rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

東大卒プロゲーマー 論理は結局、情熱にかなわない / ときど

 東大出身にして、日本で二人目のプロ格闘ゲーマーである「ときど」氏による著書。

東大卒プロゲーマー (PHP新書)

東大卒プロゲーマー (PHP新書)

 格闘ゲームファンであり読書好きでもある僕としては、格闘ゲーマーが書いた本、というだけでもう読まざるをえない。もちろんプロ格闘ゲーマーの先駆者である「ウメハラ」こと梅原大吾氏の本も全て読了済みである。

 勝負論 ウメハラの流儀 / 梅原大吾 - 思考だだ漏れ読書録

勝負論 ウメハラの流儀 (小学館新書)

勝負論 ウメハラの流儀 (小学館新書)

 ウメハラ(以下、プロスポーツ選手を呼び捨てで呼ぶノリで敬称略)が書いた「勝ち続ける意志力」や「勝負論」が、タイトル通り勝負師としての心構えなどを中心に据えた、格闘ゲームをやらない一般読者向けの内容だったのに対し、本書は著者であるときどさん自身の来歴や、プロゲーマーという仕事の内容ついて書かれており、やや格闘ゲームファン・ときどファン向けな感がある。その分彼ならではのユーモアが随所にあって、思わず吹き出してしまう部分もあった。

 とはいえ、真剣勝負を生業とするプロゲーマーの本というだけあって、彼のこれまでのゲームに対する取り組み方や、現在の心境の変化などもきちんと盛り込まれており、ゲーマーのみならず、困難に立ち向かう人、自分の能力で勝負している人にとっても、参考になる部分が多いのではないかと思う。

 この本の中では、ときどの人生における大きな二つのターニングポイントが登場する。ひとつは「大学院での研究を挫折し、プロゲーマーになる」という出来事。そしてもうひとつは「ゲーマーとしてのゲームに対する取り組み方を改める」という出来事。

研究を諦め、情熱の価値を見出す

 格闘ゲームの大会で着々と結果を残しつつ、一浪ながら東大に入学したときどは、4年次に配属された研究室で先輩のSさんと共に研究に没頭する日々を送っていた。

 充実した研究生活を送る彼に、大きな落とし穴が待ち受けていた。大学院進学時の配属研究室を決める大学院入学試験の結果が芳しくなかったため、同じ研究室にいられなくなり、それまでの研究を続けられなくなってしまうのである。

 新たな研究室に所属したときどは、以前までの研究をまとめた論文を発表して国際学会の賞を受賞したものの、結局その研究室でのやりがいを見いだせず、大学院を中退することとなる。

 苦しみ悩んだときどは、ひとつの結論に至った。

  • 結局、僕は、自分の頭でしっかり物事考えてこなかったのだと思う。
  • むしろ僕は、「考えないため」「悩まないため」の行動をとっていたのではないか。
  • ひとつのことにとことん没頭する僕の性格も、「没頭すればそれ以外のことを考えずに済む」というメリットをにらんでのことではなかったか。

A.だから、その没頭する対象であった「ゲーム」を離れ、さらに次なる対象である「研究」を失ったとき、それまで見ないで済んできた人生の悩みが一気に押し寄せてきた。

 何も考えずひとつのことに没頭し、結果を出してきたときどは、それが自分の実力による結果だと思い込んでいた。しかしそうではなかったことに気づく。

 でも、違ったのだ。僕が研究において成果を挙げられたのは、僕自身の力ではない。たまたま、そこに情熱を捧げられるような環境があったから。その情熱にしたって、たまたま、そこにSさんという素晴らしい研究者がいたから燃え上がったもの。僕は、自分一人では情熱を燃やせない人間だった。

 大学院入試に失敗して情熱を失ったときどは、再び情熱を燃やすことの出来る場所を求めた。

 それでもなお、情熱に燃えながら生きたいと願っている自分にも気がついていた。

 その後、ときどは一旦は安定を求めて公務員試験を受けるものの、試験を進む内に実情が見えてきた公務員という仕事に、情熱を注げるような場所を見いだせなかった。

 そして、自分の行く末について相談に行ったウメハラから「本当に好きなことなら、チャレンジしてみるのも悪くないと思うよ。1回しかない人生なんだから」という言葉をかけられ、己が最も情熱を燃やせる場所、つまりプロゲーマーとしての道を選んだのである。 

 情熱に浮かされ生を燃やす快感を知った僕は、もう情熱の芽のない場所では生きてけないのだ。「心」の声を無視して無理やり適合しようとしても、生ける屍の逆戻りする。
 僕は就職活動先に、最終面接辞退の連絡を入れた。
 プロゲーマーになると決めた瞬間、「この判断は正しい」という直感があった。迷っている時間が惜しい。一刻も早く、沸騰する格ゲーシーン、その熱気の中に全身を投じたかった。決断したとたん、僕は心底わくわくしてきた。

