- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2013/07/17
- メディア: 新書
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内田樹という人の書く本は、ところによりなんとなくアヤシイ。なんかオカルトチックなことを言うことがあるし。
しかしどうにもこうにも面白くって、新刊が出るたびに買ってしまう。そしてすっと読めてしまう。そしてそして、読むとなんだか元気が出る。ぱわー。
おそらく、内田樹という人の発言や著作には、どこかしらに「こうすれば気分よく生きられるよ」というメッセージが常に含まれていて、だからそれを読んだ僕は、自分も気分よく生きられるんじゃないか…?という気がしてくるんじゃないかと思う。単純なヤツだ。
なんとなく、ダマされているような気がする。というか、一種の洗脳…?まぁそれを言い出したら、全ての読書が洗脳の一種だと言えなくもなくなってしまうけれども。
しかしよくよく考えてみると、僕は普段ネット上にある、というか主にはてブとTwitterなどに流れてくる様々な文章を読んでいるのだけれど、それらを読んで元気になった、という経験は、たぶん「万に一つ」くらいの確率でしかない。無いわけじゃないんだけどね。
むしろ、ネット上の文章には、読めば読むほど生命力を吸い取られていくようなものが多い気がする。いわばマホトラ文である。
だったら、ほぼ百発百中で読むと元気が出てくる内田樹を読む方が、ずっと、ぐっと、マシなんじゃないだろうか。というと、読むと元気が出るからすばらしいとかみんなも読めとか言っているようだけれども、そういう功利主義じみた物言いはあまりしたくないのだけれども。
で、この本の話。
武道とはなにか。決して「喧嘩に強くなるため」ではないし、「身体を鍛えるため」でもない。
それは端的に言えば、「他者と共生する技術」、「他者と同化する技術」である。
例えば、戦国時代の武将が、兵士を己の手足のように動かすことが出来たのは、この技術のおかげである。
そのような技術は、現代の学校体育や競技スポーツのような、計測可能な数値や勝敗を重んじる訓練では涵養出来ない。
また、自分を限界ギリギリまで追いつめて潜在能力を無理矢理引き出すようなやり方は、一時的には有効かもしれないが、長続きしない。
それは、「赤ちゃんが母語を習得してゆく過程」に類したものとなるはずである。「知性的になる過程」と言い換えてもよい。
何か新しい要素が一つ加わるごとに、それを受け入れ、組み込めるように、全体の構造が基礎から組み替えられるような、総合的な柔軟性をもつような技法の体系。新しい動きを一つ覚えるごとに、どんどん自由度が増してゆくような技法の体系。
そのような技法を高めて、「戦場=現代人にとっての日々の暮らし」に備えることが、"現代の武道修行者のめざす理想だと私は思っている。"
と、引用まみれで第一節の「修行論——合気道私見」を要約してみたが、どうだろう。わかりにくかったらそれはマチガイなく僕の能力不足です。スイマセン。他にも面白い論題がいっぱい詰まっているのだが、そこは各自、買って読んでいただきたい。
これを読んだ僕は、「武道っていいなぁ」と思った。小学生並の感想。
強くなるだとか、他人に勝つということよりも、他者との共生を重んじる。そのために、自らの身体知を深める。理想的である。
あと、もうひとつ、というかふたつというか、読んで心に響いたセンテンスがあったので、どうしても引用しておきたい。
ある哲学者によれば、無知とは知識の欠如ではない。そうではなくて、知識で頭がぎっしり目詰まりして、新しい知識を受け入れる余裕がない状態のことを言うのだそうである。
人はものを知らないから無知であるのではない。いくら物知りでも、今自分が用いている情報処理システムを変えたくないと思っている人間は、進んで無知になる。自分の知的枠組みの組み替えを要求するような情報の入力を拒否する我執を、無知と呼ぶのである。
どうだろうか。ドキッとした人も多いのではないだろうか。かくいう自分もその一人である。
僕自身、頭が良くなるためには、よりよい知識や思考法をどんどん多く取り入れていくことだけが重要なのだと思っていた。
しかし、知的な人間とは、今までの思考法の枠内に無かったものと出会った時に、それを取り込むための「思考法の組み替え」ができるような人のことであり、ただ単に取り入れているだけではダメなのだ、内田樹は言うのである。
精進せねばな、と思った。武士並の感想。
ともあれ、武道経験がある人も、僕のようなパーフェクト門外漢の人も、「己を修めたい」と思っている人にはきっと何かが「刺さる」はず。そういう本です。