんな単純な話じゃないのかもしれない。

 だとしても、そのように単純で普遍的な「成熟神話」の一種として受け入れられたからこそ、『成熟と喪失』は強い影響力を持ったんじゃないか。

 どこの文化にもある、子供から大人への成熟段階。それが失われていったようにみえた戦後日本において、「日本固有の物語」を立ち上げようとしたからこそ『成熟と喪失』は広く受け入れられた、と見ることもできるだろう。

 敗戦と近代化によって齎された「父」の崩壊と「母」の喪失、という部分までの江藤淳の議論には妥当性を感じる。それが日本固有の事態だったかどうかには疑問が残るけれども。

 しかし「どうすれば成熟が可能か」という段になって突然、江藤淳は「治者」という概念を持ち出す。治める者、つまり人の上に立って誰かを守るものとしてふるまえ、という。自分にはそれは単に「大人になれ」と言っているのと同じ見える。

 福田和也によれば戦後日本は「誰もが「治者」への尊敬と服従を欠いたまま「被治者」の自由と安楽を享受する」事態になり、やがて「被治者」を守るものがない「新事態」に直面することとなったという。


 「子供の世界」を失えば自動的に「大人」になれるという「成熟神話」は、考えてみれば「家から追い出せばひきこもりは治る」という議論にも似ている。しかしそれは間違いであるばかりでなく時に有害だ。精神科医の斎藤環は「引きこもりを治すために必要なのは欲望を持つことだ」とさまざまな著作で書いており、ひきこもりを無理矢理家から出そうとするいわゆる「引き出し屋」を一貫して批判している。

 現代における成熟の困難は、どこに「大人の世界」があるのか、そもそも「大人」とは何なのかが誰にもわからなくなったことにあるのではないか。欲望を持つことの困難さも根は同じかもしれない。

 人々が成熟を拒否するようになった、という見方は疑わしい。そもそもかつて人々が「ようし、これから大人になるゾ!」と高い意識を持って大人になっていた時代があったとは考えられない。むしろいつの世も人は「大人にならざるを得なかった」と考える方が自然だ。

 なんだったら自分のような平成育ちの人間よりも、先行き不安な現代の若者のほうが「成長」には飢えている印象はある。「大人」になろうとしているかどうかはちょっとわからないが。

 かつての成熟の本質は、「子供の世界」から「大人の世界」への移行そのものではなく、喪失した「子供の世界」を追い求めないこと、にあったのかもしれない。重要なのは「追い求めない」ことの方にある。

 だとしたら、「大人の世界」と「子供の世界」の区別が失効してしまった現代においては、失効した区別を「追い求めない」ことこそが成熟なのではないか。

 「子供の世界(とされたもの)」を諦めないこと、「ゴジラ」「ウルトラマン」「仮面ライダー」のような、かつては子供のものとされた、実は豊かな物語を持ったものを未来に継承すること。それが喪失なき成熟、すなわち「成熟の喪失」を目指すためのひとつのやり方なのではないか。

 というのが本書を読んで自分が思い浮かべた「成熟論」だった。




 以下、成熟などに関連して思い浮かんだ、いろいろな作品についての雑多なことを書き並べる。


 著者はあとがきにて、「エヴァ」を「さまざまな意味での、あらゆる意味での「生きづらさ」の象徴のごときもの」と捉えたうえで、

いわば私は「EVAに乗ったまま」の幸せの追求を、相変わらず「エヴァがいる世界」で生きていくことを肯定する術を書いてみたかったのかもしれない。

 と書く。

 エヴァファンにとってのエヴァに近いものは、おそらく自分にとっては漫画『さよなら絶望先生』だった。

 自分の身近にある「生きづらさ」を表象してくれた漫画だった。

 だからその後、同じ作者が「子を育てる話」である『かくしごと』を描いたとき、もう「自分のための漫画」じゃなくなったんだな、と感じた。ずっと先まで行ってしまったんだなと。

 もちろん表現者は受け手を引っ張るために表現してるわけじゃない。いかなるときも受け手は勝手に「ついてきている」だけだ。置いて行かれたことにとやかく言っても仕方がない。それはそういうものとして受け入れるのが筋だろう。

