高橋源一郎と、SEALDsのメンバー三人の対談を収めた本。
SEALDsの主要メンバーである奥田愛基氏は、高橋源一郎のゼミの受講者だったそうである。知らないところで意外なつながりが。
「SEALDsって、ニュースとかで名前を聞くけど、どんなことしてるの?」と思う人は多いだろう。そういう人がまず初めに手に取る本として、この本は適していると思う。なんせ当事者たちの対談だし。
「チャラついた若者が遊び半分でやってるんだろ?」と思っている人も、本書を読み、そして彼らが実際に活動している動画を見れば、彼らがどの程度本気で活動に取り組んでいるかがわかるだろう。
「どこかの政治団体がバックに付いてるんじゃないの?」と思う人もいるかもしれない。それについては当事者たちのみが知るところであり、「特定の政治団体には組みしない」という彼らの主張を信じるしかない。本書の内容を信じるならば、彼らが全く異なるバックボーンを持った若者たちの集まりであるようだ。
彼らの活動をどう評価すべきなのだろう?「若者が政治参加するのは素晴らしい」と持て囃すべきなのか。「衆愚政治の始まりだ」と嘆くべきなのか。
と、どうも相手が学生だというだけで、僕のような傍観者が「評価する」という上から目線になってしまいがちなのは困ったことである。
僕の知人の一人は、あるSEALDsメンバーのことを指して「○○(彼の所属する学校)の恥さらしだ」と言った。彼らの活動をそのように受け止めている人々も、一定数いるのだろう。
民主制とは、国民一人ひとりが国家の主権を持っている、と考える制度のことである。でも、本当に日本人の一人ひとりが、自分は民主主義国家の成員の一人だと日々意識して暮らしているだろうか、というと、かなり怪しい。
もちろんそんなことを言い始めたら、本当の民主主義国家なんてどこにも存在しない事になる。民主制というのは、あくまでも高邁な理想であって、その理想を追いかけ続けるという運動そのものが、民主主義なのかもしれない。みたいな言い方は、なんだかお茶を濁しているようでもあるが。
SEALDsの活動が、民主主義のあるべき姿なのか?未来への希望なのか?僕にはよくわからない。そしてそれは、この世界中の誰にもわからないことなのだと思う。
未確定なものを、肯定する気にも否定する気にもなれない。でも注意深く見守っていくべきだとは思う。新しい物が生まれるのは、未確定な場所からであると、大抵の場合そう決まっているから。みたいな言い方もお茶濁しがちだろうか。