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「あの戦争」から「この戦争」へ ニッポンの小説3 / 高橋源一郎

「あの戦争」から「この戦争」へ ニッポンの小説3

「あの戦争」から「この戦争」へ ニッポンの小説3

 高橋源一郎による、評論集。評論と言うよりも、「高橋源一郎が見たり聞いたりしたものについて書いた本」と言ったほうがしっくりくる。そのくらい読みやすく、なのに深い。

 本書の内容は雑誌「文學界」に連載されていたものだ。つい最近、お笑いコンビ「ピース」の又吉直樹が書いた小説が載って話題になった、あの文學界である。あ、ちなみに本書の中にも、高橋源一郎が又吉直樹に、二葉亭四迷の「平凡」を薦めるというエピソードが出てくる。

 ほとんどの章を連載の時に読んでいたので、再読が多かったのだが、あらためて通して読むと、ここには重要なことが書かれている、という思いを新たにさせられる。


 序盤の章は、「あんなこと」が起こって以来、まともに本が読めなくなった、という話から始まる。「あんなこと」とは、言うまでもなくあの震災のことだ。

 僕自身も震災の後はしばらく本を読む気が起こらなかったが、それは単に心が落ち着かなかったからであって、高橋源一郎の場合はちょっと違うらしい。

 島崎藤村は読めないが、武田泰淳は読める。現代の詩集は読めないが、「ジュニアエラ」なら読める。その違いはどこにあるのだろう。

 そんな話から始まって、だんだん「読めない」という話がフェードアウトしていき、中盤辺りからは普通の(平凡な、という意味ではない。念のため)評論に変わっていく。


 高橋源一郎は、文学について深く考え続けてきた作家だ。どのくらい深く考えているかというと、日本の近代文学の歴史を全部学んだ上で、文学者達が登場する一風も二風も変わったポストモダン小説(でいいのかな)を書き上げてしまうほど。

日本文学盛衰史 (講談社文庫)

日本文学盛衰史 (講談社文庫)

 そんな高橋源一郎は、自身が「なんでも文学に見えてしまうビョーキ」にかかっている、と自認している。例えば、身体障害者による劇団「態変」の演劇を見て、「これは文学じゃないか」と思ってしまう。

 劇団態変日本語トップ

 なにが文学で、なにが文学でないか、僕にはよくわからないが、彼が文学と呼ぶものに共通しているのは、あまり世間に顧みられることのない声であること、つまり少数派の声であること、なのではないだろうか。


 世の中には、みんなが知っている言葉、みんなが受け入れられる言葉がある。「ダメよ~ダメダメ!(今ならラッスンゴレライだろうか?)」とか「テロに屈しない」とか「差別はいけません」とか。

 当然のことだが、みんなが受け入れられるからといって、正しいとは限らない。そして同様に、間違っているとも限らない。ポピュラーであるということは、善と悪や、正と否といったこととは関係がないのである。

 しかし強弱で言えば、みんなが受け入れられるような言葉は、強い言葉である、と言えるだろう。そして世の中には、弱い言葉も存在する。多くの人が見向きもしないような、少数派の言葉が。

 誰だって忙しいし、できれば自分がいい思いをしたいから、みんなが知っている強い言葉だけを知って、みんなに馴染んで、それで済ませようとする。弱い言葉に関わっていたら、自分も弱くなってしまうかもしれないので、それは放置する。

 例えば本書でも登場する、橋下徹の「慰安婦制度は必要だった」という言葉は、強い言葉の論理で発された言葉なのではないかと思う。言い換えれば、搾取する側の論理だったのではないか。

 それに対して、弱い言葉として発せられたのが、戦場を描いた戦後文学であり、美輪明宏が歌った「祖国と女達」という歌だったのではないか。



祖国と女達 (従軍慰安婦の唄)/美輪明宏 - 歌詞検索サービス 歌詞GET

 重ねて言うが、強い言葉と弱い言葉、どちらかが全的に正しい、とかいうことは言えないと思う。あとは、強い方につくか、弱い方につくか、という個人の選択があるだけだ。


 ここで思い起こされるのは、村上春樹がスピーチで語った「壁と卵」の比喩だ。壁と卵、強者と弱者、どちらにつくべきか。

 この喩えについて考えるときに忘れてはならないのは、まず必ずしも卵が正しいというわけではないこと、むしろしばしば卵は間違いをおかすこと、また社会によって間違いに「されうる」こと。

 そして、ある人が常に「卵の側」につくというのは、それほど容易ではないということ。知らない間に自分が壁の側に与しているということがあるということ、である。

 それでもなお、壁につくか卵につくか、という選択を迫られたなら、そしてそれを選ぶことができる場に立ったならば、わたしは卵の側につきたい、と村上春樹は語ったのだ。


 他にも、本書には弱い言葉、あるいは弱いものが登場する。 正直に言って、全部の章が素晴らしいので、全部の章を紹介したくなってしまうが、そんなことをしていたら時間がいくらあっても足りない。というか、僕がそんなことをするより、実際に読んでもらったほうがずっといいので、それはしない。

 弱い言葉は、一見すると価値が無いようにも思えるが、「弱さを排除する社会は脆い」と高橋源一郎は別のところで語っている。

 本書の最後では、宮尾節子の「明日戦争が始まる」という詩が引用される。

 弱者を排除する社会。はたして、もうすぐ戦争が始まるのだろうか。それとももう、戦争は始まっているのだろうか。というところで本書は終わる。未来はいったいどうなるだろう。いや、どうしてしていったらいいのだろう。