 エヴァも終わった。それは庵野秀明にとって「生きづらさ」が目の前にあるテーマでは無くなったからかもしれない。

 もちろんエヴァが完結したからといってこの世から生きづらさが消えるわけではない。その時代にはその時代の生きづらさを描いた作品が生まれるだろう。


 失ったものを(困難を乗り越えて)取り戻す、というのはよくある物語の類型だ。それがただ単に奪われたりどこかへ行ってしまっただけであれば、取り戻すことができる。

 それに対してエヴァは「完全にこの世から消失してしまったものを取り戻す」という本来不可能なことを描いた物語だった。ゲンドウは亡き妻ユイを取り戻そうとした。

 失ったものを取り戻そうとする者が罰を受ける、というのもまたそれなりに見られる物語形式だ。黄泉の国からイザナミを連れ戻そうとしたイザナギのように。

 そのような物語として最初に思い浮かぶのがフィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』。かつて愛したものを取り戻そうとする男ジェイ・ギャツビーが美しく滅び去る話。

 江藤淳が60年代にプリンストンに渡米したのはフィッツジェラルドを研究するという目的もあったそうだが、フィッツジェラルドは『成熟と喪失』にどのような影響を与えたのだろうか。「喪失によって成熟する」という議論はギャツビー的なもの相反するように感じるのだけれど。


 90年代に同じプリンストンへ渡った村上春樹は、大学で日本文学の講義を行う上で『成熟と喪失』をサブテキストとして用いたという。その講義内容をまとめたのが『若い読者のための短編小説案内』。

 村上春樹が公に江藤淳について語ったり書いたりしたことは、自分の知る限りでは無い。批評や評論といったものを一貫して遠ざけ続けてきた彼のことなので不自然ではないけれど、江藤淳の成熟論に対して何かしら思うことがあったのは間違いないだろう。

 特に初期の村上春樹作品には強い喪失感が漂っている。父は不在であり、母(女)は去り、成熟は描かれない。そのような特徴を持つからこそエヴァを始めとするセカイ系の端緒とされたわけだが、そう考えると村上春樹作品と『成熟と喪失』を並べて論じた議論があってしかるべきに思えてくる。なお江藤淳は村上龍を強く批判したが、村上春樹については「そもそも読んでいない」という態度だったらしい(https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/17498/files/38986)。

 村上春樹の小説にはどこか男性を主体、女性を客体として扱っているようなところがあり、その点で『成熟と喪失』と同じ問題を有しているように思われる。最新短編『夏帆』(「新潮」2024年6月号)においてルッキズムに傷つく女性を描いたのは、かつて対談の中で川上未映子から女性の扱いについて問いを投げかけられたことに対するアンサーだと感じられるのは自分だけだろうか。

 よく考えれば以前、『アメリカ 村上春樹と江藤淳の帰還』という坪内祐三が書いた本を読んだことがあった。あれは両名とアメリカとの関係性を書いたもので、成熟論や作品論ではなかったと記憶している。手元にないけどもう一回読んでおきたい。

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 少し調べたら『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか』という本に、村上春樹と江藤淳の関係を考えるうえでのヒントがありそうなので、次はそれを読んでみたいと思う。



 エヴァがパラノ的だとして、じゃあ逆にパラノ的でない作品はなんだろう、と考えて最初に思い浮かんだのがなぜか『グラップラー刃牙』だった。

 男たちが強さを求めて(主に)格闘によって戦う漫画であり、強さを偏執的に追い求めているという解釈も可能だろうが、彼らが強さを求めるのは決して「生き残るため」ではないし、「金を儲けるため」ですらない。
言ってみれば「己が一番強い」と証明するため、自己実現のためである。ゆえに彼らの戦いはどこまで行っても享楽的だ。生きるか死ぬかの戦場をくぐり抜けたハズの(SF技術とオカルトで現代に蘇った)宮本武蔵でさえ、強敵を前に「地平線まで続く馳走」をイメージする。

 主人公の範馬刃牙に至っては「父親に勝てるのであれば自分が世界で二番目に弱い人間であっても構わない」という旨のセリフまで言う。

 だから刃牙シリーズは何の苦も無く自分の中に入ってくるのかもしれない。

 試しに「逃げちゃダメだ」というセリフが出てこない貞本義行による漫画版のエヴァ1巻を読んでみたら、比較的苦痛を感じずに読むことができた。


 「喪失」を回避した物語として思い浮かぶのが『ドラゴンクエスト11』で、あれはエヴァでたとえるなら「ユイが復活してシンジとゲンドウと協力して使徒をぶっ飛ばし、シンジは(エヴァにはいない)幼馴染と結婚、アスカやレイともいい関係をキープする」みたいな結末で、ゲームとしては最高の出来だったがあの結末だけは納得がいっていない。

