- 作者: 加藤典洋
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2015/12/19
- メディア: 新書
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現代において、村上春樹、という名前は、ある特殊な響きを持っている。そして、その特殊さを的確に表現する力を、僕は持っていない。困ったぜ。しょうがないから表現できることだけを表現していこう。
現代日本の小説家を思い浮かべるとき、多くの人の頭に最初に浮かぶのは「村上春樹」だろう。割合で言えば「村上春樹」が3割、「大江健三郎」と「石原慎太郎」を足して1割、「東野圭吾」「宮部みゆき」「池井戸潤」「百田尚樹」あたりを足して1割、残り5割が「誰も知らない」といったところだろうか。予想の正確性に自信は全く無いけど。
「普段本を読まない人でも村上春樹の名前だけは知っている」という状況だけを見れば、彼は「国民作家」という(実態のよくわからない)言葉に最も近いポジションにいると言える。
なぜそんなポジションにいるのか? という問いに答えを出そうとすると、それだけで本が一冊くらい書けるだろうし、やはりそれを書く力は僕には無い。
本が売れるから。国民が「国民作家」という存在を潜在的に欲していて、メディアがそれを代弁してもてはやしているから。毎年ノーベル賞候補と目されているから。サリン事件を取材したりして、話題性があるから。
実際のところはよくわからない。
しかし少なくとも、「小説が優れているから」という印象はあまりない。
いや、僕はなにも、村上春樹の小説が優れていないと言いたいわけじゃない。むしろ優れていると思っている。優れまくっている。僕がほぼ全作品を読んでいる小説家は村上春樹と町田康と高橋源一郎だけだ。ときどき読み返したくなるし。なんか言ってることがバカっぽいぞ。まぁいい。
村上春樹の作品はスゴイ。でも、現在の村上春樹の知名度は、そのスゴさのみによってもたらされたものではなく、「話題が話題が呼ぶ」という形で雪だるま式に膨らんでいったものなのではないか、と、感じるのである。僕が。あくまで印象として。
問題は、「村上春樹」というネームバリューの巨大さに対して、「村上春樹作品のどこが優れているか」という議論があまりに少なすぎることなのではないかと思う。
もちろん批評家レベルでは大量の「村上春樹語り」が溢れている。しかし一般の、村上春樹は名前しか知らないというような人たちのレベルで言うならば、ノーベル賞の話題が出ることを考えれば、テレビのワイドショーで「村上春樹のココがすごい!」みたいな特集をやってもおかしくないのではないか。
ではなぜ、村上春樹作品の優れたところを語る言説が少ないのか。それは「村上春樹は、むずかしい」からではないだろうか。というのは別に本書の主張というわけではなく、あくまで僕自身の想像なのだが。今回はやけに「あくまで」が多いな。
なぜ村上春樹はむずかしいのか。本書の主張を思い切り噛み砕いて言うならば(あまり噛み砕かない言い方については他の方のレビューなどを参照していただきたい)「この世界との(人間社会との)向き合い方についての真摯な問いかけが、巧妙に隠されているから」という感じになるだろうか。
よく初期の作品は「デタッチメント」と形容されることが多いが、実際はそうではなく、「否定性」の行方をはっきりと捉えた、当時の時代性を切り取った作品だ、と本書の筆者は言う。
文学はいまやこの種の近代型の「否定性」だけでは生きていけないことを大きく過去に見開かれた目で見通し、低い声で語っていた。(「Ⅰ 否定性と悲哀 2 「新しい天使」と風の歌」より)
「否定性」とはなにか、ということをこれまた大雑把に説明するならば(詳細な説明は本書を読んでいただきたい)、文字通り「なにかを否定すること」を指す。
かつて文学は、家父長制の「父」を、戦争を、国家を、金持ちを、その他多くの「否定的なもの」を否定することによって、初めて成り立つことができた。それを象徴するのが、「風の歌を聴け」における鼠のセリフ「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ」だった。
しかし経済発展を成し遂げた日本では、そのような否定性は没落する運命にある。その後の「羊三部作」における鼠の末路のように。
そして代わりに台頭するのが、架空の小説家デレク・ハートフィールドの著作である「気分が良くて何が悪い?」という言葉に象徴されるような「肯定的なもの(金・酒・いい車など)」の肯定であろう。
ということを、「否定性の没落」という形で描いたのが村上春樹であり、同時期に、「肯定性の台頭」を高らかに歌い上げたのが、村上龍であった、と筆者は言う。
同じような調子で、村上春樹作品がいかに社会に目を向けて書かれたものであるかを、筆者は丁寧に解き明かしていく。
その論旨自体は、おそらく筆者の過去の村上春樹関連書籍と被っている部分も多いと思われるが(手元に無いので確認できないのです)、話がコンパクトにまとまっている分、過去の著作よりも読みやすいと感じた。
rhbiyori.hatenablog.jp
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純粋に慧眼であることももちろんだが、筆者のようにひとつのことを(この場合は「村上春樹」のことを)何十年もかけてじっくりと考えている人というのは、現代のように変化の激しい時代においてはとても貴重なのではないか、というようなことを読みながら思ったりもした。