rhの読書録

読んだ本の感想など

スピンク合財帳/町田康

 前作『スピンク日記』の続編。作家・町田康の愛犬である「スピンク」の目線で書かれた、犬人称エッセイである。

スピンク合財帖

スピンク合財帖


 スピンク日記/町田康 - 思考だだ漏れノート
 作中では、あくまでもスピンクがエッセイを書いているのだ、ということが強調される。作者としてクレジットされている町田康はあくまでも”翻訳者、或いは聞き手”のようなものに過ぎない、と。
 犬がエッセイを書く。果たしてそんなことが可能なのか?
 ムリだ、と思うかもしれない。確かに、犬は言語を介さないし、肉球がついた手ではペンも持てないしキーボードも押せない。
 しかし僕はそれは十分に可能なことであると思う。少なくとも、一級の文筆家の手にかかれば。
 というかそもそも、「自分が自分として文章を書く」という行為が、本来的に不可能なのだと思う。「自分が考えそうなことを、さもそれが自分の意見であるかのように書く」ことなら出来る。うん、自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。
 例えば、画家が自画像を描いたとする。その画家と自画像の関係は、あくまで「作ったものー作られたもの」であって、決して「画家イコール自画像」ではない。画家と自画像は全く個別の存在である。
 それは他のどんな表現方法においても同じことである。料理人と料理、仏像彫刻家と仏像は、全然別のものである。
 しかし、作家がエッセイを書いた場合のみ「そのエッセイに書かれた作家イコールエッセイを書いている作家」である、と素朴に信じられている。もちろん僕だって普段はそのような読み方をする。
 実際の所、画家や料理人や作家の例と同じく、文章を書いた人とその文章は、全然別個のものである。
 だから、犬がエッセイを書いてもおかしくない。って、これじゃ理屈がすっ飛んでいる。
 作家がエッセイを書くという行為は、「かつてそこにあった自分の主観を文章で再現する」という行為であると考えられる。多分。だとすれば、そのかわりに「かつてそこにあった犬の主観を文章で再現する」という行為をしたとしても、なんらかわりはない、と考えることは出来ないだろうか。
 つまり「エッセイというのは、自分になりきるものなのだから、そのかわりに犬になりきったとしても同じ事じゃね?」ということを私は言いたい。のだと思う。
 などと無駄な思弁を重ねてしまったが、こんなに分析的なことを考えなくてもこの本は面白い。犬好きの人も、そうでない人も、是非に読んでいただきたい一冊である。