 そんなに簡単に喪失を回復できてしまっては喪失のストーリーテリング的な重さが無くなってしまう。マルチバースで「なんでもあり」になってしまったマーベル映画のように。映画『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』が、完成された原作を「ゲームなんてやってないで大人になれ」というメッセージおよびその打倒の物語に書き換えるという「原作改変」をして炎上した安直さとも、問題の根は近いところにあると感じる。というのはほとんど愚痴。


 『シン・仮面ライダー』のような「継承」を描いた物語というと、『ジョジョの奇妙な冒険』や『メタルギアソリッド』が思い浮かぶ。特に後者の2作目『サンズ・オブ・リバティ』は「GENE(遺伝子)だけでなくMEME(ミーム)を受け継ぐ」というテーマを2000年代初頭にTVゲームで描いた画期的な作品だ。その後「ミーム」という言葉は「ネットミーム」みたいな使われ方がされるうちに、「受け継ぐもの」というより「拡散するもの」へと意味が変わってしまった感がある。

 「継承」はもちろん庵野秀明の専売特許ではない。しかし「日本的成熟」にとことん向き合ったかに見える庵野秀明が「継承」を描くに至ったことに重要な意味がある、のだろうか。

一億三千万人のための『歎異抄』 / 高橋源一郎

 鎌倉時代頃に活動し浄土真宗の開祖となった親鸞。その親鸞の言葉を伝えるべく弟子の唯円によって書かれたのが『歎異抄』。親鸞の説とは「異なる」説が世に出回っていることを「歎いて(なげいて)」書かれたから歎異抄というらしい。

 そしてその歎異抄を小説家の高橋源一郎が現代語訳したものが本書。どう呼ぶのが適切かわからないので、とりあえずこの記事では高橋源一郎を著者と呼ぶことにする。

 つまりこの本は仏教の本でなのだけれど、以下は特に仏教にくわしいわけでもなく、仏壇に手を合わせたり、お葬式で焼香をあげるくらいの仏教的行為しかしたことがない人が書いていることなので、間違いがあってもあまり責め立てないでいただけると幸い。


 著者は歎異抄を現代語訳するにあたって、親鸞を「シンラン」、極楽浄土を「ゴクラクジョウド」など、一部の用語をカタカナに開いて書いている。

 日本人はカタカナ語を「なんだか新しいもの」として捉える傾向があり、それはアメリカやヨーロッパの言葉を積極的に取り入れてきた歴史があるからだと思われる。

 ゆえに本書では、それらのカタカナで書かれた言葉が新鮮なものとして響く。文章もとても平易で読みやすい。小学校高学年くらいをターゲットにしている印象。

 この記事もそれに習ってカタカナを使って書いてみたい。モノマネしているみたいで不快になる方がいたら申し訳ない。

 歎異抄はお経、つまり仏様に捧げる呪文みたいなものではなく、ユイエン(唯円)が書いた「お話」みたいなもので(と、本書で知った)、こう言って許されるのかはわからないけれど「仏教にまつわるエッセイ」みたいなものと言ってもそれほど遠くないんじゃないかと思う。

 それも現代人にとって読みやすい理由だろう。もちろん仏教の真髄みたいな話は、わかるとかわからないとかの話ではないだろうけれども、シンランによる「語り」の形式をとっているおかげで頭にスッと入って来てくれる。

 しかしシンランが繰り出すロジックは、かなり入り組んでいる。あえて普通のことと逆のことを言って、読む人を揺さぶってくるようなところがある。


 著者によると歎異抄は、ある時期の若者にとって「読んでみるべきアイテム」の一つだったという。著者にとっては多くの「アイテム」の中の一つに過ぎなかったそうだが、ともかく宗教的な文脈抜きに多くの若者が歎異抄を読んでいた。

