- 作者: 高橋源一郎
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2006/06/03
- メディア: 文庫
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なかなか難しい小説だ。出てくる単語や言い回しは極めて平易なのだが、「オチの無い話をえんえんと聞かされている」みたいな感じがずっと続くので、一章読むごとに若干の疲労を感じ休憩、しばらくしたらまた読み始める、という具合に、読み終えるのに一週間程かかった。
こんなことを言うとものすごくエラソーだが、文章そのものの出来はすごくいい。さすが日本語大好きおじさん・高橋源一郎だ。書き足りないことも書きすぎていることも無いという印象を受ける。
どうしてこのような作品が出来上がったのかな?と考えてみる。これは寓話なんじゃないかな、と考えた。「うさぎとかめ」で言うところのうさぎやかめ、「酸っぱいブドウ」で言うところのきつねの役割を、日本野球に担わせたかったのではないか。
日本野球の中には、とても豊かなことばの世界がある。ちょっと引用してみる
「では、センター前のライナー性のヒット」
「ランナーは?」
「ランナーって?」
「だから、一塁にランナーはいたんですか? それとも一塁、三塁にランナーがいたんですか? アウトカウントはいくつです? ああ、それから得点差は一つですか、それとも二つですか? それがわからないと、相手の守備態勢がわからない。満塁で三点差ならサードとファーストはそれぞれライン近くに立って長打を防がなくちゃならないし、一点差なら内野手は前に出てきてホーム・ゲッツーの態勢をとらなくちゃならない。するとセンター前のライナーならセンターも前に出てるから二塁ランナーがホームに還るのは難しい。逆に、三点差で二塁、三塁にランナーが出ていて、バッターが長距離ヒッターならレフトとライトはライン沿いに守備位置を変えるし、センターも深く守っているはずだ。ライナーと言っても、ハーフ・ライナーなら、センターは慌てて突っ込んでくるに違いない。二塁ランナーは当然スタートをきっている筈だから、ホーム・ベース上ではクロス・プレイになる。難しいのはこの判断だ、ホームでランナーを殺すことばかり気にしていると、打ったバッターまで二塁に進めてしまう。タイニング・ランナーを出すのは愚の骨頂だ。(以下略)
(二章 ライプニッツに倣いてより)
この部分は、野球についての正確な知識に基づいて書かれている。野球選手たちは、ただ漫然と守備位置に立っているわけではなく、イニング、点差、ランナー、バッターのクセ、さらにはピッチャーが投げるボールの種類に応じて、極めて細かく守備陣形を組み替えているのである。って、野球を知らない人に言ってもなんのこっちゃだろうけど。
(ちなみに、この小説には、野球についてのぜんぜん正確じゃない記述も多数含まれているので、注意されたし。とくに実在の選手名・チーム名に関する部分はほぼ全てフィクションである。)
つまり、野球というのは決してことばとは無縁ではなく、むしろことばに大きく依拠したスポーツなのだ。野球に限らず、スポーツ全般がそうなんだけどね。
この小説が書かれた当時はまだJリーグなんて無かった。まだまだスポーツと言えば野球、という時代だった。そんな、時代を色濃く反映した野球というスポーツが持つことばを使って、まったく新しい物語を作る。それが高橋源一郎の狙いだったのではないか。と書くとちょっと理に落ちすぎている気もするが。
それはそれとして、この小説が描く日本野球の斜陽が、現在の現実の日本プロ野球の斜陽と重なって見えるのも面白いところ。
個人的な話をすると、自分はまぁまぁ野球に詳しい方だとは思うが、この小説に登場するプロ野球選手の中には、僕も知らないような極めてニッチな選手も多くいる。おそらく1985年に日本一になった阪神タイガースのメンバーだけを登場させているのだろう。ランディ・バースくらいなら今の野球好きの若者でも多少は知っているだろうが、リッチ・ゲイルと聞いてピンと来る人がどれくらいいるだろう。
この小説のユーモアとナンセンスをことばで説明するのはすごく難しいが、日本語による文章表現の可能性を広げた偉大な小説なんじゃないの?と私、愚考致す次第。あと表紙がカワイイ。