rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

場末の文体論/小田島隆

 内田樹高橋源一郎、小田島隆あたりの人々が書くものが好きだ。いや、尊敬していると言っても過言ではない。なので本当は敬称を付けたいんだけど、そうするとやたらと冗長になり、個人的事情を読む人に押し付けているみたいな感じになってしまいそうなので、その辺はフランクに書かせていただく。まさかご本人方が読まれるわけもなかろうし。
 僕のような若輩から見ると、彼らはみな同じ世代として括ってしまいたくなるが、微妙に年齢が異なる。内田樹高橋源一郎は一歳違いだが、「全共闘世代にとっての一歳差は、他の世代にとっての十歳差くらいの違いがある」というようなことを書いていたのは、確か高橋源一郎だったと思う。


 で、『場末の文体論』の話。

場末の文体論

場末の文体論


 「場末の文体論」というタイトルは、著者・小田島隆の出身地が「北区赤羽」であること、また本書収録コラムに「場末からただよってくる瘴気のようなものが横溢している」ことからついたそうだ。
 巻末に「小田島隆×津田大介」の対談が掲載されているが、内容は「北区出身トーク」に終始している。間違っても、ウェブがどうこうみたいな内容を期待して買わないように注意。まぁ、面白いんだけど。自分は通学で一時北区を通過する宇都宮線を利用していたのだが、そういう人間の心理を小田島隆がズバッと突いていて、個人的に笑えた。
 と、肝心のコラムの内容の話をする前に、個人的な事ばかり書いてしまった。読書メモ、という体裁で書いているので、それはそれで間違ったことではないんだろうけども。


 小田島隆のコラムは面白い。なぜ面白いのか。
 切れ味が鋭いからかな、と思った。それは、あらゆる物事をバッサバッサと切り捨てていくタイプの切れ味では無い。むしろ、「わかること」と「わからないこと」の境目を切り分けていっているように感じる。論理と感情を、主観と客観を、理想と庶民感覚を、キチンと区別した上で、ツカミからオチへの見事な流れを作り上げている。
 と書いて、「いくらなんでも印象論的すぎやしないか」と思う。本当にそう思う。でもそれが今の自分の限界だ。嘆いても仕方がないので続ける。


 大衆や集団への懐疑、とでも呼ぶべきものも、本書のキーワード足りうるのではないだろうか。そしてそれは、冒頭に挙げた三人の書き手にも共通しているテーマだろう。そこに村上春樹の名前を加えていもいい。
 大衆を嫌悪するだけなら、結構簡単だ。っていうか、現代日本においては、大衆が大衆を嫌悪する、という図式が当たり前になっている。人ごみに文句を言いながらテーマパークに集まる人ごみ、みたいな。
 しかし、社会に生きる存在である以上、大衆に含まれながら生きていく事は避けられない。大衆に含まれていながら、そのことに無自覚なまま大衆を嫌悪していても、あまり意味が無いんじゃないかと思う。
 大衆の中に居ながら、大衆を疑う。それがあるべき形なのではないだろうか。
 と書いて、「おいおい今度はエセ大衆論か?ご大層なこった!」と思った。切実に思った。が、反省ばかりしていてはブログなんて書けたもんじゃあないので、あくまで続ける。


 本書はそんな小田島隆が、Web上で連載したコラムのうち、「オダジマはいかにしてオダジマになったのか?(前扉より)」について書いたものをまとめた一冊である。
 ぶっちゃけて言えば、わざわざ本を買わなくても、「日経ビジネス オンライン」のアカウントを作れば無料で読めてしまうのだけれど。しかもこの文章量で一冊1400円は少々高すぎる気がするけれども。図書館で借りて読んだ僕が文句を言う筋合いは無いんだろうけれども。ども。
 とは言うものの、やっぱりWeb上で文章を読むのと本で読むのとでは全然感じが違うな、と実感したのも確かである。ブラウザを使っていると、ついついささっと斜め読みをしてしまいがちだが、印刷された本だとじっくり腰を据えて読める。
 とりあえずWebで試し読みしてから読むかどうか決めても損はしないだろう。ただし、「日経ビジネス オンライン」に登録すると、結構な頻度でメールマガジンが送られてくる上に、どうやら配信停止する事が出来ないらしいので、その辺は注意が必要。
 マンボウ先生が残していったもの:日経ビジネスオンライン