 その理由は自分にもなんとなくわかるような気がする。わかったつもりの可能性は大いにあるが、勝手につもりになっても誰にも迷惑はかけないのでいいだろう。

 確かに歎異抄には仏教用語が頻出する。ネンブツ(念仏)やジョウド(浄土)やアミダ(阿弥陀)といった話をされても「科学知識が無い昔の人が考えたことでしょ?」と思ってしまっても無理はない。「カラーテレビ以降」の自分がそうなのだから、まして「スマホ以降」のZ世代が、自分に関係のある話として捉えるのが難しくてもムリはない。

 でも本書の現代語訳を読めば読むほど、なんだか現実に生きている人間の話をしているように聞こえてくる。

 自分は今まで、ゴクラクジョウド(極楽浄土)を「死んだ人が行く別の世界」みたいなものとしてイメージしていた。昨今流行りの「異世界転生」みたいに。

 アミダブツ(阿弥陀仏)は「人間を救うスーパーパワーを持った神話の神様」みたいなものだと思っていた。

 でも本書を読みながら、それらを別のものとしてイメージしたいような欲求にかられた。

 いや、歎異抄や本書の著者がそれらを別のイメージで描いているわけではない。全然、ない。ただ本書の親しみやすい現代語訳に触れるほどに「全部生きている人の話なんじゃないか」と自分が勝手に思ってしまっただけで。

 例えば、ジョウドは「苦しみのない境地」であり、アミダとは「人間にとっての救いそのもの」なんじゃないか。

 だとすると、例えば浄土真宗の「他力本願」の考え方は「自力で救われたいと考えている人には救いは訪れない」という風にも読める。

 そういう風に現実のアナロジー(例え話)として仏教を読むことは、罰当たりなことだったりするんだろうか。


 歎異抄を現代語訳した著者は、そこに文学との接近点を見出したという。

 シンランの師のホウネン(法然)は、「ただネンブツを唱えればジョウドにゆける」と説いたことで異端とされ、朝廷に僧侶の身分を奪われた。

 当時の仏教の主流派は「いくら念仏を唱えても、菩提心(悟りを得たいという心)が無ければ意味がない」とホウネンを批判した。

 それはより広い言い方をすれば「人は言葉ではどうとでも言える。大事なのは心だ」という考え方であり、ごく一般的で穏当な考え方かもしれない。

 しかし文学というものに触れるほど「心が大事」という考え方は疑わしくなる。心が言葉を生むのか、言葉が心を生むのか、どちらが正しいのかは全然明らかではない。ホウネンはそんな言葉の性質に気づいていたのかもしれない。

 自分のような一般ブログ書きでも、体感としては「書きたいと思ったことを書く」よりも、「書いているうちに書きたいことが出てくる」ことのほうが、量としては多いと感じている。


 ホウネンと同じく僧侶の身分を奪われたシンランは、非僧非俗を自認した。自分は僧侶でも、俗人(一般の人)でもない身分だ、と。

 例えば太宰治の小説に対して多くの人が「自分のために書いている」と感じるのは、それが「ただひとりの人間」から発せられた言葉だからだ。所属だとか身分だとかとは関係のない、ひとりの人間としての言葉だからこそ「ただひとりの読者」に届く。

 シンランも非僧非俗という「ただひとりの人間」として生きることを選んだ。歎異抄には「アミダは『おれひとりのために』救いの誓いを立てたと感じる」というシンランの言葉が出てくる。

 歎異抄が説く「ショウミョウネンブツ(称名念仏、念仏を唱えるだけで浄土に行けるという考え)も、有名な「アクニンショウキ(悪人正機、善人が救われるのだから悪人が救われないわけがないという考え)」も、世間一般の考え方とは逆かもしれない。

 でもそれは単に世間と逆のことを言っているだけではない。それを言うだけの論理がちゃんとある。そのような少数派の言葉に耳を傾けることも文学の役割というか、効果のひとつだろう。

 著者はたびたび「自分にはなんでも文学に見えてしまう」ということを書いている。それを読んだ自分もいつも「確かに文学だなぁ」と思ってしまう。今回もそのように思った。


 ところで、一切を何かに任せる、という考えについて、どう考えるべきだろう。

 正直に言って、なにかキケンなことを言っているようにも見えてしまう。

 人が誰かに騙されるのは、往々にして自分を他人に「おまかせ」した結果だったりする。

 人には自分のことを自分で決めたいという欲望がある。と同時に、全部を他人に任せてラクになりたい、という欲望も持っている。騙す人は後者の欲望につけこむ。

 神様のように、この世ならざるものに自分を「おまかせ」しているうちはまだ大丈夫なのかもしれない。どんなに偉大とされる人でも、人間には欲望がある。この世ならざるものには欲望がない。

