rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

邪悪なものの鎮め方 / 内田樹

邪悪なものの鎮め方 (木星叢書)

邪悪なものの鎮め方 (木星叢書)

 「邪悪なもの」とはなにか。

 それは、人間のスケールをはるかに超えた力でもって、人間の生命力を損なうようなもののことである。

 邪悪なものを鎮めるためには「こうすれば必ず対処できる」というような、成功率百パーセントの攻略法は存在しない。なにしろ相手は人間のスケールを超えているのだから。

 我々は邪悪なものを、そのときの手持ちのアイテムと、そのときの判断だけで、乗り越えなければならない。そうしなければ、生き延びられない。

 そのときのために、普段から我々が心がけるべきことは、「ディセンシー(礼儀正しさ)」「身体感受性を高める」「オープンマインド」の三つである(著者は文庫版のあとがきで、そこに「こちらの文脈を変えることで「『邪悪なもの』を『聖なるもの』に変換すること」を加えている)。


 というのが、本書における「邪悪なもの」の大体の意味である。

 「邪悪なもの」というとオカルト的なもののことかと思うかもしれないがそうではない。誰だって一度や二度は、「自分の生命力を損なおうとする巨大ななにか」に出会ったことがあるはずだ。そういうもののことを指している。

 では本書は「邪悪なものの鎮め方」をテーマに書かれた論文のようなものかというとそうではなく、内田樹が書いたブログ記事や小説の解説をまとめた本だったりする。

 しかしだから「看板に偽りあり」かというとそうでもなく、本書に書かれた文章はいずれもどこかに「邪悪なものの鎮め方」に関わるようなエッセンスを含んでいる。

 本書を読めば「邪悪なものの鎮め方」がスッキリわかるかというと、必ずしもそうではなく、筆者の話はあっちに行ったりこっちに行ったり、二転三転、七転八倒(はちがうか)、とにかく自由奔放に跳ねまわるため、読む方としてはとにかく面白く、サクサクと読み進んでしまうのだが、いざ読み終わるってみると、「……で、『邪悪なものの鎮め方』って、どうすればいいんだっけ?」という疑問が残る。

 しかしそのような読後感こそが、内田樹が仕組んだ「カリキュラム」の正しい効用なのかもしれない。

 どういうことか。


 本書の文体は、教科書や学術論文のような、良く言えば「系統立った」、悪く言えば「型にはまった」文章とは全く異なる。

 もし本書の内容を、無駄のないフラットで無機質で匿名的な文章に書き換えて、道徳の教科書のような感じに仕立てしまったら、本書が持つ意味合いは、かなりの部分が失われてしまうのではないかと思う。

 もっと自由で、もっと豊かで、もっと親切心にあふれた文章を。それが著者の志している文章であると思う。

 言い換えれば、「礼儀正しく」、「身体感受性が高く」、「オープンマインド」な文章。

 つまり著者は、「邪悪なものの鎮め方」について書かれた文章の「書き方」によって、「邪悪なものの鎮め方」を読者に対して暗示的に示しているのである。

 なぜ暗示的なのか。それは「『邪悪なものの鎮め方』とは、これこれこういうものですよ」と400字くらいで簡潔に示してしまうと、読んだ人が「ふーん、なるほどね」と「納得」してしまい、それ以上考えることをしなくなってしまうから、ではないだろうか。

 自分の頭で考えたり、自分の体で感じたりすることをしないという態度こそが、最も間違った「邪悪なもの」への対処だから、なのではないか。


 では「ディセンシー(礼儀正しさ)」「身体感受性を高める」「オープンマインド」とは、具体的にどういうことなのだろう。

 ポイントは、「折り目正しく生きる」ことなのだと思う。

 無秩序で不平等な世界の中に、少しでも秩序のある空間を作るための、個人的でささいな努力。

 具体的には、きちんと部屋を掃除する、規則正しい生活をする、汚い言葉を使わない、など。

 そのような営為を内田樹は別のところで「雪かき仕事」と表現していた。利益を生んだりはしないが、誰かがやらなければ破滅的な自体を招いてしまうような、地道で孤独な作業。

 以前「夢をかなえるゾウ」という本を少しだけ読んだのだが、突然現れた不思議なゾウが、ダメなサラリーマンに最初に教える成功の秘訣は「靴を磨くこと」だった。

 地道でささやかな作業が大切である、という点では「雪かき仕事」に似ている。しかし「成功のため」という利益誘導があるという点が大きく異る。

 「雪かき仕事」は、それをしたからといってその人が個人的にオイシイ思いをしたり、社会的な階梯を登りつめたり出来るようなものではない。あくまでもマイナスを埋め、共同体を守るための行為なのである。


 と、いかにもわかっている風に書いたが、はたして「折り目正しい生き方」がどれほど大切なのか、今の僕にはよくわからないし、出来ているわけもない。

 でも、「雪かき仕事」に憧れている部分はある。地味で地道だが、いつかどこかで誰かの役に立つような行為。

 たとえばブログを書くということがそのようにあってくれたらいいなと思うんだけれど、なかなか、ね。