rhの読書録

とあるブログ書きの読書記録。

ぼくらの民主主義なんだぜ / 高橋源一郎

ぼくらの民主主義なんだぜ (朝日新書)

ぼくらの民主主義なんだぜ (朝日新書)

 この本の帯には「日本人に民主主義はムリなのか?絶望しないための48か条」と書かれている。

 でも、正直に言うとぼくは、この本を読んで、結構、絶望的な気分になった。

 強いものが、弱いものを押しつぶす。持つものが、持たざるものから、奪い続ける。そのような傾向が、日本中で、あるいは世界中で、どんどん広がっているのではないか。前々から感じていたことだが、この本を読んで、さらにその思いを強くしたからである。

 やっかいなのは、そのような傾向を、我々の多くが自覚しており、にも関わらず、誰もそれを止められずにいる、ということなのではないだろうか。

 原発が東京ではなく地方に置かれているのも、あれほど狭い沖縄にあれほど大きな基地があるのも、ブラック企業が存在するのも、大学生さえブラックバイトに酷使されているのも、いずれも弱者に負担を押し付けているという共通構造を持っている。なのにその構造は、今この瞬間にも新しく生まれ続けている。

 なぜ弱者が搾取され続けるのか。それは、我々一人ひとりが、産まれた瞬間から、「搾取すること」に慣らされてしまっているからではないか?電車に乗ったり、車に乗ったり、ピカピカのランドセルを背負って学校に通ったり、発展途上国で生産された安い服を着たり、発展途上国で生産されたパソコンと原発で発電された電気を使ってブログを書いたりすることによって。

 このまま世界は弱者切り捨て型の、殺伐とした社会へと突き進んでいってしまうのだろうか。我々にできることはもはや何も残されていないのだろうか。神は死んだのか。愛は死にますか?ホワイ・ジャパニーズ・ピーポー!?


 と、ひとしきり絶望したらスッキリしたので、本書の紹介に移ろうかと思う。

 本書は、作家の高橋源一郎が朝日新聞紙上に連載していた「論壇時評」を一冊にまとめたものである。

 内容はいずれもいわゆる「政治的」なテーマを扱っている。しかしその語り口は(この国で政治を語るときにありがちな)対立相手を貶めるためのむやみに攻撃的なものではなく、平易で、穏やかで、自分が見たものをそのまま指し示すような、ごく自然なものである。

 その語り口はぼくに、「非暴力主義」ということばを連想させた。

rhbiyori.hatenablog.jp

 以前も書いたとおり、「非暴力主義」とは、暴力に対してなすがままの無抵抗を決め込むことではない。

 むしろ非暴力主義とは、暴力以外の、なんらかの具体的な行動によって、人々の心を動かし世の中を変えていこうという、アクティブでアクチュアルな(って使い方あってる?)考え方のことなのだ。

 本書の中には、「こうしないと世の中はダメになるよ」というような脅しのことばや「こうすれば絶対にうまくいく」というようなことばは出てこない。そのようなことばは、言葉で直接的に他人を動かそうとしている、という点で、暴力性をはらんでいると言えると思う。

 暴力的なことばは、一時的には有効かもしれないが、ずっと続けていく内に暴力性だけが増していき、暴力性によって他人を動かすことだけが目的化していき、やがて本来の目的を忘れた単なる暴力の応酬になってしまうのではないか、という気がする。社会の仕組みや歴史なんかを見ていると。

 では、真っ当なやり方で人を動かすためにはどうすればいいか。

 それはやはり、真実を、ありのままの形で、押し付けることなしに、伝える、ということなのではないかと思う。

 100パーセントの真実を知ることは難しいとしても、少しでも真実に近いと思うことを伝えて、知ってもらって、その上で人の心が動くのを待つ。それがことばによる「非暴力主義」であり、高橋源一郎が目指しているものではないか。本書を読んで、ぼくはそう感じた。

 そのようなやり方は、とても時間がかかるし、非効率的だ。

 それでも高橋源一郎が「ことばの非暴力主義」を貫くのは、暴力によって人を動かしたり人を歪めることはできても、人を育み、希望を育むことはできないから、ではないだろうか。

 希望は、人が自らの手で作り、育てていかなければならないものだ。希望は、他人から奪い取るものではないし、国家や政府が与えてくれるものでもない。

 この本も、希望を「与えてくれる」というようなものではない。もし希望が生まれる方途があるとしたら、この本から希望を「見出す」というやり方によってであろう。ぼくや、あなたが。