 でも、うっかり邪神をまつった人たちが大変なことになる、みたいな話も聞く。この世のものでなければなんでもオーケーというわけでもないらしい。

 考えてみれば、というか考えるまでもなく、自分をなにかに「おまかせ」するのは常にキケンと背中合わせだ。

 でも何かに身を任せるのは生きる上で必要なことでもある。そもそも生きること自体が、この世に身を任せている状態とも言えるわけで。

 結局、何に身を任せるべきかは自分で決めなきゃいけない。自分自身に聞いてみるしかない。それは苦しいことかもしれない。でも、うまく身を任せるだけでいい、と考えれば少しは楽になるかもしれない。

 さらに考えてみれば、というかここまで書いて今さら考えるのはだいぶ遅い気がするけれど、自分にとって文章を書くことは、言葉に身を任せることなのかもしれない。ただ生きているだけだと自分の中にあるだけの愚かさとか間抜けさを言葉にすることに、なにかしらの救いみたいなものを感じているのかもしれない。

読んでいない本について堂々と語る方法 / ピエール・バイヤール

 千葉雅也『現代思想入門』で紹介されていたので手に取った本。
rhbiyori.hatenablog.jp

 読んでいるうちに思い出したが読書コメディマンガ『バーナード嬢曰く。』第3巻でも本書がネタになっていた。


 フランスの精神分析家ピエール・バイヤールによる著作。いかにもハウツー本や自己啓発本めいた新書みたいなタイトルだが、内容は挑戦的な文芸評論といった趣。

 しかし果たして自分はこの本に対してどんなことを「語る」べきなのか、大いに迷っている。今の心境を言うなら五里霧中。全てを投げ出し、この本のことを忘れてガリガリ君パイン味でも食べてのんびりエアコンの風に当たっていたい気分ではある。

 でもせっかく読んだ本の感想を書かないのはやはりもったいない。というか最近の自分はもう「感想を書く」という楽しみを味わうために本を読んでいるに近い状況になりつつある。楽しみを比率にすれば読書3・感想7くらい。

 なのでなんとか今のこの当惑を書き記してみたいと思う。


 まず、本書の読者はみな等しく「本を『読んでいない』ことを推奨する本を真面目に読んでいる自分はいったいなんなのだろう?」というパラドキシカルな状況に置かれることになる。訳者あとがきでこのパラドックスに言及されていて、なんだかちょっとホッとした。

 しかし本書のヘンなトコロはそのパラドックスだけにとどまらない。

 もし本書がハウツー本の類だったとしたら「本はなるべく全部読んだほうがいいし、なるべく内容は覚えていたほうがいいに決まっている。しかしそれは人間の能力を超えているので、なんとか誤魔化す方法を考えよう。」みたいな方向になるのではないかと思う。

 しかし本書はそんな中間的な結論には至らない。場合によっては本は読まないほうがいいし、時に読むことが語ることの妨げにすらなりうるし、本を読まずに語る行為はむしろ創造的だ、とまで言い切ってしまうのである。そう言われても自分としても「そうなの…?」と思ってしまう。

 はたして著者はどこまでマジでそんなこと言っているのか。本書の持つ「メッセージ」をどこまでマジに受け取るべきなのか。それがわからない。

 そのメッセージを額面通りマジに受け取るのではなく、なんらかのメタメッセージを内包していると取るべきなのだろうか。

 おそらくメタメッセージの内容は「読まずに本を語る人に対する皮肉・あてこすり」みたいな、誰でも思いつくような陳腐なメッセージではないと思う。多分。なぜならそんなことを言うために本を一冊書くのはワリに合わないから。

 じゃあ本当は何を言おうとしているのか? と考えてみると、やはりよくわからない。おそらく著者は読者を「煙に巻こう」としているのだろう、ということがかろうじてわかるのみで。

