rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

今夜、すべてのバーで/中島らも

今夜、すベてのバーで (講談社文庫)

今夜、すベてのバーで (講談社文庫)


 中島らもというと、ヤク中でアル中で階段から落ちて死んだ作家、というようなパブリックイメージがある。
 はたして、その人物像と作品の間にはいかなる因果が存在するのだろうか。
 この作品は、中島らもの自伝的小説であり、主人公・小島容にとって「俺のすべての女。おれの無の女。」であるさやかと、古びたバーで、グラスミルクを乾杯して幕を閉じる。それは、主人公がアルコールを乗り越えた描写であると解釈してよいだろう。
 しかし、当の本人は、酒によって階段から落ちて死んだ。作品と作者を同一視することが必ずしも良い読みであるとは限らないものの、中島らもに関しては、どうしても作者と作品がオーバーラップしてしまう。
 ともあれ、豊富な引用と作者の実体験を元にしたと思われる、アルコール中毒にまつわる安易な感情論・責任論を廃して、中毒者の実態に肉薄せんとする試みである。
 そして、それが単なるドキュメンタリーに留まらないのは、一つには作者得意のユーモア・鋭い人間観察が可能にするエンターテイメント性である。
 もう一つにはウィリアム・バロウズを敬愛する作者の、アルコール・ドラッグ解放論の主張がある。
 作中、容は「人は皆何かに依存(アディクト)しなければ生きられない」と述べている。また、ラストではさやかに対して「きみがおれのアルコールだ」と口説く。端的に言えば「ドラッグもひとつの生き方だ」というものだ。その上で、容はアルコールを乗り越える。さやかへの愛のために。
 特筆すべきは、作者が客観的事実と個人的経験・主張を厳格に分けて書いているという点だろう。その禁欲さが作者の誠実さを示しており、作品を小説として上質なものとしている。
 個人的には、三十五歳で死ぬだろうと考えていた主人公が、クォンタムファミリーズの「三十五歳問題」とオーバーラップした。果たして三十五歳は破滅の終着点か、人生の折り返し地点か。そういえば三十五歳成人論なんてのもあった気がする。