東日本大震災後、放射線問題に関する様々な活動を行った早野龍五と、糸井重里の対談。実質的には糸井重里から早野龍五へのインタビューに近い。
- 作者: 早野龍五,糸井重里
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2014/09/27
- メディア: 文庫
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言うまでもなく放射線は目に見えない。そのせいでさまざまな風評被害が起こっている。でも今はちゃんと線量を測って安全を確認しているので、過剰に恐れる必要はない。
と、口で言うのは簡単である。しかしいまだに放射線に対する正しい理解が進んでいるとは言えないようだ。農作物を買うときに福島県産を避ける人がいる。福島を「誰も人が住めない土地」だと思い込んでいる海外の人も多いらしい。
人は(特に意識をしていなければ)事実よりも「わかりやすいこと」を無意識に選んでしまう。たぶんそれは、避けることのできない人間の性なのだろう。もちろんぼく自身も例外ではない。
であるならば「事実をわかりやすく伝えること」が正しくものごとを進めるカギとなるハズなのだが、よくできた嘘は事実よりもずっとわかりやすいものだったりして、事実を伝えることの妨げになる。
事実にたどり着くための最も便利なツールが「科学」であるわけだが、科学も万能ではない。
科学というのはあくまでも「ほぼ間違いないこと」を地道に積み重ねていくという手法であって、その「ほぼ間違いない」に間違いがあった場合は、事実とは異なる答えが出てしまうこともあるのである。
そもそも人は、「氷は冷たい」だとか「太陽はまぶしい」みたいなごく当たり前のことでさえ、自分自身の主観を通さなければ認識できないわけで、その主観が間違っていないという保証はどこにもない。「ほぼ間違いない」が「ほぼ」でしかないのはやむを得ないことだ。
しかしだからこそ、その「ほぼ」の精度を少しでも上げていこうというのが本来の科学的な態度であり、逆に、目の前に二つの仮説があるときに、なんらかの恣意的な理由で「より間違いっぽい」ほうを選んでしまうような態度では、いわゆる「疑似科学」になってしまう。
事実を知ろうとする上で留意すべきなのは、「人間の直感はけっこう間違いを犯す」ということと「人間はあらゆるものごとに原因を求めたがる」ということではないかと思う。
例えば、元々自然に鼻血が出やすい体質だったのに、原発事故後に鼻血が出ただけで「もしかして、放射線のせい?」という考えが頭をよぎった、みたいな経験は結構多いと思うが、その考えは先入観によってもたらされた直感であり、「短期間に大量に被曝しなければ鼻血は出ない」という科学の常識から見て間違っている。
もし仮に、極めて少ない量の被ばくで鼻血が出るということがあり得たとしても、それは統計で存在を証明できないほどの低確率でしか起こらないはずで、にも関わらず原発事故後に「放射線のせいで鼻血が出た!」と言う人はあまりにも多かった。ということは「原発事故が原因の鼻血」はほぼ全て先入観による思い込みである、と結論づけたほうが、合理的であり話の通りがいい
にも関わらず、原発事故と鼻血の因果関係を主張する人が減らないのは、人は原因がわからないという状態を恐れていて、無意識に原因探しをしてしまうからで、「特に原因は無いけど鼻血が出た」という事実よりも、「放射線のせいだった」と思ったほうが、ある意味で安心できるから、なのではないかと思う。
早野氏は「確からしいこと」を積み重ねていくという科学の立場で、各地の放射線量のグラフを作成してTwitterで公開したり、給食の放射線量を測定したりと、様々な活動をしてきた。
また、単に事実を明らかにすることだけでなく、福島に住む母親たちの心理的負担を和らげるために赤ちゃん用の放射線測定器を作る、といった活動まで行った。
事実を知れば必ず偏見が無くなる、というわけではないが、偏見を無くすためには、まず知ることからはじめなければならない。そしてぼくらが事実を知ることができるのは、早野氏のような人物がいるおかげである、ということを忘れてはならない。
もっと重要なのは、本書のように、そのような問題について気さくかつオープンに話し合えるような場をキープし続けることなのかもしれない。なにごとによらず党派的・対立的になりがちな昨今の風潮においてこそ。