ときどの合理的な強さ

 プロゲーマーとしての道を歩き始めたときどは、輝かしい戦績を挙げるものの、あるきっかけで己の格闘ゲームに対する取り組み方を変えることとなる。

 それまでのときどの格闘ゲーマーとしてのプレイスタイルは、ゲームのシステムやキャラクターの性能を徹底的に研究し、その中から有効な戦術を見つけ出し、相手にひたすらぶつける、というものであった。

 僕の戦い方は、いってみれば、「ひとつの絶対的な勝ちパターンを編み出して、それを相手に押し付ける」ものだった。過去の僕は、このやり方で勝ち星を積み重ねてきた。それだけ強力な公式だったわけで、大多数のプレイヤー相手なら、この戦法でまず圧勝できた。

 その典型的な例が、「ストリートファイター4」シリーズでときどが使う「豪鬼」というキャラクターである。

 スト4は、転ばせた相手が起き上がるところに攻撃を仕掛ける「起き攻め」というテクニックが重要なゲームなのだが、豪鬼は他のキャラと比べて非常に強力な起き攻めを繰り出すことが出来る。そのため、豪鬼は相手を転ばせればて起き攻めだけで試合に勝てる、とまで言われている。

 強力な戦法を押し付けるのが一番強力、というシンプルな論理。もちろん、強力な戦法を身につけるにはそれ相応の努力が必要だし、対戦の中で強力な戦法を使える状況に持ち込めるだけの強さは必要なわけだが。

 また、ときどが他のプロゲーマーと一線を画しているのは、数多くのゲームタイトルを同時にプレイし、しかもそのほとんどでトップクラスの実力者になっている点にある。今後は「であった」と言ったほうがよいのかもしれないが。その理由は後述。

 ときどがメインでプレイしている「ストリートファイター4」シリーズに関して言えば、彼がトップクラスどころか最強候補の一人であることに異を唱えるものはいないだろう。その実力をキープした上で、それ以外の「キング・オブ・ファイターズ」シリーズや「鉄拳」シリーズなどでも、上位の実力を持つプレイヤーと互角以上に戦ってきたのが、ときどという男の凄まじさなのである。

 格闘ゲームをやらない人にはわかりにくいかもしれないが、ひとくちに「格闘ゲーム」と言っても、ゲームタイトルが違えばかなり勝手が違ってくる。「相手のライフゲージを無くしたほうが勝ち」とか「ジャンプ攻撃はしゃがみガードできない」というようなゲームルールの根幹的な共通しているものの、それ以外の、キャラクターの挙動や、技の性能などは、タイトルが変わればまるっと全部変わってしまう。

 格闘ゲームの強さ、というと反射神経やコンボの上手さが注目されがちだが、実際に勝つためには、ゲームのシステムや各キャラクターの性能をきちんと把握した上で、対戦相手に対して最も有効な戦術を、自分が持つ手のうちの中から組み立てる、ということが重要になる。しかし、複数のゲームにおけるシステムやキャラ性能を同時に高レベルで把握することは容易ではない。単純に時間がかかりすぎるし、それではそのゲームのみをやり込んでいるプレイヤーに追い付くことができない。

 ではなぜときどが複数タイトルで活躍できているのか、というと、それは彼が「強い戦法を見つけ出す能力」に長けているから、と言われている。

 ほとんどの格闘ゲームには、強いキャラと弱いキャラの格差があり、また、そのゲームに熟達していなくても、熟達している人との差を埋められるような戦法が存在する。ときどさんはそれらのいわば「ゲームの穴」とでも言うべき部分をいち早く見つけ出し、徹底的に突き詰めて戦術に昇華することで、そのタイトルのトッププレイヤーとの実力差を埋め、大会に勝ってきたのである。

 このやり方が有効なのは、格闘ゲームの多くが1〜2年ごとに新作や続編が出るので、対戦相手に先んじて新たな戦法を生み出すことが絶大なアドバンテージを生む、という事情も関係している。

合理性の先にある強さ

 あらゆる情報を徹底的に研究し尽くして勝つ。あるいは、限られた情報の中から、より優先度の高い部分を見つけ出し、そこを重点的に突き詰める。そのような合理的なやり方は、ときど自身が言うように、ある意味で受験勉強や学術研究に似ている。試行錯誤によって最適解を導き出し、それを本番でぶつける、というやり方。

