rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

銀河鉄道の彼方に / 高橋源一郎

銀河鉄道の彼方に

銀河鉄道の彼方に

 高橋源一郎による「銀河鉄道の夜」へのオマージュ。あるいは二次創作、とでも呼ぶべきだろうか。

 タイトルからわかる通り、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を下敷きにした小説だが、世界観は未来風。銀河鉄道のジョバンニがモデルと思われる「G**」という少年が主人公。G**がある夜眠りにつくと、いつの間にか銀河鉄道に乗っていた。そこで「長いコートの男」と出会ったジョバンニ(銀河鉄道に乗ったところからなぜか名前が「ジョバンニ」になる)は、「あまのがわのまっくらなあな」という言葉を残して航行中の宇宙船から姿を消した宇宙飛行士の父を探すために、様々な人々の人生を追体験していく、というのが大体のあらすじ。

 人生の追体験は、「小説を書く」という行為とオーバーラップして見える。さらに作者自身をモデルにしていると思われる小説家の「わたし」も銀河鉄道に乗り、「長いコートの男」と出会う。「長いコートの男」は自分の詩として宮沢賢治の「青森挽歌」の冒頭を朗読する。高橋源一郎(みたいな人)と宮沢賢治(みたいな人)が小説の中で邂逅する。

 「長いコートの男」は「石炭袋」(銀河鉄道の夜にも登場する、実在の暗黒星雲)について書こうとしてきた。それを聞いて「わたし」も、自分も石炭袋を書こうとしてきたのかもしれない、と心中で述懐する。では、石炭袋とは何なのか。

 本作に登場する「石炭袋」「あまのがわのまっくらなあな」「宇宙の果て」、あるいは以前「ゴーストバスターズ」で書いた「ゴースト」は、どれも同じものを指しているように見える。それはものすごく遠くにある。それに近づこうとした人は皆おかしくなってしまう。それは「死」や「無」に似ているがそれらとは異なる。具体的ななにかの比喩というよりは、人生において、あるいは人の歴史において出会いうる「そういうもの」の比喩だと解釈するのが正しいと思う。多分。

 ラストシーンは、高橋源一郎が「自分は宮沢賢治に、そして数多の文学者たちに導かれてここまでやってきたのだ」と表明している、と僕は読んだのだがどうだろう。


 うーん、書きたいことがとっちらかってしまった。


 これまで僕は、高橋源一郎の小説を出版順に読んできた。この小説で、やっと現在に「追いついた」ことになる。

 途中で、「高橋源一郎ってなんとなくあざといな」と思う時期があり、読むのをやめていた。今改めて、そう思った理由を考えてみたら、少しだけ分かった気がする。

 高橋源一郎の小説は、どれも一定以上「文学」というものに造詣が無いと面白く読めないのではないだろうか。それを言ったら今現在「文学」として発表されている小説のほとんどが同様だろうけれども。

 この小説も、「ひたすら文学について考えてきた高橋源一郎という小説家」を知らなければ、読んでもわけがわからない小説だと思う。

 しかしここで改めて言うまでもなく、あらゆる小説は、「作者」という文脈込みで成り立っている。あらゆる物語は、特定の誰か、あるいは不特定の誰か、あるいは不特定多数の誰かによって作られたものだ。例えば神話は昔の誰かが考えたものが変化しながら伝承されたものだし、太宰治の作品は太宰治の波乱万丈な生涯ありきで読まれているし、覆面作家の舞城王太郎も「覆面作家」というイメージ込みで読まれている。

 高橋源一郎の場合は、「文学好き」で「高橋源一郎好き」でないと面白く読めない。おまけにパロディを多用して書かれているため、その元ネタもある程度知っている必要がある。ものすごく敷居が高い。文章自体はすごく読みやすいのだけれど。

 そして敷居が高いからこそ、その敷居を越えられた人は、より強い「選ばれた感」が得られる。これまたあらゆるエンタメ作品ではよくある現象だが。

 そのやり口を、「あざとい」と感じるかどうかは人それぞれだろう。それがいいことなのか悪いことなのかは、あまり重要なことではないと思う。大事なのは、作品が後世まで残るかどうかなわけだし。時の試練、ってやつ?


 というようなことは、単なる僕の穿った見方に過ぎないのかもしれないが、どっちにしても、僕は高橋源一郎が好きなので今後も読み続けることは間違いない。