- 作者: 太宰治
- 出版社/メーカー: 新潮社
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小説において比喩は様々な形で登場し、重要な役割を果たす。というか小説そのものが巨大な比喩装置であると言えるかもしれない。ものごとの「現実」を書きたいのであれば小説などという冗長な表現方法を取る必要はない。ノンフィクションで十分だ。
比喩には、例えば「象の鼻のように長い」というような叙述的な明喩や暗喩がある。一方で、小説のストーリーそのものが何かの比喩になっている場合もある。
村上春樹の「とんがり焼きの盛衰」という物語は典型的な比喩の物語だ。文学をとんがり焼きに喩えることで、閉鎖的な文壇の体質を批判している。
お伽草紙の中で太宰は、有名な童話「カチカチ山」を、現代風に言えばアレンジというかリメイクというか、とにかく太宰流にカチカチ山を書き直している。
太宰は「兎は若い処女の比喩に違いない!(意訳)」という着想を得て、兎に16歳処女の性質・性格を与え物語を紡いでいく。恐るべき妄想力である。太宰流に見れば、カチカチ山は(ギリシャ神話に登場するアルテミスという女神のように)残酷で若い娘に、37歳の醜男=狸が翻弄され、最後には殺される話だというわけだ。今風に言うと「超訳・カチカチ山」である。
このあたり、実生活で女性に振り回された太宰の経験がにじみ出ていて面白い。しかし、そのような自分のありようを露悪的にさらけ出した前期や後期の作品と比べて、自分のありようを様々な物語世界に託していった中期の作品との違いは興味深い。
人はPTSDになるような強いストレスにさらされると、現在や過去に対して「実際はこうだったけれど、もしかしたらこうなったかもしれない」と考えたり、未来に対して「ああなるかもしれないしこうなるかもしれない」と考えたりというように、想像力を働かせる力が弱くなるらしい。こういうのを専門用語で「可能世界が衰弱する」と呼ぶんだったと思う。
逆に考えれば、人はそのような可能世界(要はパラレルワールドのようなものだ)を構築することで、自己を正常に保っているのかもしれない。
というような考え方を僕が知ったのは東浩紀のクォンタム・ファミリーズを読んだからなんだけども。
- 作者: 東浩紀
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この考え方を太宰に用いると、露悪的だった前期・後期より、物語的な中期のほうがビョーキ度が低い、というとちょっと短絡的すぎるかもしれないがどうだろう。