 今までのときどのスタイルは、テストにたとえるなら、「公式」を完璧にマスターして、誰よりも早く80点を目指す、というものだった。

 しかし幾度かの敗戦をきっかけに、ときどはそのようなプレイスタイルを軌道修正し、新たな強さを追求することを決意する。同じ日本のプロゲーマーである「ももち」選手に負け、韓国の「インフィルトレーション」選手に負け、そしてウメハラに負ける、という経験から「80点より上の強さには、公式だけでは到達できない」と悟り、あらたなスタイルを模索するのである。

 ゲームには常に対戦相手が、つまりそのキャラクターを動かす人間がいる。僕が戦うべきなのは、本来、キャラクターの後ろにいる人間なのだ。生身の人間相手に、公式だけでいつまでも勝てるものか。僕はそこを見誤っていた。公式が通用しない可能性すら頭にないのだから、公式が通用しなかった場合の対策など、考えられているはずもなかった。

 僕は、80点を85点にする努力を怠ってきたのだと思う。3年かけて100点をとるより、最速で80点にするほうが合理的だ、と考えていたからだ。その中間がなかった。

 ももちの「強いキャラを使って勝っても、つまらない。僕にはもっと色々なことができるのに、強いキャラではそれを表現しきれないのだ」という考え方を知り、ウメハラからの「ときどの場合は、全キャラに対して『ダウンを奪えばどうにかなるっしょ』という考え方だろ。――戦い方が、雑」というアドバイスを受け、さらにウメハラとの対戦の中から彼の「勝ってもなお新しい戦法を見つけようとする」という戦い方に衝撃を受け、過去のスタイルをいったん捨てることを決意する。

 それまでの「公式」から外れた技を、振り回した。以前なら手を出さなかったリスクの高い技を、連発した。ロジカルでもスマートでもない、がむしゃらなプレイの中から、新しいスタイルを探り当てようとした。まさに手探りだった。

 そこでときどは、今まで無駄なものとして切り捨てていた、一見非効率的な手段の中にも、時に有効な使い道が隠されているということを発見する。

 昔の僕は、勝とうとしすぎたのだと思う。勝ちたいあまり、勝ちに直結するような選択肢ばかりを探そうとしていた。しかし、勝ちに即つながらない選択肢のなかにも、強さの理由は隠れているのだと、僕は学んでいった。

 そして2014年4月のイベントで相見えたウメハラを打ち破り、勝利を収めたのである。

 このようにしてときどが辿り着いた「勝ちを求め過ぎない」という姿勢は、ウメハラがその著作で書いていたことと符合しているように見える。

 では、いよいよ具体的な「勝ち続ける」方法を考えていきたい。
 まず、僕が強く勧めたいのは、効率を再優先しないことだ。
 (中略)
 基礎固めの段階こそ、たとえ最初のうちはボロボロに負けようと、人から笑われようと、納得できるまでじっくり時間をかけて回り道して考え、あえて定石やセオリーとされるものを疑い、時には崩してみる。自分で再発見する。(梅原大吾「勝負論」より)

 もし二人のプロゲーマーが紆余曲折を経て同じ結論に至ったのだとしたら、彼らが勝負という世界に通底する何かに触れた、ということになるだろう。あるいはもし万が一、ときどの戦い方を見かねたウメハラが、彼のために「勝負論」という書を記したとしたら、これはこれでスゴく熱い話である。これはほとんど妄想だが。

情熱は論理に先んじる

 ゲームも勉強も合理的にやってきたときどは、情熱こそが合理性を生む源である、ということに気づく。

 ゲームで合理的に敵を倒さんとしてたのは、早く、とにかく勝ってかつ快感を味わいたいから。勉強に取り組んだのも「これさえきちんとやれば大好きなゲームができる」、という思いがあったから。研究で成果を上げたのも、情熱的に取り組んでいる先駆者がいたからこそ夢中になれたから。

 情熱を求めてプロゲーマーになったときどは、合理性の先にある強さを知ったのだ。

 冷静沈着、合理一辺倒な「ときど」という格ゲープレイヤーに、セオリーから外れた「なにをしてくるかわからない」怖さが宿ったら、どれだけ強くなるだろう……。
 そういって、プレイヤーに怖がってもらいたい。
 そういって、ゲームファンに期待してもらいたい。

 2014年7月11日から13日にかけて、アメリカ・ラスベガスで開かれた世界最大級の格闘ゲーム世界大会「Evolution2014」。ときど選手はあえて今までの複数タイトルに出場する方針を改め、「ウルトラストリートファイター4」と「キング・オブ・ファイターズ13」の2タイトルに絞って出場することを選んだ。その結果、ウル4では入賞に届かなかったものの、キング・オブ・ファイターズ13で準優勝という結果を残した。

 情熱の持つ力を知り、論理だけに頼らない新たな強さを目指すときどの活躍はまだまだこれからだろう。