- 作者: いしいしんじ
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2004/07/28
- メディア: 文庫
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物語を書く弟と、彼の姉。これは二人がいかに生き残るか、という物語である、と思う。
読み始めたときは「あれ、子ども向けなのかな?」という印象。姉の一人称で語られるため、文体が平たい。また、小説的というより、絵本的なリアリズムで書かれている。例えば、弟は喉に雹が当たったことが原因で、声を出すことができなくなる。正確に言うと、聞いた人が吐き気を催してしまうような声、というか本当に吐いてしまいかねない声しか出せなくなってしまう。もちろん、実際にそんな声は存在し得ない。つまりこの小説は一種のファンタジーなのである。
ファンタジーだからといって「正統な小説」ではないかというと全然そんなことはない。むしろ真正面から小説をやっている。なぜならこの小説には、「物語」というテーマに向き合い、問いかけ、何かしらの答え、というかスタンスのようなものを見つけ出そうという、作者の確かな意図が感じられるからだ。
この作品というファンタジー的な物語の中に、弟が書いた作中作という形で様々な物語が紹介される。作中作単体でも「イイ話」が結構ある。
作中作の中には作者のいしいしんじが、実際に幼い頃に書いた物語が含まれているという。そう聞くと、やっぱり才能なのかなぁと思ってしまうが、小説家の中には子供の頃あまり本を読まなかったという人もいないわけではないので、一概には言い切れないところ。
作品の話に戻ろう。
分析的な読み方をすると、弟は動物の声を聞くことができ、それを物語として書く。僕が連想してしまうのは、村上春樹の『1Q84』に登場する「ふかえり」である。彼女は「リトルピープル」の声を聞き、それを「空気さなぎ」という物語として書いた。
さらに、ネタバレになるが、弟は最終的に外国の街で姿を消してしまう。このあたりの 展開も村上春樹的だと言える。
もちろん僕はどっちがどっちをパクったとかいう下らない話をしたいわけではない。共通する要素があるということは、この二人の作者がある部分で同じ方向を向いているからなのだろう。
小説の凋落が叫ばれて久しいけれど、昔も今も人々が「物語」というものを必要としていることに代わりはない。だからこそ、神話があり、ワイドショーが成り立つのだ。
この作品の弟や、1Q84のふかえりは、物語を語る存在だ。そして、
物語を語る存在は、なぜか古来からちょっとイッちゃってる奴である割合が高い。イタコのように霊的だったり、巫女のように宗教的だったり(正確には巫女は神の言葉を聞くことが役割で、語るわけじゃないけど)、ワイドショーで取り上げられるお騒がせタレントのようにむやみに反社会的だったり。
イッちゃってるというのは、つまり我々が住んでいる世界とは別の世界に行ってしまっているということで、実際に行ってしまっては我々とコミュニケーションが不可能になってしまうので、彼らは別世界との境界上に居るわけだ。だからこの作品のラストで弟が消えてしまったのは、別の世界、に行ってしまったということに他ならない。
というような解釈はあくまで僕の解釈であって、しかもどこかで聞きかじったことの換骨奪胎であるような気がしなくはないんだけど、それほど遠くはないと思う。
この小説の美点は、語り手である弟と、その聞き手である姉が、物語の力を借りつつ、冒頭に書いたとおり重大な困難を潜り抜けて生き残る様を、きちんとと正面から描ききったところにある。その点は自信を持って言える。
あと、あまりこの本とは関係ないんだけど、今しがた読んだ文芸誌の中で「物語と小説の違いは、小説は言葉を用いて新たな効果を生み出そうという企みである」というようなことが書いてあって思わず首肯した。
もしもこの小説が、作中作の物語を並べただけの小説だったら、ただの物語で終っていただろうけれど、そこに姉妹の物語を導入したことで、多重性が生まれて良い小説になったのかもしれない、というようなことを考えた。