- 作者: 上山和樹
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2001/12
- メディア: 単行本
- 購入: 9人 クリック: 399回
- この商品を含むブログ (68件) を見る
ひきこもり経験者からひきこもり問題に関する活動家になった著者による、自伝プラスひきこもり論。
ひきこもりとは関係性の病である、と、確か斎藤環も言っていたが、著者の意見もそれに通ずる。
家族とうまく関われない。学校とうまく関われない。社会とうまく関われない。孤立は恐怖を生む。恐怖は孤立を生む。その連鎖。
ひきこもりを知れば知るほど、「もっと広い視野を持てよ」と言いたくなるが、果たして現代の現実に「広い視野」など存在するのだろうか、とも思う。そんな時、哲学や思想や芸術は、きっと「別の視野」を用意してくれる。それは決して現実ではないけれど、現実との回路を開いてくれることもあるだろう。
あのときあんなことがなければ、と悔やむ。極めてありふれた心情である。ひきこもりはそんな「悔い」に捕らわれている。原因は「あんなこと」には無い。なぜなら、「あんなこと」を悔やまなければいけないような状況がひきこもりであるとも言えるからで、ありふれた心情に固着してしまうことそのものがひきこもりという不自由を産んでしまうのだ。
過去を悔やんで現在を棒に振る。町田康「告白」の主人公・熊太朗は過去の人殺しや親不孝を気に病んで中途半端なヤクザ道に堕ちていく。熊太朗はひきこもりではないが、その心性はひきこもりに極めて近いのではないかと思う。
類似点として、社会に対する恐怖、そしてお金に対する恐怖、というものが挙げられる。自分と全く異なる、自律した存在としての社会・お金。それらと関わっていくためには、やはり個人的な他者との関係性、特に性的な関係性が必要なのではないかと、著者は述べている。
コミュニケーションが極めて困難な現代。その表出の一つとしてのひきこもりは、社会に対する多大な示唆に富んでいる。ちょっと対岸からの物言いかもしれないが。