- 作者: 斎藤環
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2011/03/24
- メディア: 単行本
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「キャラとはなにか?」という問いを、精神科医・批評家の斎藤環が考察する。
ではそもそもその考察対象である「キャラ」とは何か。
と、そんなことをわざわざ問い直すまでもなく、現代日本社会はキャラ化の波を被っていると言える。
その顕著な例が学校の教室空間。生徒一人一人がそれぞれのキャラを演じている。キャラは決してカブってはならない。一番いいキャラを演じられるものはスクールカーストの上位にいられる。最底辺にいるのはキャラを演じるのが下手な生徒。
精神科医としての臨床経験から、精神病理であるDID(=多重人格)も「キャラ」的な病であると斎藤環は言う。
他にも、現代ではあらゆるものがキャラ化しうる。AKB48、枝野官房長官、初音ミク、エルシャダイ、まどかマギカ。これらが「物語」ではなく「キャラ」として消費されている、といえばわかりやすいだろうか。
では「キャラ」とは一体何なのかという問いに、斎藤環は「同一性のコンテクストを伝達するもの」であると書いている。ここらへんの話、理解は簡単だが納得するのがちょっと難しい。
例えば、マンガで一つのコマと次のコマに同じ人物が描かれているとする。その二つの人物が同一であるということ。それが同一性である。
つまりキャラは、アニメだろうと同人誌だろうとニコニコ動画だろうとPixivだろうと、それが同一のキャラであるということ、イーノックは「大丈夫だ、問題ない」と言っていればどこに行ってもイーノックであるということ、それがキャラの本質であるという。
「それって当たり前じゃん?」と僕なんかは思ってしまう。しかしそれも当たり前のことだと斎藤せんせいは言っている。
同一性は認識の前提である。A=Aが成り立たなければ認識し思考することは出来ない。昨日見た動画は、今日見た動画と同一であるという認識があるからこそ、我々は動画を楽しめる。
同一性と似た用語に、固有性という用語があるが、この二つは異なる。人間は固有だが、キャラは固有ではない。キャラは常に複製されうる。
最後に斎藤環はキャラと人間のあるべき姿、というか本来の関係性とでも言うべきか、そのようなことについて書いているが、そこはネタバレしないでおこう。
ここに書いたようなことは本書の内容のほんの一部に過ぎない。他にも斎藤環お得意の、東浩紀のデータベース論、大塚英志のまんが・アニメ的リアリズム、ラカンの精神分析や、村上隆を始めとするアートの分野まで、まさに縦横無尽に語っている。もはやお家芸の感すらある。
斎藤環やこれらのキーワードに興味がある人にはぜひオススメしたい一冊。
余談だが、この本の刊行に際してニコニコ生放送で行われた斎藤環×東浩紀の対談は、原発問題できりきり舞いの東浩紀を、まるで斎藤環がカウンセリングするような内容であった。それはそれで興味深い内容ではあったけれども。