rhの読書録

読んだ本の感想など

博士の奇妙な成熟/斎藤環

博士の奇妙な成熟 サブカルチャーと社会精神病理

博士の奇妙な成熟 サブカルチャーと社会精神病理


 博士奇妙シリーズの第二弾(?)今回も様々な「サブカルチャーと社会精神病理」についての批評をまとめたもの。

 最も興味深いのは、非実在青少年問題と関連が深い『メディアとペドフィリア』の章。以下、主に自分の為にまとめてみようと思う。

 まず著者は、日本のおたく文化におけるいわゆる「ロリコン」とペドフィリアの違いについて述べている。この文が、斎藤センセイの主張を端的に示してるんじゃないだろうか。

 ペドフィリアは実際に小児との性行為を行ってしまうような「本物」の欲望を指している。しかし「ロリコン」は、あくまでも漫画、アニメ、ゲームなどにおける幼女への嗜好の謂であり、実際の行為は伴わないものを指すことが多い。そうした点では「ロリコン」とは、仮想的な美少女への欲望を指す言葉と考えることもできる。

 日本におけるロリコン文化受容の黎明期を語る上で、79年の吾妻ひでおらの活動がまずあげられる。大雑把に言えば、今まで劇画主体だったポルノ漫画に、少女漫画的絵柄を持ち込んだのが吾妻らの同人活動だった。このへんの話は下の本などに詳しい。たしか詳しかった気がする。

教養としての〈まんが・アニメ〉 講談社現代新書

教養としての〈まんが・アニメ〉 講談社現代新書

 ただし、初期においてその手法はあくまでお遊び、パロディの類、すなわちメタ的な身振りであった点、また、当の少女漫画においてはそれより早く「やおい」的表現がなされていた点を、著者は指摘している。

 そして80年代以降、『パロディ的否出自は希薄になり、性愛モチーフが突出しはじめ』た。宮台真司らがこの経緯について整理した内容を、またまた大雑把に言えば、「初めは自虐的だったロリコンオタクたちが、現実逃避に走った」らしい。

 80年代前半には「ロリコン・ブーム」と言えるような状況だったが、そこには棲み分けがあったという。ロリコン漫画誌では不評により写真グラビアが中止になったりした。つまり二次元と三次元の棲み分け、ということか。しかし80年代後半にはバッシング・法規制によって自粛が進み下火になっていった。そりゃそうだ。

 この後著者は、倒錯についてのフロイト的解釈を紹介している。僕は象徴とか想像とかいう用語を正確に使いこなせないのでそのまま引用。

 小児性愛者においては、去勢が成立していると同時に、それが想像的なレベルで否認されている。その結果、性愛は、母の位置からの自己愛的な対象選択によって小児愛に結びつく。こうした構造は、果たしてロリコン文化の中にも見出しうるだろうか。

 そして話は「おたく」に移る。著者によるおたくの定義は、

 「虚構コンテクストに親和性が高」く、「虚構それ自体に性的対象を見い出す」という点に特徴がある。

 大塚英志は、近年の日本アニメ・マンガ・小説の特徴として「まんが・アニメ的リアリズム」を挙げている。このへんは東浩紀なんかも言ってることだろう。まんがやアニメが自律した虚構空間を形成しているというのだ。

 そしておたく達は、虚構空間において自らの性的嗜好を再構成している。現実と異なる性的嗜好を持つということが、「まんが・アニメ的リアリズム」によって可能になっているのだ。

 この指摘は極めて重要だと思う。これはデータでは無く実感だけど、ロリコン漫画愛好家とペドフィリアはあまり重なり合っていないのではないかと思う。で無ければ、実際の性犯罪に比して、漫画・アニメにおける「ロリコン」的表現があまりに多すぎることの説明がつかないのではないだろうか。

 また著者は、「虚構と現実の区別がつかない」と批判されるおたくが、虚構の虚構性に極めて敏感であると指摘している。どういうことか。

 「虚構と現実の区別がつかない」というのは、例えばサンタがいると思い込んでいる子供の状態を指す。しかしおたくの有り様はそれとは最も遠い。エヴァが庵野監督の作品であることを知っているからこそ、作品論や作家論をぶつけ合うことが出来るし、フィギュアを集めたり声優を愛好したりできるのだ。そのことを多重見当識と呼んでいたのは東浩紀だったっけ。

 著者は宮崎駿の名を挙げて、ロリコン文化の裾野の広さと犯罪抑止効果を示唆する。虚構というフレームの中で「ロリコン」であるということが、自らのセクシュアリティという「現実」に向きあうための方策・戦略であるという。

 ロリコン漫画でヌくことが、ロリコン・小児性愛について考える契機になる、と言ったら言い過ぎだろうか。ロリコン表現が巷に溢れる社会のほうがむしろ健全である、と言ったら陳腐だろうか。しかし僕にとっては、表現規制による犯罪抑止説よりも、そちらの方に説得力を感じる。

 ただ、ロリコン的表現に眉をひそめる人々に、「宮崎駿を見やがれ」と言ってもあまり説得力を持たないあたり、辛いなぁと思うけれど、まぁ僕が論陣を張る必要は無いわけで、その辺の戦略が必要なんじゃないの?と無責任に言うにとどめておこうと思う。

 その他、「おたくが精神障害に効く!(超訳)」と主張する『「おたく」であることの困難と希望』の章も興味深かった。あと、あとがきに「確定的に明らか」と書くあたりにも斎藤センセイの茶目っ気が見られてとてもいい。