- 作者: 横田増生
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2014/06/06
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログ (4件) を見る
ナンシー関の文章は面白い。テレビ番組やタレントについてのコラムがほとんどだが、それらについての予備知識が無くても面白い。小説家の宮部みゆきは、ダウンタウンのどっちが浜田でどっちが松本か知らないのに、ナンシー関を面白く読んでいたそうである。
ナンシー関の観察眼はものすごい。矢沢永吉のコンサートに来ているファンについて書かれた以下の文章を読んで、僕は打ちのめされた。
大きなバスタオルを真上に高く放るのは難しい。絶対練習している。そして、いかに高くきれいに放るかをステージ上の矢沢に見せることが、同時に自分の信仰心の深さを示すことにもなるのである。
普通の人だったら「バスタオル、投げてるな」としか思わない場面を見て、ここまで看破する。しかも「なるのである」とまで言い切る。何気ない一文だが、ちょっと考えられないくらいすごい。
本書は、青森で生まれ、サブカルチャーに影響を受け、鋭いテレビコラムと風変わりな消しゴムハンコで一世を風靡しながら、その全盛期に早世した稀代のコラムニスト、ナンシー関の生涯を追う評伝である。ナンシー関、という名前は前々から知っていたが、「テレビについて書いている人」という印象しかなかった。
最近、小田嶋隆が書いたものにハマってよく読んでいたのだが、「テレビ標本箱」というテレビコラムのまえがきでナンシー関に言及していたこと、そして本書の中でも小田嶋隆がナンシー関についてのインタビューに応えていることを知って、手に取ったのである。
なので、コラムをそれほど読んでいないのに、それを書いたコラムニストについての評伝を読む、という形になってしまったが、特に問題なく読めた。それに本書で引用されているコラムを読むだけでも、彼女の確かな筆力は十分に感ぜられた。
一体どうしてあのような名コラムを書き続けることが出来たのか、と考えると、才能と環境、としか言いようがないだろうが、その才能と環境に迫った評伝として、十分にリーダブルであった。リーダブルという言葉を使ってみたかった。
業界では、「いまだにナンシー不在の穴は埋められていない」「もしナンシーが生きていたら…」という声が絶えないという。まるでスティーブ・ジョブズ亡き後のAppleのようだ。もしかしたらその穴が埋められることは永遠にないのかもしれない。
自分のような「ナンシー後」の人間からすれば、もっと長生きしてテレビ以外のコラムも書き続けて欲しかったな、と思う。と同時に、現代のようなネット時代に、ネットについてのナンシー関のような鋭い批評は可能なのだろうか、と思いを馳せたりもする。今日もテレビからはいろいろなものが流れている。