- 作者: 高橋源一郎
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2015/04/09
- メディア: 単行本
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動物記、というと、大抵の人は「シートン動物記」のことが思い浮かぶのだろうか。正直に言うとぼくは、読み終わってからGoogleで「動物記」と調べるまで、そのことに気付かなかった。無教養な男である。
- 作者: アーネスト・T.シートン,平沢茂太郎,Ernest T. Seton,藤原英司
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1994/03
- メディア: 単行本
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高橋源一郎が書いたものをずっと読んでいるので、本書に収められた短編小説の「元ネタ」っぽいものはある程度わかる。
例えば「家庭の事情」に登場する「ふつう」の人々(人が動物に置き換えられているわけだが)の「ふつう」の思考と暮らしは、「あの戦争からこの戦争へ」の評論などで取り上げていた、橋本治の小説を思い起こさせる。
- 作者: 高橋源一郎
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2014/12/11
- メディア: 単行本
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「そして、いつの日か」の主人公である、柴犬のタツノスケは、明らかに二葉亭四迷(本名・長谷川辰之助)をモデルとして書かれている。高橋源一郎は「日本文学盛衰史」や「官能小説家」の中で、二葉亭四迷ら文学者が活躍した明治期を、虚実ないまぜに書いている。
「文章教室1」の中で登場する短歌は、ほぼ全てが、穂村弘が「短歌の友人(高橋源一郎が文庫版の解説を書いている)」の中で取り上げたものを、動物に置き換えたものだ。例えば、
たくさんのメスのペンギンがいるなかで
わたしをみつけてくれてありがとう
は、
たくさんのおんなのひとがいるなかで
わたしをみつけてくれてありがとう 今橋愛
のもじりであろう。
- 作者: 穂村弘
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2011/02/04
- メディア: 文庫
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「文章教室2」の中で、アフリカゾウが書いた文章を、真木蔵人のようだと評しているが、「国民のコトバ」という本の中で高橋源一郎は、真木蔵人が書いた文章を激賞している。同じ短編で出てくるベニクラゲの絵手紙は、武者小路実篤が晩年に書いたものだ。
- 作者: 高橋源一郎
- 出版社/メーカー: 毎日新聞社
- 発売日: 2013/03/20
- メディア: 単行本
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このような「元ネタ探し」にどれほどの意味があるかは分からないが、事実の指摘として、ここに書き留めておくことにする。
本書に収められた短篇集には、そのいずれにも、なんらかの形で動物が登場する。なぜ、動物なのだろう?
一般的に動物は、「自意識」と呼ぶべきものを持っていないとされている。自意識が無いというのは、もっと平たく言えば、自他の区別が曖昧だ、ということだ。実際のところは、動物とは言葉が通じないので、わからないわけだが、少なくとも我々人間には、そのように見える。
一方、ほとんどの人間は自意識を持っている(らしい)ので、自分は他人とは違う、固有の名前を持った固有の人間であり、生まれて死ぬまで同一存在であると考えている。
しかし、動物は、そんなことを考えずに生きている(ように見える)。そんなんで生きていけるのだろうか?と、人間であるぼくなんかは思ってしまうが、もちろん生きていける。自意識などというものは、ただ生きるだけならば、ぜんぜん不要なものだからだ。
自意識を獲得した人間は、肉体的には弱いが、道具を使うことで、自然を、動物を、支配してきた。その観点から言えば、人間は強く、動物は弱い。つまり、人間は「ことばを持った強者」であり、動物は「ことばを持たない弱者」である、と言える。
しかし、あえて考えなくてもわかることだが、人間の中にも、「ことばを持った強者」と「ことばを持たない弱者」がいる。というよりも、人は弱者になることで、ことばを奪われてしまうものだ。
「ことばを持たない動物」を「ことばを持たない人」になぞらえるために、高橋源一郎はこれらの小説を書いたのかもしれない。そう考えると、文学者や主婦を「動物化」させた理由がわかる。少々安直な読み方かもしれないが。
動物はことばを持たない、と書いたが、これは正確ではなかったかもしれない。
動物もまた、ことばを持っている。しかし我々人間には、動物たちのことばを聞き取ることができない。なぜなら、聞き取ろうという努力をしないから。 ことばを聞き取ろうという努力をしなければ、たとえ相手が動物であっても人間であっても、ことばを聞き取ることはできない。
というよりも、「ことば」ということばの定義に、動物たちが使っている「ことば」を、含めていない。それでは聞き取れるはずがない。
「ことば」ということばの定義に含まれないことばは、ことばではないのではないか? と思うかもしれないが、それこそが人間の驕りなのではないか、とぼくなんかは思うのである。
「動物=弱者」説が正しいと仮定した上で、表題作である「動物記」を読むと、あたかも著者自身の懺悔であるかのように見えてくる。
わたしが動物の世話をできないのは、彼らがなにを考えているのかわからないからなのかもしれない。動物の世話ができる人間は、彼らの考えや、なにを感じているのかがわかるのだろうか。わかったような気がするのだろうか。わからなくとも気にならないのだろうか。
そもそも、強いものが弱いもののことばに耳を傾けることが、本当に可能なのか? 意味があるのか? その答えは誰にもわからない。誰も保証してくれない。
ひとりの人間にできることは、ただ、あらゆる声に耳を傾けようと努めることだけなのかもしれない。それさえも、無意味で不可能なことなのかもしれない。
それでも、「聞こえない声が存在すること」を指し示すという行為は、可能であるし、何かしらの意味があるのではないかと思いたい。
ほらね! ほらね! ほらね! 私の言った通りだろ! 人間の中でも、子どもたちはわかってるんだ! あらゆる生き物がことばを持っていることを!