 もしかすると、その結論自体には現実的にはあまり意味は無く、その結論に至る過程において「読書」および「本について語ること」にまつわる状況を詳らかにすることが本書の目的なのかもしれない。


 以上が、自分が本書について語る上で感じている当惑の大筋である。ご理解いただけただろうか。自分でもあまり理解できていない。

 本書の大胆すぎる結論はひとまず置いておくとして、その結論に至るまでの、「読書」および「本について語ること」にまつわる状況とはどんなものかを、自分なりに解説してみたい。

 著者は本書の中で、本を読む人や読んだ本の感想を語ろう(書こう)とする人が直面する状況を、様々な実例を挙げながら評していく。映画『恋はデジャ・ブ』、バルザック『幻滅』、漱石の『猫』など。

 そこで浮かび上がるのは、本を読むことは常に不完全な行為であり、ゆえに読んだ本について語ることはさらに不完全な行為にならざるを得ない、という身も蓋もない事実だ。

 人は全然読んだことがない本を、本以外の情報から判断して当たり前のように評価している。

 あるいは人は本を流し読みする。というか本の内容を一字一句余さず覚えたり解釈したりすることが不可能である以上、あらゆる読書は程度の差こそあれ流し読みに等しいのかもしれない。

 人は読んだ本のことを読んだ瞬間から忘れていく。あまつさえ著者ですら自分の書いた本の内容を忘れ、同じことを書いてやしないか、と不安を抱いたりする。

 かように不完全な読書という行為だが、では読んだ本について「語る」ことがはたして可能なのか? しかも本を読まずに?

 というと、実はそれは全く問題なく可能である。むしろ不完全だからこそ可能だ、と言ったほうが正しい(と、本書は説く)。

 人は本を読んだ後、その本の断片的な内容を集めて「自分にとっての本」を作る。

 本を読む人は、「自分にとっての本」が断片的であることをわかっているので、たとえ自分の「自分にとっての本」と他人の「自分にとっての本」の内容が食い違っていても、「その人はこの本をそういう風に読んだんだな」とか「別の本と勘違いしているのかもしれない」と好意的に解釈するだけで、重大な矛盾が露呈することは無い。

 むしろある人に対して「本当にその本を読んだの?」と聞くことは重大なタブーとされている。なぜなら本を読む人は読書が不完全な行為だとわかりきっているし、たとえそんな意図が無くてもその質問は「全然本の内容理解してなんじゃないの?」と問うているのにほとんど等しいからだ。

 だから読まずに語る行為によって問題が引き起こされることはない。むしろ堂々と語るべきである。と、著者は力説する。

 もちろん本について語ったコメントによって、その人が本を読んでいないことがバレてしまう場合もある。著者も「序」の中で「学者の同僚がプルーストを本当に読んでいるかどうかは判断できる」と書いている。

 しかし少なくとも学者たちは、自分たちが「読んでいない本について語る」という行為を常々行っていることを理解しているため、わざわざそのことにツッコんだりしない。むしろそのような行為は共同体の共通認識を破壊する行為であるため暗黙裡に厳に慎むべしとされている、らしい。


 本書では更に「内なる書物」や「ヴァーチャルな図書館」と言った用語も用いて、さらに詳説に、読書および本について語る行為についての解析が繰り広げられる。その内容自体は基本的にこの上なく正しい、と自分は思う。

 しかし本書を読んで「よし、明日から読んでいない本について堂々と語ろう!」と考える人はいるだろうか。あまりいないのではないかと思う。少なくとも自分はそうは考えなかった。

 いや、そう考える人は案外結構いるのかも? 読書家って結構お人好しの人も多そうだから。

 自分がそう考えなかった理由は、「いや、そうは言っても本は読んだほうがいいでしょ、楽しいし」と思ったからであり、かつ「で、本当に読んでいない本について語ることって可能なの?」という部分に疑問が残ったからで、だから上に書いたように、著者がどこまでマジでそれを言っているのかがわからなくなってしまったのである。

 出版後、本書は世界中で話題になったらしいが、本書をきっかけに「本を読まずに語るブーム」が到来したという気配はない。いや、もしかすると事態は水面下で進行していたのかもしれないけれども。

 それでも本書が広く受け入れられたのは、読書の不完全さと本について語ることの困難を、これでもかと明確に描き出してくれたからだろう。おそらく世界中の読書家が「よくぞ言ってくれた!」と快哉を叫んだんじゃなかろうか。


