rhの読書録

読んだ本の感想など

国を超えた、ことばの愛(いつかソウル・トレインに乗る日まで / 高橋源一郎)

いつかソウル・トレインに乗る日まで

いつかソウル・トレインに乗る日まで

 恋愛小説である。どう見ても恋愛小説である。でも、高橋源一郎が書いただけあって、やはり一味違う…と、言いたいところだが、そもそも一般的な恋愛小説というものを読んだことがないので、違うのかどうかわからない。こういうとき、嫌いな本でも読んでおいたほうがいいのかなぁ、なんて思う。

 先日、高橋源一郎と小田嶋隆のトークイベントに行ってきた。その中で、以前、高橋源一郎が書評を書いた、渡辺淳一の『失楽園』の話が出てきた。僕自身はその書評を読んだことがあって、内容はあまり覚えていなかったが、本書を読んだ時に、『失楽園』のことを連想した。あるいはこの小説は、『失楽園』への返歌、アンサーソング的なものなのかもしれない。

 主人公・ヤマザキケンジは五十代の男。今は亡き、元恋人と友人、二人の墓参りに行った先で、その元恋人の娘(二十歳)と会い、即座に恋に落ちる。即座に。過剰なほど即座に。

 こう書くと、オッサンの妄想をそのまま具現化したようなストーリーである。しかし墓参り先は韓国・ソウルであり、元恋人も、元恋人の娘・ファソンも韓国人であるというところが少し変わっている。ケンジは大学時代、全共闘運動(一応書いておくけど1968〜1969年ごろ)に参加し、その後韓国に渡り、1980年の民主化運動にも参加。その後日本に戻り、放送局で働くようになった。


 この小説には、単なる恋愛小説では無いな、と思うポイントがいくつもある。

 タイトルのソウル・トレインとは、分断前の韓国と北朝鮮を繋いでいた「京義線」のことらしい。読むまではてっきり「魂の列車」みたいな意味かと思っていたが、「ソウルの列車」ということだろうか。あえてミスリードを誘ったのか、あるいはダブルミーニングか。

 本作が執筆された2004年頃には、分断された京義線を再連結する方向で、両国の協議がまとまっていた。その後紆余曲折を経て、2007年に試運転が行われたらしいが、未だ本運転には至っていない模様。ウィキペディア情報。

 また、イラクで起こった日本人青年殺害事件のニュースが作中で出てくる。おそらく著者がリアルタイムでニュースに接し、作中に盛り込んだのだろう。

 そもそも主人公には全共闘などの社会活動に長く関わった経験があり、その頃の回想シーンが、これまた過剰なほど多く描かれる。

 こういった、社会に対する眼差しが、作品をより重層的なものにしているのではないだろうか。

 また、本筋の恋愛とは一見関係なさそうなエピソードや、作中物語とでも呼ぶべきものが頻繁に登場してきて、それがいちいち面白い。これによって作品全体が、一本調子ではない、多彩なイメージを伴なって立ち上がってくる。

 もう一つ、ケンジとファソンはとにかくよく会話をする。もちろんあんなことやこんなこともするけれど。普通小説にかぎらず、ラブストーリーにおいて会話というのは余計なものなのではないか。「言葉は要らない」的なノリで。

 しかるにこの小説で二人は様々なことを語りあう。あまりに語りすぎて、村上春樹作品的な不自然ささえ帯びているが、多分わざとやっている。

 「会話を交わす」という行為は、「相手をモノとみなす」ことの正反対にある。「男は黙って」なんて今は昔。男も女もSNSでことばを交わし合うのが昨今の流儀である。多分。寂しくなんてない。

 それは、愛というのはかくあるべきだ、という著者の主張なのかもしれない。日本と韓国、国を超えた愛。すごく、いい。