 本書において、読書は重大で高尚な行為であり、著名な本を読んでいないことは恥ずべきことされている。ただ自分はそういう環境に身を置いたことがないので、想像はできるが我がこととして考えるのはなかなか難しい。

 本書が刊行された2007年から現在にいたり、ますますインターネットが普及し情報流通が加速した結果、ある本を読んでいなことが恥ずかしいとみなされることはより少なくなっていると感じる。

 著者のような文学を扱う書き手が「ハムレット」を読んでいない、というわけにはいかないかもしれないが、大多数の人々にとっては、活字の古典を読むよりむしろ最新のポップスを聴いたりマンガを読む人のほうが「わかっている」とみなされやすいんじゃないか、と自分はニランでいる。

 もし日本の小説家がある古典名作を読んでいないとして、それが恥とみなされる可能性は低いし、例えばライトノベル作家が「夏目漱石は教科書以外読んだことがありません」と言っても誰も何も問題視しなくなっている。自分も何の問題ないと思う。心の底から。

 最近、ガルシア・マルケス『百年の孤独』(昔、数ページ読んだが同じ名前の人物が連続で出てくるのに混乱して挫折してしまった)が文庫化されて売れているらしく、それは「今から百年の孤独を読むこと=これまで百年の孤独を読んでいなかったことはなんら恥ずかしいことではない」と多くの人が考えている証拠になるかもしれない。

 良くも悪くも周りに流されやすい日本人ではあるが、「みんなで一緒に名著を読もう!」みたいな風潮が生まれうるのだとしたら、それはそれでいいことだろう。

 あるいはどこかの読書コミュニティでは既に「百年の孤独、読んだか読んでないか」でマウント合戦が行われているかもしれず、そこで本書の「読んでいない本について語る」ノウハウが役立つかも。

 そう考えると、本書における「読書」には、「そのコミュニティで鑑賞していて当然とされる何か」を代入可能なのかもしれない。音楽だとかアニメだとかYouTubeだとか。だとしたらたとえ読書の権威が全く無くなったとしても、本書の議論が有効性を失うことは無いのかもしれないが、はたしてどうだろう。


 本書の議論を踏まえると、世に多くいる「本を読むのが苦手」と公言する人の多くは、本を読む行為そのもの以上に、本書が描き出したような本を読むことの不完全さを苦手としているんじゃあないか、という気がしてくる。

 本を読んでもよくわからない。すぐに忘れてしまう。なのに「あの本を読んだ」と言ったら感想を求められるかもしれない。怖い。だから本は読まない。というようなメカニズムで。

 もしそのような機序で読書を避けている人がいるとしたら、その人は勘違いしている。

 別に本を読む人は、必ずしも読書の不完全さを乗り越えているわけではない。より完全な読書に必要な才能を持っていたり、努力によって不完全さを補ったりしているわけではない。そういう人もいるかも知れないが、だとしても結局のところ完全な読書というものはあり得ない。

 本を読む人は、ただ読書の不完全さを甘んじて受け入れているに過ぎない。次の本を読んだら、もう前の本の内容はだいたい忘れちゃってるけど、それでいいじゃん、と。

 自分が本の感想を書けているのも、本を読み終わった直後のホットな状態をなるべくそのまま書き写そうとしているからであって、一ヶ月、いや一週間前に読んだ本の感想でさえ、もし書こうとしたら、残った僅かな記憶を頼りに書くことになり、それはもう感想というより「印象」に近いものになるだろう。

 読書のコツは、読んでいるその瞬間を楽しみ、それ以外のことはなるべく深く考えないようにすること、なのかもしれない。


 本書は、読書の不完全さと本について語る困難さを明確に描き出した、いわば「読書あるある」として極めて優れた本であって、「読んでいない本について語る」という行為に興味が無い人であっても十分に読む価値がある。

 「読んでいない本について語ること」を推奨する、という本書の表面的な結論に関しては、正直言ってよくわからないので、自分で読んで判断していただきたい。

 やっぱり読んだことがない本は「読んだことがない」と言ったほうがいいし、わからないことは「わからない」と言ったほうがいいと思うけれど、そんな風に開き直れるのは今のところ自分になんの責任も無いからなのかもしれない。